第九話 禁欲中尉、目覚める陽の気
千景は、一枚の鳥の羽を前に、息を潜めていた。
それは、清晴がどこからか拾ってきたもので、鼻息一つで飛んでしまいそうなほど軽かった。
「西欧における闇魔法は、従来、重力と時間に作用するものだとされてきた。
だが、明治三十八年と大正四年――一般相対性理論と特殊相対性理論が相次いで発表されると、その再検証が進んだ。
結果、闇属性の魔法は“空間”に働く力だと定義づけられたんだ。」
清晴は、風張教授に渡された中でもとりわけ新しい本を指でなぞりながら、静かに説明を続けた。
「闇魔法における重力の作用理論では、空間そのものを歪ませて重さを増減させたり、究極的には瞬間移動すら可能になる。
時間については、まだ理論が追いついていないが――」
「……中尉……無理です。意味が分かりません……。
異能者の皆さんって、そんな難しい理論で異能を発動させてるんですか?」
息で羽を飛ばしてしまわないように、千景は注意深く顔をそらし、むくれた。
「いや――異能は“想像力”、つまりイマジネーションだ。
現実世界に、自分の異能をどんな形で顕現させたいかを強く思い描き、身体の末端から力を解き放つ。
上級者になれば、もう無意識のうちにできるようになる。」
そう言って清晴は、すっと右手を掲げた。
次の瞬間、その指先に青い火球がふっと灯る。
「これが、異能の炎だ。そして――」
彼は口の端を上げると、全身から青白い静電気のような神威を走らせた。
光の糸が絡み合い、鎖のように編まれ、鞭のように風を切ってしなった。
「――これが、俺の神威の一形態だ。」
衝撃で舞い上がった羽が、ふわり、ふわりと机に落ちた。
「すごい……」
思わず息を漏らす千景に、清晴は少し照れくさそうに笑って言葉を足す。
「この力は、神をも束縛できる。」
そして軽く手を叩いた。
「――じゃあ、お待ちかね。実践といこう。
目の前の羽に異能を放って、軽く浮かび上がるように念じてみろ。」
「――こ……こう、ですか……」
言われたとおりに力を込めると、羽はふわりと宙に浮いた。
千景の瞳がまるくなる。
「なかなか筋がいいじゃないか。よし、今度は自在に操ってみろ。」
「はっ……はいっ!」
突き出した手先から放たれる力が、空気を震わせる。
羽は右へ、左へ――まるで生きているかのように、ふわふわと舞った。
「よし。では次だ。
重さを増加させ、元の場所に降ろすんだ。」
「えっ……ええっと、こう、かな……」
加える力を変えた途端、羽は目にもとまらぬ速さで落下――いや、机に衝突し、
その質量からは到底考えられないほど、深くめり込んだ。
「あ……あはははは……」
千景は“しまった”と首をすくめ、清晴の顔色をうかがう。
清晴は一瞬、目を見開いて呆然としたが、すぐに胡乱な視線を向けてきた。
「……おまえ、今、『私、やっちゃいました?』とか思ってるだろ。」
「え……えへ……」
「だろうな。」
清晴は額を押さえ、息を吐いた。
「確かに、この軽さの羽を机にめり込ませるとは見事だ。
だが――“過ぎたるは及ばざるがごとし”。
どんな力も、制御できなければ、ただの厄災でしかない。やりなおしだ。」
それから小一時間、みっちりと特訓を重ね、千景は重力を操って物を動かすコツをつかんだ。
彼女にとって難しいのは、浮かせることよりも――一度浮かせたものを、適切な力で地に戻すことだった。
何度も失敗し、机にいくつも小さなへこみを作った末、ようやく感覚を掴んだときには、
千景は肩で息をし、額に細かな汗を浮かべていた。
「よし。しかし、重力増加の方に才があるなら……攻撃向きかもしれんな。
空間を圧縮して刃のようにしたり、重力場を操って敵を動けなくしたり――そんな応用もできそうだ。」
興奮気味に語る清晴の横で、千景の身体がぐらりと傾いだ。
「おっと……調子に乗って、少し無理をさせ過ぎたな。」
倒れ込んできた彼女を抱きとめ、そっとその額に唇を寄せる。
途端に、陽の気が流れ込み、苦しげに寄せられていた眉間が緩んで、静かな表情が戻った。
「ふ……ぅ……」
千景は大きく息を吐き、そのまま穏やかな眠りへと落ちてゆく。
「おい、寝るな――……まったく、仕方のないやつだ。」
腕の中であどけない寝顔をさらす千景を見つめながら、清晴は、胸の奥にふとこみあげるものを感じた。
それは、長らく凍りついていた彼の心を溶かし、
眠りについていた陽の気の奔流を――静かに、しかし確かに――目覚めさせるものだった。
――くそ……だめだ。この気持ちは――危険だ。
理性が警鐘を鳴らす。
清晴は、噛み殺すように唇をかみしめた。
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結局、異能の訓練の初日は千景の寝落ちで終わった。
今後数日間は、この会議室で小さな魔力を繊細に操る術の体得に、専念することとした。
訓練の段取りを決めた清晴は、
中野にある陸軍士官学校異能科の学舎が所有する演習場を借りる手続きを進めるため、
千景を先に帰らせた。
――千景は、十分に戦闘向きの力を有している。
自室の布団に横たわり、天井の木目をぼんやりと見つめながら、清晴は今日の出来事を反芻した。
――風張教授から譲り受けた書籍の通りなら、
