第七話 新しい軍服と、女の子の必需品
「おはよう。よく眠れた?」
今泉の脱走から一夜明けた朝、
救護室を訪れた静香の腕には、外国語で書かれた三冊の本が抱えられていた。
清晴たちは本来なら、昨夜のうちに官舎へ移る予定だったが、千景の身を案じて泊まり込みとなった。
そのうえ、脱走の際に使われた催眠薬の影響で体調を崩した将兵も数名おり、救護室はにわかににぎわっている。
「……野戦の露営よりは、かなりマシ――と言っておこう。」
これまでこっそりと隣の空きベッドを仮眠に使っていた清晴だったが、昨夜は椅子に腰かけ、千景のベッドの端に突っ伏したまま眠った。
しかも、隣のベッドの軍曹が、悪魔の唸り声のようなイビキをかいており、眠りが浅く浮上するたび、その音が夢の中にまで追いかけてきた。
静香は小さく笑みを浮かべ、周囲に素早く視線を走らせると、カーテンをぴたりと閉めてベッドの端に腰を下ろした。
「清晴、深山さん。良い知らせか悪い知らせか分からないけれど――今泉が死んだわ。」
「は?」
思わず声を上げた清晴に、静香が眉をひそめて“静かに”という視線を送る。
「死んだって……どういうことですか?」
千景も声をひそめて問うと、静香はさらに顔を寄せ、囁くように言った。
「今朝早く、海軍軍令部の正面玄関前で、今泉の遺体が見つかったの。
今、検死に回ってるけれど、一般人による殺害は考えづらいって話よ。」
「……なぜだ。元陸軍軍人で、異能特務局から脱走した奴の死体が、どうして海軍の施設に?」
今度は、清晴も同じように声を落として問う。
「――たぶん、あの集会の情報を特務局に流したのが海軍の諜報部だったから。
“それくらい分かっているぞ”っていう牽制だと思うわ。」
「……陸軍の施設が厳重で、手を出しづらかったという可能性は?」
「無いと思う。」
静香はその当たり障りのない一言を、あえて普段の声量で言った。
それから、抱えていた本を千景の膝の上にそっと置き、にっこりと笑う。
「風張教授から、さっそく本が届いたの。渡しておくわね。
――それと、局長から連絡があって、しばらくの間なら局舎の第三会議室と、地下演習場を使っていいそうよ。
もし実践が大規模になりそうなら、中野の学舎にある野外演習場の使用許可もすぐ下りるって。覚えておいて。」
「会議室は、今日から使えるのか?」
清晴が尋ねると、静香がうなずいた。
「ええ。」
――第三会議室なら、防音結界が張られている。
壁面には強化結界も施され、外部への干渉はほとんど遮断されるはずだ。
清晴は、局舎北隅にあるその部屋の様子を思い浮かべながら、静かに思案した。
「ちょっと、清晴……まさか、このまま訓練を始めるつもり?」
顔色を変えた静香に、清晴はさも当然といった様子でうなずいた。
「ああ。次に黒曜会が動くのがいつになるか分からん。それまでに、千景を実戦に出せるか確認しておかねば――」
「ったく……これだから、あんたって男は!
千景さんは“女の子”、つまり“女性”なのよ?
服はとりあえず下士官の支給品でいいとしても、最低限の生活必需品くらい揃えなきゃ、今夜からどうやって暮らすつもりなの!」
「……兵站部の被服廠に申請しておけば――」
「そういうことじゃないのよ……。
第一、兵站部に申請したって、特務局に届くのは早くて数日後よ。
それに、櫛とか髪結い紐とか、女性特有のものはそもそも扱ってないの。」
静香は、水を得た魚のように、開いた口が止まらなくなっていた。
「あなたが女性に興味がないのは、長い付き合いで重々承知してるけど、
千景さんが直属の部下になる以上、それは“興味がある・ない”の問題じゃなくなるの。
特務局は、唯一、女性が戦闘員として配属されている部署なんだから――
未来の部下のためにも、これを機会に知ろうと努力しなさい。」
「……」
言い返せずに押し黙った清晴は、憮然と手元を見下ろした。
「くくく……八代中尉殿相手だと、禁欲中尉殿も形無しだな!」
カーテンの向こうから上がった笑い声に、静香は思わず顔を赤らめ、清晴はますますうなだれる。
「……なんか、すみません」
巻き込まれただけの千景も、気まずそうに眉尻を下げた。
カーテンの内側で静香に教えられながら、千景は初めてカーキ色の軍服に袖を通した。
「戦闘力があるって分かって、あなた自身が望めば、将校に任官される可能性もあるわ。
その場合は軍服を自費で買うことになるから、出費は覚悟しておいてね。」
徽章の留め方を教えながら、静香が言う。
「私、もう士官学校に入れる歳じゃないですよ?
