第六話 この国の真理
「今泉が消えた? そんな馬鹿な――奴は地下の拘留室にいたはずだ!」
清晴は思わず立ち上がり、焦りをにじませた声で答えた。
静香は一瞬、千景に視線を走らせたのち、「一般人に聞かせても良いのか?」と清晴に目配せする。
「大丈夫だ。彼女も先ほど軍属となった。しばらくは“仮任官”だが――俺の直属として動いてもらう。」
清晴がうなずいた。
静香はなおも疑わしげに眉をしかめたが、やがて千景の方へ身体を向けた。
「八代静香よ。異能特務局では、特務中尉という階級で呼ばれているわ。
清晴とは士官学校からの相棒で、公私を問わず背中を預け合う仲なの。」
静香は軍人らしいさわやかな笑みを浮かべ、千景へと手を差し出した。
千景はその手を見つめ、恐る恐る布団の下から自分の手を伸ばす。
「深山千景です。お世話になります。」
静香はぎゅっとその手を握り、すぐに放した。
「詳しいことはこれからだけど、催眠性のある薬品が使われたようなの。
見張りや尋問官が軒並み昏倒していて、今は処置室で応急処置を受けているわ。
程度の酷い者は、これからこちらに運び込まれるでしょうね。」
「薬品……?」
「ええ。残念だけど、状況からして軍内部に内通者がいる可能性を疑わざるをえない――と、局長からのお達しよ。」
静香は、無意識のうちに一瞬だけ千景へ視線を投げた。
それを目ざとく見ていた清晴は、不快を隠さなかった。
「千景はシロだ。俺とずっと一緒にいた。
それに俺は今泉を捕らえた小隊の指揮官だ――我々が内通者であるはずがない。」
「ごめんなさい、疑っているわけではないのだけれど……私もあなたのこと、よく知らないから――」
「いえ、当然です。」
申し訳なさそうに眉を下げた静香に、千景はきっぱりと言い切った。
「まあ、この特務局で士官が“特定の上官の下につく”とか、“特定の相手と組む”という命令が下った場合、
その相手とは一心同体として扱われる――という不文律があるのよね。
あなたが清晴の直属となった以上、あなたもこの件に直接かかわることになるわ。」
静香は、暗に「自分が被害者になった事件に関わる覚悟があるか」と問いかけていた。
千景はほんの少し視線を落とし、それから顔を上げた。
「私も、真相を知りたいです。」
そう言って、千景はまっすぐに静香を見つめた。
その様子を見ていた清晴も、満足げにうなずき、口を開く。
「君も知っているかもしれないが、今泉はもともと、この異能特務局の局員だった。
風の異能の使い手で、最終階級は特務中佐。
しかし、一身上の都合で退役した――それが今からおよそ一年前のことだ。
黒曜会と接触したのが在任中なのか、退役後なのかは定かではないが、
奴は今や幹部の一人として、怪しげな交霊会や秘術で資金集めを行っているらしい。」
「黒曜会……って……なんですか?」
千景がおずおずとたずねると、清晴は「そこからか」と渋い顔をした。
だが、今度は静香が言葉を継いだ。
「黒曜会とは、あなたを生贄にして儀式を執り行おうとしていた、秘密結社よ。
交霊術や呪術をかたって会員を集め、今やその正確な規模は、我々にも把握しきれていない。
総帥は来栖宗真――。
名前しかわかっていないうえに、それも本名ではないらしいの。」
「会の真の目的も、いまだによくわかっていない。
だが――短期間で急拡大した裏には、精神に強く作用する危険な薬の数々を用いている可能性が指摘されている。
例えば、君が投与された“アストラル”――
人間が本来持つ潜在的な力を引き出す――という触れ込みだが、
実際には異能者に対して強い全能感や多幸感をもたらし、極めて依存性が高い。
風張教授も、そう言っていただろう。」
清晴の言葉を咀嚼しながら、千景は小さく首をかしげた。
「新興宗教……ではないんですか?」
「いいえ。あくまでも秘密結社よ。
何か神や仏を崇め奉っているわけでも、総帥の来栖を神格化しているわけでもないの。
だからこそ――何を目指しているのかわからない。
そこがまた、一段と不気味なのよね……」
静香が、ゆるやかに首を横に振った。
「黒曜会は、政府の要人や文化人、海軍や陸軍の将校――
ひいては、異能特務局の内部にまで魔の手を伸ばし、会員を増やしている。
先日の集会の参加者も、官僚や財界人の夫人、そして愛人たちだったと判明し、いまや火消しに大わらわだ。」
清晴が憮然と言い放った言葉に、千景は息をのんだ。
「……あの人たち、捕まらないんですか?」
愕然とする千景を、清晴と静香は顔を見合わせ、痛ましげに目を伏せる。
「ああ。参加者の中には、降嫁された元内親王や子爵家の御令嬢もいた。
世間への影響を鑑みて、箝口令が敷かれている。
おまえも、軽々しく口に出さぬよう気をつけろ。」
「そんな……」
千景が絶句すると、静香も少し身を乗り出し、静かに言い含めた。
「残念だけど――身寄りのない女の子の命よりも、華族や権力者の夫人たちの名誉のほうが重い。
それが、この国の真理なのよ……。
