外-七 指輪を渡す午後
秋も深まったある昼下がり、千景はひとりで喫茶店の椅子に座り、持参した読みかけの本を開いていた。
今日は非番で清晴と外出していたのだが、
彼にはどうしても済ませねばならない用事があるらしく、彼女を喫茶店に残したまま席を外していた。
外出の途中で席を外すことはあらかじめ告げられていたので、暇つぶしに持ってきた本――
それは最近はやりの詩集で、神津毛出身の作者による作品だった。
活字に視線を走らせながら、千景はこの夏、駆け抜けた神津毛の風景を思い出す。
何も知らなければ、遠い知らない田舎――
都会で生まれ育った自分にとっては、異世界に等しい作者の世界を、ただ覗き見るだけだったかもしれない。
だが、現実の風景と、草の香り、土の臭い、生々しい記憶と感覚が重なったとき、
千景は、肌に直接触れられるような妙な感覚に襲われ、
その心は、完全に外界とは隔絶されていた。
「……千景さん?」
不意に、声をかけられた。
すっかり神津毛に心を飛ばしていた千景は、びくりと身を震わせ、ゆっくりと瞬きをしてから顔を上げる。
喫茶店のソファーに沈む身体の輪郭と、心の輪郭とが一致せず、妙な浮遊感の中、ぼんやりと目の前の男を見た。
きっかり三秒、見つめて。
相手が誰かを理解した瞬間、千景は目を見開いた。
「佐太郎さん?」
ため息まじりに漏れた千景の声は、わずかに震えていた。
相手は、この三月まで彼女の許嫁だった、加藤佐太郎。
千景を、黒曜会の幹部だった今泉誠二に紹介した張本人でもある。
相手が千景だと確信に変わった佐太郎は、
なつかしさと気遣い、そしてわずかな非難と罪悪感が入り混じった、
何とも言えない表情を浮かべると、可否も問わず、彼女の前の席に腰を下ろした。
千景は即座に店内へ視線を走らせ、この場から逃げ出すべきかと思案を巡らせた。
――でも、清晴さんには、ここで待っているように言われたし……
不用意に動いては、かえって心配させてしまうわ。
彼女の困惑に気づく様子もない佐太郎は、着ていた薄手のコートを畳みながら、
千景の連れだと思って注文を問いに来た給仕に、当然のようにコーヒーを注文している。
釈然としない気持ちが、静かに溜まってゆくのを確かに感じながら、千景は詩集をぱたんと閉じた。
「で――、千景さん。こんなところで、何しているんだ?」
わずかに咎めるような声音の混じった問いに、千景は無表情のまま、気持ちを呑み込んで答える。
「人を待っているだけよ。」
「――へぇ……人を、ねぇ。」
含みを持たせた声で、佐太郎は千景の姿を、舐めるように上から下まで眺め回した。
その視線の居心地の悪さに、千景は思わず身体を縮こまらせ、わずかに身じろぎする。
「――それ、パリ・ド・ピケの新作だろ……。銀座の丸越でしか扱ってないやつ。」
「そうなの? よく知らない。」
「俺は分かるよ。これでも、洋装店の卸担当だからね。」
わずかに得意げな佐太郎の声音に、千景の気分は、底へと沈んでいった。
「人から贈られたものだから――よくわからないわ。」
そう、いま彼女の身を包んでいるものは、すべて清晴が自ら選び、彼女に贈ったものだった。
千景は、それがどのブランドの品で、どれほどの値が付くものなのかには、まったく興味がない。
ただ一点、清晴が彼女を思って選んだ品である――その事実だけに、価値があった。
それを佐太郎に値踏みされることは、
千景の気分を最低まで落とすには、十分すぎるほどだった。
「人から贈られた……ねぇ。ははぁ、わかったぞ。
君、まさかそんな卑しい身の上に堕ちるとはねぇ。
今泉氏が音沙汰なくなって、どうしたものかと心配していたが――
それなりに、うまくやっているようじゃないか。
純朴な君が、大物の愛人とは、恐れ入ったよ。
いや、純朴だからこそ、そういった御仁の心に付け込んだのか。」
佐太郎の唇が、下卑た笑みに歪むのを見て、千景はすっと目を細めた。
「……そんなんじゃないわ。」
「まあまあ――よし。じゃあ、相手が誰だか当ててやろう。
それだけの洋服を、恩着せがましくもなく買い与えるんだからな……
もし当たったら、そいつを紹介してくれよ。」
「――お断りよ。それに、あなたはきっと当てられない。」
千景は、明らかな怒りを胸に、背筋を伸ばして佐太郎を真正面から見据えた。
その時、喫茶店の入り口で、カラカラとベルが鳴り、一人の客が入って来る。
ソフト帽に、仕立てのいい背広。
瀟洒なトレンチコートを軽く羽織った、すらりとした――だが、たくましい体躯。
「清晴さんっ!」
千景は周囲の視線も気に留めず、立ち上がると大きく手を上げ、愛しいその名を呼んだ。
清晴はすぐに気づき、視線で千景を捉えた。
再会に表情が緩んだ、その瞬間――彼女の前に、見慣れぬ男が座っていることに気づき、即座に表情を曇らせる。
テーブルの間を縫って素早く千景のもとへ歩み寄ると、
驚いた表情で見上げてくる男を、見下ろす形で睨み据えた。
「――君。俺の連れに、何か用かな?