学校に行かずに、将校になるなんて……あるんですか?」
「ええ、ないわけじゃないの。異能特務局は特殊だから。
戦闘に活かせるほどの能力を持っていること自体が、すごく貴重なの。
もちろん誰でもすぐに、というわけじゃないけれど、毎年、数名は任官されているわ。
そもそも他兵科では、陸軍大学校を出ないと昇進は絶望的だけど――
特務局だけは、戦績や功績、そして神威や異能の強度しだいで、中将までは上がれるのよ。」
彼女は襟を整えながら、「他兵科への転属はできないけどね」と付け足し、千景の胸を軽くポンと叩いた。
「まあ、お金で困ったら――清晴でも、局長でも相談しなさい。
あなたの事情はみんな分かっているから、きっと力になってくれるわ。」
そう言って、カーテンが開かれた。
千景が真っ先に目を合わせたのは、清晴だった。
彼は一瞬、目を見張り――そして気恥ずかしげに視線を逸らす。
「おおーっ、特務局きっての美人伍長殿の誕生だぁ!」
「いい体してんなぁ、ほら、軍服着たって……」
「いや、軍服だからこそ、こう――」
目を覚ましていた将兵たちの下品な感想が耳に入る。
それを聞き洩らす清晴ではなかった。
「貴様らぁっ! 無駄口を叩けるとは、よほど元気が有り余っていると見える!
すぐに支度をして持ち場に戻れっ!」
「そんな殺生なぁ~!」
清晴に睨まれた将兵たちは、そそくさと布団へ退避していった。
「千景さん、気を悪くしたらごめんなさいね。
異能特務局は、他兵科と比べても雰囲気が軽くて――ああいう軽口も日常茶飯事なのよ。」
「いえ……大丈夫です。」
千景は少し首をすくめ、静香を見たあと、清晴のもとへ歩み寄った。
救護室をほぼ一週間ぶりに出て、最初に連れていかれたのは、局舎内にある将兵用の売店だった。
「静香が言っていたような“女の必需品”はそろわないかもしれないが、とりあえず、次の休日まで我慢してくれ。」
静香に言われたことがよほど効いたのか、清晴が気まずげに言ったのがおかしくて、千景は思わず吹き出してしまう。
「大丈夫です。とりあえず生きていくのに必要なものさえそろえば――」
千景は自分の全財産が入っているがま口の中身を思い浮かべながら、果たして最初の給与まで足りるのか、とうっすら心配になる。
そんな千景の心配を知ってか知らずか、清晴は自然と表情を緩める。
「何でも好きなものを買え。支払いは俺がする。君の入営祝いだ。」
「え?」
千景が目を見張ると、清晴は先に売店の中へ入り、
これからの生活に必要そうなものを次々と棚から取りはじめた。
「おや、清晴さん。新人さんかい?」
帳場でうとうとしていた店番の老婆が、顔を上げて声をかける。
「ああ、おソメさん。初めて直属の部下を任されたんだ。
深山千景だ。ちー・かー・げ―。覚えた?」
嬉しさを隠しきれない声音で、清晴が答える。
「そりゃあ、よかったねぇ。じゃあ、男気を見せなきゃねぇ。たーんと買ってっとくれ。」
老婆はコロコロと笑った。
「彼女は、初代局長の縁で、特務局創設のときからここに勤めてる。
いわばヌシだな。少しボケが始まってるが、昔から伍長から中将まで全員を下の名前で呼ぶんだ。」
どこか嬉しそうに、少し得意げに話す清晴を見ていると、
千景の胸の奥まで、じんわりと温かくなっていく。
――異能特務局なんて、特別な人たちが何をしているのかも分からない、遠い世界だと思っていたけれど……
案外、普通の人たちが、普通の営みをしている場所なのかもしれない。
それなら、私も――やっていけるかもしれない。
千景は、歯磨き粉のチューブを手に取りながら、そっと微笑んだ。