だから、あなたが特務局に仕官するって決断をしてくれて、本当に良かった。
もし民間に戻っていたら――確実に、消されていたでしょうね。」
――四民平等って……何のことだったかしら。
静香の「真理」という言葉は、
千景の胸に、消えない波紋を刻んだ。
「とにかく、“アストラル”は軍内部にも広く浸透していて、
それが黒曜会の急速な拡大につながっていると見られている。
陸海軍の双方で、すでに軍政上の危機として扱われているんだ。
近々、黒曜会を反社会的勢力として指定する動きもある。
だが現状では、異能特務局と憲兵、それに警視庁が、秘密裏に捜査や検挙を進めている段階だ。」
「そのことだけど――局長が、更に捜査体制を細分化する方針を出したわ。
誰が内通者かわからない状況で、組織を大きくするのは危険だ、という判断ね。」
静香の言葉に、清晴はわずかに眉をしかめた。
「じゃあ、今後はこの三人で?」
「いいえ。基本は、あなたと深山さんの二人で組む形になるみたい。
私は補佐にまわる方針だそうよ。」
「……補佐、か。あんたが現場にいないと、やりづらいな。」
「――清晴、そんな顔しないで。
完全に切り離されるわけじゃないわ。」
静香が苦笑すると、清晴はようやく、自分が無意識のうちに心細い顔をしていたことに気づいた。
彼はつるりと頬を撫で、無表情を取り繕う。
静香は何も言わず、ただ静かに視線を逸らした。
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「今泉導師――何か、言い訳をしなければならないのではないかね?」
東京市内某所。
豪奢な洋館の一室で、今泉誠二は、手足の震えを必死に隠しながら、一人の男と対峙していた。
相手は、来栖宗真。
四十をいくつか越えた壮年の男であり、黒曜会の総帥だった。
「……儀式に踏み込まれ、大切な会員を危機にさらし、
あまつさえ自らも囚われの身となりましたこと、深く反省しております。
しかしながら、会員の救済と、私の救出にご尽力いただいたことは、まことにもって――」
「ちがう。そうじゃない。」
来栖は鋭い眼光で今泉を黙らせると、
机の脇に据えられた一本の支柱――その上に置かれた、大きなガラス玉を指さした。
ガラス玉の内部は空洞で、もやもやとした白いガスが満ちている。
その中を、薄紫に光る小さな蝶が数匹、ひらひらと舞っていた。
「君が儀式を行った、あの時――この中の一匹が、大きく光り輝いた。
ほら、この子だよ。」
来栖が指さす先には、他の蝶よりも紫の色が濃く、一回り大きな蝶が横切っていく。
「これが何を表すか――私は君に、しっかりと教えたはずだが。
私が気づかないとでも思ったかい? 見逃すとでも思ったかい?
……なぜ、“闇の乙女”が見つかったというのに、儀式を続行し、その命を奪おうとしたのだ?」
来栖の凍るような視線に、今泉は、歯をガチガチと鳴らしながら、ガラス玉を凝視した。
そのガラス玉は舶来の魔具であり、来栖が莫大な金を積んで輸入したものだと今泉は知っていた。
中を舞う蝶は、周囲に存在する異能者の“因子”の数と状態を示し、
今は――闇の異能者の数を映していた。
「しかし――参加者の中には、園子元内親王がいらっしゃいましたし、
すでに一万円を超える大金が動いておりました。
生贄が“闇の異能者”だとわかった時には、もう引き返せない段階にあったのです。」
「――私は、言っておいたはずだ。
『闇の異能を持つ女を見つけ次第、いかなる場合も、生きたまま私の下へ連れてくるように』と。
それなのに――おまえは金に目がくらみ、やっと見つけた神聖な乙女を、金持ちの豚どもに食わせようとしたのだ。」
来栖の額に青筋が浮かび、右手がゆっくりと掲げられる。
指が空をつかむように、静かに閉じられた。
「あっ……がっ……!」
次の瞬間、今泉は喉を押さえて苦しみ出した。
目を見開き、声にならない声を漏らす。
「我ら異能者の未来のため、原始なる女神の降臨のために――
闇属性の乙女を手に入れることは、黒曜会の悲願だ。
金など、些細なことにすぎぬ。
……儀式を間一髪で止めた斎部のガキには、今度ばかりは感謝せねばならないな。」
来栖は、にやりと笑いながらも掲げた腕を下ろさなかった。
「しかも――奴は、闇の娘に大層ご執心らしいな。
“禁欲中尉”が形無し、か……。
あの娘が斎部の嫁となるなら――ますます僥倖だ。」
そう言うと、来栖は一層強く拳を握り締めた。
今泉の喉から、いやな音が漏れ、彼はガクリと脱力する。
ようやく来栖が手を開くと、今泉の身体は無様に床に転がった。
「そいつを片づけろ。明朝、軍令部にでも放り込んでやれ。」
来栖が短く命じると、どこからともなく男たちが現れ、息絶えた今泉をズルズルと引きずっていく。
「待ってろよ、斎部清晴。おまえの神威も、妻神も――、全て、私がこの手に取り返してやる。」
重厚な木製の扉が静かに閉じられたあと、来栖はガラス玉の蝶を眺めながら、ひとり呟いたのだった。