千景の異能は、現在の帝国陸軍の誰も持たぬ特別で強力なもの。
士官学校の教官では、誰も彼女を導けない。
十把一絡げの訓練では足りない。
――だが――もし彼女が“モノ”になれば、
これから発掘される闇の異能者たちに教えを伝え、
その才能を開花させるための最初の礎となるだろう。
――この金の卵を……俺の手で孵化させたい。
今はまだ粗削りなその異能を、二人で磨いて洗練させ、
味方には崇敬と畏怖を、敵には恐怖と絶望を即座に見せつけ、植え付けたい。
千景にはそれができる。
とりとめのない思考の中、清晴はそっと目を閉じた。
まぶたの裏に浮かぶのは、腕の中であどけなく眠っていた千景の面影――。
――俺の手で仕上がった彼女を従え、戦場に並び立てたなら……どんなに誇らしいだろう。
そう思ってしまい、そして、思ってしまった自分に狼狽える。
――だめだ。これ以上、考えては……これ以上、欲してはならない。
心臓がどくどくと、嫌なほどに高鳴っていた。
自分のこの気持ちが何なのか――。
武人として、優秀な弟子を前にした高揚なのか。
それとも――。
清晴には、この感情に名を付けることができなかった。
いや、付けたくもなかった。
それが危ういものであることを、理性も本能も、はっきりと告げていた。
己の内に宿る陽の気が、鎌首をもたげるのを感じ、
清晴は布団の中に身を滑り込ませ、小さく体を丸めた。
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異能の訓練を始めてから数日後――。
いよいよ、中野の学舎へ赴く日がやってきた。
清晴は、特務局が数台だけ保有している自動車のうち一台を借り出し、移動手段とした。
「ああ、外に出るなんて、陸軍に来て以来ですよ。
久しぶりの外出が自動車なんて――ワクワクしちゃいますね!」
後部座席に乗り込みながら、千景は興奮を隠せない様子だった。
エンジンは、局舎の近くまで運んできたときのままかけっぱなしで、
乗り込むと、体の芯まで響くような振動が伝わってくる。
「将校さんともなると、自動車も運転できるんですか? すごいですね。」
「若い者だけだ。年寄りは怖がって、まず乗ろうともしない。
それに――局長は絶対に運転しない。初めて乗ったとき、調子に乗って生け垣に突っ込んだらしい。」
清晴は少し得意げに運転席へと座ると、ハンドルに手を掛ける。
ゆっくりと局舎を出て、五分も経たないうちに――
千景の気分は、天国から地獄へと叩き落とされた。
絶え間なく続く振動に、体は座席の上で跳ねるように揺れ、
ガソリンと排気の混ざった刺激臭が鼻を刺す。
やがて、比喩ではなく本気で吐き気が込み上げてきた。
「大丈夫か! 気分が悪いなら、一旦休むぞ!」
エンジン音にかき消されないよう、清晴が声を張り上げた。
「だ……大丈夫です……! あと十五分で着くなら、耐えられます!」
千景も負けじと叫び返す。
その刹那、タイヤが石を踏み、車体が大きく跳ね上がった。
「んぐっ――!」
千景は舌を噛まぬよう、慌てて口を閉じた。
やがて辿り着いたのは、一軒の大きな邸宅の前だった。
車が停まると、千景はいそいそと降り立ち――そこで、周囲を見回して首をかしげる。
どう見ても軍の施設ではない。
「ここは――?」
「ああ、俺の実家だ。
こちらに来るなら、いい機会だと思ってな。ついでに用事を済ませようと思って。
なに、少し挨拶して、物を受け取るだけだ。君も一緒に来い。」
促されて一歩を踏み出すが、三十分も自動車に揺られていた身体は、
まるで全身をあんまで揉まれたように感覚が鈍く、
前のめりにたたらを踏んでしまう。
「おい、大丈夫か。」
「すみません……なんか、身体が言うことを聞かなくて……」
苦笑した千景を、清晴は素早く抱きとめて立たせ、
そのまま肩を支えながら門をくぐった。
自動車のエンジン音は、静かな邸内にまで届いていたのだろう。
門をくぐるやいなや、女中が姿を現し、清晴に深々と頭を下げた。
「すまんが、この人を少し休ませてやってくれ。俺の部下だ。
このあと訓練なのだが、どうやら車に酔ってしまったようだ。」
清晴が言うと、女中は「まあまあ」と大仰に声を上げ、水を持ってこようと台所へ駆けていった。
「いらっしゃい、清晴。清明も来てるし、史郎さんももういらしてるわ。」
女中と入れ違いに、奥から一人の老婦人が姿を現した。
美しい白髪を肩で切りそろえ、落ち着いた色合いの着物を品よく着こなしている。
相当な高齢と見えるが、背筋はすっと伸び、そこに宿る気品には圧倒されるものがあった。
「お祖母様、ご無沙汰しております。」
清晴が口の端に微笑を浮かべて言うと、
彼女はうなずき、ゆるやかに千景へと視線を移した。
「清晴、そちらの方は?」
「ああ――俺の直属の部下で、深山千景君。今は仮任官の身です。」
清晴の紹介に、千景は慌てて深く頭を下げた。
「深山千景です。お世話になっております。」
老婆は千景を静かに見つめ、そして、穏やかな笑みを浮かべる。
「清晴の祖母、斎部りよと申します。」
その微笑に、千景の背筋が自然と伸びた。
斎部りよは、どこにでもいそうな、取り立てて特別ではない老女なのに――
いざ目の前にすると、背筋を伸ばさずにはいられない、不思議な威厳を湛えていた。




