外-終 白梅、春を告げて
大正十二年。
冬の寒さが緩み始め、風の中に春の気配が香り始めた、三月のことだった。
冬中体調がすぐれず、床に伏せがちだった斎部りよは、その日、久しぶりに身体が軽かった。
白粥の朝餉をいつものように食べ、昼前には斎部医薬化学商会の社長と会う約束があった。
史郎の死から早半年と数か月が過ぎ――新社長も斎部の縁者から選ばれたが、最初は混乱があったものの、年明けまでには落ち着きを取り戻し、経営も安定している。
りよは経営に口出しはさしてしないものの、社長はあしげく彼女に面会し、経営状況を報告し、時折助言を求める。
「自分は、ただの退役軍人よ――」
そう言いながらも、りよは彼に会うのを楽しみにしていた。
社長が来るまでの間、彼女は縁側に座り、庭を眺めていた。
紅梅は見ごろを過ぎて、今は白梅が満開。花はこぼれんばかりに咲き誇り、枝から枝へと、メジロが可愛い姿を時折のぞかせる。
うららかに春の陽射しは温かく、時折吹く風が、心地よかった。
「ああ……良い香りが、ここまで……」
りよは目を軽く閉じ、深呼吸で春の空気を胸いっぱいに吸い込むと、ゆっくりとそれを吐き出した。
そうすると、木々や草花の精気が身体の隅々まで行き渡り、目や耳、手足の感覚まではっきりとしてくるような気がした。
息をすべて吐き切り、身体中がすっかり新しくなったような心持ちで、ゆっくりと目を開けた。
梅の木から、メジロが飛び立つ。
『りよ――』
呼びかけられたような気がしてそちらに目をやると、花影から一人の男が、枝をよけながら出てくるところだった。
ハシバミ色の単に角帯を締め、藍染めの羽織を羽織っている。
その瞳は、晴れ渡った空の色――、長年連れ添った夫、斎部清孝だった。
「清孝さん――」
思わずりよが庭へと降りようとすると、彼は手でそれを制し、縁側へとやってきた。
彼女の隣に腰を下ろすと、そっと手を伸ばして肩を抱き寄せた。
『……冷えている。』
彼はそう言うと、着ていた羽織を脱いでりよへと着せかける。
「今日はこんなに陽射しが温かいから、大丈夫ですよ。」
りよが照れながら彼を見上げると、清孝はわずかに眉をしかめた。
『いや、油断をしてはダメだ。』
「もう、心配性なんだから……。ああ、でも、あったかい……」
りよは羽織の襟を合わせると、清孝へと体重を預けた。
「でも、清孝さんの方が、ずっとあったかいです。」
目を細めたりよを見て、清孝は満足げに頷き、羽織の上から彼女をそっと抱きしめた。
「……清孝さん。ここ一年は、本当にいろいろありました……。
史郎さんが亡くなったり、隼人くんが亡くなったり――。
そうそう、清晴に婚約者が出来たのですよ。
ふふふ……本当にあの子、一時はどうなるかと思ったけれど、ちゃんと素敵なお嬢さんを見初めて――」
彼の腕の中で、りよはぽつぽつと近況を話す。
清孝は、優しげに目を細めながら、彼女の話に耳を傾けていた。
「もう間もなくね。清至さんたちから、清晴たちへと代替わりになるわ――。
そうしたら、やっと私も肩の荷が下せる。
まあ、時子さんは神威を失っても、まだまだ前線で活躍されるおつもりみたいですけれど――。」
りよが苦笑すると、清孝は彼女の髪を撫でながら微笑んだ。
『そうか――全てお前に任せてしまって、苦労をかけたな……』
「いいえ、斎部家のために役に立てていると、楽しかったですよ。
充実しておりました。」
『――私がいなくても、そなたは平気だったようだな。』
清孝の拗ねた口調に、りよは吹き出して彼を抱きしめ返す。
「そんなわけないじゃないですか。
あなたがいなくて、とても寂しかった――
うっかり声をかけて、あなたがいないと気が付いた時。
決断を迫られて、どうしていいか尋ねたいとき。
独りで眠る布団――
どれだけ私が心細くて、寂しかったか――」
『そうか――』
泣き出しそうなりよの顔を、清孝はしっかりと見つめた。
やがて、おとがいに指をかけ、そっと彼女の顔を上向かせると、
清孝は彼女の唇にそっと口付けを落とす。
触れるだけの口づけだったが、唇から彼の陽の気が流れ込み、久しぶりに感じるその感覚に、りよは身震いした。
唇が離れると、清孝も泣きそうな微笑を浮かべ、もう一度彼女を抱きしめた。
『お疲れ様……もう、一緒に眠ろう……』
彼のその声に、りよの身体からゆっくりと力が抜けて行く。
やがてまぶたを下すとき、りよは愛しいその人の微笑を瞳に刻み付ける。
やがて意識はゆっくりと闇にほどけていったが、
彼のぬくもりの中で何も怖くなかった。
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「大奥さま――、清晴さまがいらっしゃいましたよ。
まあ、大旦那様の羽織なんて持ち出して――」
縁側に主人を見つけた女中頭は、半ば呆れた口調で呼びかける。
彼女は縁側の陽だまりの中、六年前に亡くなった夫の羽織を被って、横たわっていた。
「いいよ、お祖母さまもお疲れなのだろう。
急に来てすまない。」
清晴はそう言って、苦笑しながら祖母のもとへ歩み寄った。
明るい陽だまりの中、縁側の先で白梅の花が、静かに春を告げていた。