彼女、困っているようだが……」
「え……あ、いや――別に、困らせていたわけでは……。
私は、千景さんの旧知の仲で――」
言い淀む佐太郎を、清晴は黙って見つめ続ける。
それだけで、相手は勝手に挙動不審になった。
清晴は腹の内で、どう振る舞うのが最善かを一瞬だけ量りつつ、
何も言わず、千景の横に立つ。
千景は、明らかにほっとした表情で彼を見上げた。
そして手を伸ばし、彼のコートの腰あたりを、くしゃりと掴む。
「……あの、こちら、加藤佐太郎さん……。
父が亡くなるまで、許嫁だった方なの。
三月に、行き場がなくなった際には――
その……“今泉家の女中の仕事”を、紹介していただいた……」
ためらいがちで、含みのあるその言葉を、清晴は正しく受け取る。
そして、威圧をたっぷりと含んだ無表情で、佐太郎を見下ろした。
「ああ……あなたが――そうですか。
その節は、千景がお世話になったようで。
私からも、礼を申し上げます。
千景は、私どもの方で保護させていただきますので、
どうぞ、ご心配なく――」
口の端をわずかに持ち上げ、にやりと笑みの形を作ると、
清晴は千景の手を取り、引き寄せた。
そして、これ見よがしにその腰へと手を回し、
親密な様子を、はっきりと見せつける。
佐太郎はその手を、驚いたように見つめたが、すぐに歪んだ笑みを浮かべた。
「良い人に、お世話になっているようだね。
かつての許嫁として、君の今後が心配でね。
連絡先など、いただけると嬉しいのだが――」
下手に出てきた佐太郎に、千景は眉をしかめ、清晴へと助けを求める。
清晴はそれに応えるように、千景へ一度だけ微笑みかけると、
懐から名刺入れを取り出した。
「――千景は、我が家にとっても、
そして私個人にとっても、非常に重要な人物だ。
何かあるのなら、私を通してほしい。」
清晴は名刺をテーブルに置き、指先で、すっと押しやる。
佐太郎もまた、吸い寄せられるようにその名刺へと手を伸ばした。
「……陸軍特務中尉……斎部?!
あの斎部家か? やはり、千景さんを――」
「貴様に、どう思われようと構わない。
だが――変な気は、起こさないでくれたまえ。」
そう言うと清晴は身をかがめ、
佐太郎にだけ聞こえる声量で、静かに釘を刺した。
「彼女を、利用しようなどとは考えないことだ。
そんな真似をすれば――斎部家も、異能特務局も、
貴様を敵とみなす。」
それだけ告げると、清晴は再び冷たい笑みを浮かべ、
千景を促して席を離れた。
給仕に多めの紙幣を握らせると、
二人はそのまま、さっさと店を出て行く。
佐太郎は、しばらくのあいだ、
固まったまま、運ばれてきたコーヒーを見つめているほかなかった。
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「ありがとうございました。
急に声をかけられて、居座られて……少し、困っていたんです。」
並んで歩きながら千景が見上げると、清晴はどこか照れたように、優しげな苦笑を浮かべた。
「いや……一人にしてしまって、すまなかった。
怖い思いをさせたな。」
「いいえ。
それより、用事は無事に済みましたか?」
そう尋ねると、清晴は先ほどの威圧などどこへやら、
信じられないほど照れた様子で、ふいと視線をそらす。
「ああ……実は、君に渡したいものがあってな。それを取りに行っていた。
あの喫茶店で渡そうと思っていたんだ。
まさか、あんなことになっているとは、思わなかったが……」
「そ……そうだったんですね。
どうします? 別の喫茶店に行ってもいいですけど……」
「……いや。
何だか――興が削がれた。」
「ですよねぇ……」
苦笑した千景は、ここに来て初めて、
無遠慮に話しかけてきた佐太郎を、少しだけ恨めしく思った。
「……少し、歩こうか。」
そう言って差し出された清晴の手を、
千景は迷わず取った。
二人はあてどなく歩き、やがて大きな公園へとたどり着く。
陸軍練兵場跡地に作られたその公園は、西欧風の洒落た造りで、
東京でも屈指のデートスポットとして知られている。
静かな木陰に置かれたベンチに腰を下ろし、二人は肩を寄せ合った。
清晴はコートのポケットを探り、
おもむろに、小さな箱をひとつ取り出す。
「――これを、君に……受け取ってほしい。」
「何かしら……」
千景は半ば予想しながらも、胸を高鳴らせ、
そっと蓋を押し開いた。
中には、ひとつの指輪が収まっている。
白金の地金に、シンプルに 金剛石 がはめられた指輪だった。
「まぁ……これ――」
千景が頬を赤らめて見上げると、
清晴は照れ隠しのように箱を取り上げ、指輪を指先でつまみ上げる。
そのまま千景の左手を取り、
薬指へと、そっと指輪を滑らせた。
「その……婚約指輪、というものを、
男が女に贈ると聞いたんだ。
それをしていれば、この女には、
すでに決められた人がいると、
内外に示せる、と――」
清晴はそう言いながら、
次第に頬から耳まで真っ赤に染め、
やがて、ぼそぼそとした声量にまで落ちていく。
「……いつも、身につけていてほしい。
任務に支障が出ないよう、できるだけシンプルにした。
呪 を刻んで、
俺以外には、外せない仕組みだ……」
「……そ、それって……」
「ああ……独占欲、だよ。
笑ってくれて、構わない。」
清晴は、その指輪のはまった薬指に、そっと口づけを落とした。
二人の周囲から、すべての音が消えてしまったかのように、
千景は、そんな気がした。
それから彼女は、指輪のはまった左手を掲げ、
金剛石を陽にきらめかせると、
彼が口づけを落としたその場所に、
自らも、そっと唇を落とす。
本当は、彼の唇に口づけたかった。
けれど、真昼間の公園では、とてもできなかったのだ。
その様子を見ていた清晴は、
さっとあたりを見回すと、
そっと彼女を抱き寄せ――
ほんの一瞬、
その唇へと、口づけを落とした。




