外-四 海と因習のあいだで
「兄さん、今月分の報告だ。上官からの許可も取ってきた。――くれぐれも、取り扱いには注意してほしい。」
九月も半ば過ぎ、中野の斎部邸。
川村清明は、分厚い封筒を対面に座る兄――斎部清晴へと差し出した。
清晴は中身をちらと確認すると、封筒の紐留めに、異能特務局謹製の護符を手際よく貼りつける。
しかるべき手段で開かなければ、中身ごと瞬時に焼失する、厄介な代物だ。
「……しかし、本件に限っては、軍令部は本当に協力的だな」
護符の結界の感触を確かめながら清晴がつぶやくと、清明は卓上の茶碗を一口すすった。
「まあ、異能特務局には“それなりの対価”を払ってもらっているからね。
……しかし難儀だよ。味方であるはずの陸軍内部――878部隊の情報を、**海軍の諜報部**に問い合わせないと、夜もおちおち眠れないなんてさ。」
「……陸軍は大所帯だからな。一枚岩というわけにはいかん。
それに――やはり異能特務局は、いつまでたっても“外様”だ。」
黒革の手提げ鞄に封筒をしまい終えた清晴は、ふと思い出したように問いかけた。
「そういえば、そちらの異能科の設置の件は、どうなった?」
清明は茶を置き、いかにも事務的に、しかしどこか誇らしげに答える。
「昨年の軍縮で、思いがけず予算が捻出できたそうでね。
予定より一年前倒しで、開設が決まったよ。
これからは、異能者だからといって陸軍に志願しなくても済む時代になる――というわけだ。
もっとも、女性の登用はまだ見合わせるらしいが。」
「そうか……。黒曜会の件で肩身の狭い“こっち”とは、えらい違いだな」
清晴のぼやきに、清明は肩をすくめる。
「まあ、そのためにも――秘密裏に異能特務局には協力してもらっている、というわけさ。
ただ、そちらのように“異能を持っているだけで下士官以上扱い”にするかどうかは……まだ不透明だね。」
今度は、出されていた羊羹を楊枝で刺しながら、清明は淡々と言葉を継ぐ。
「――なぜだ。異能者は、下士官だって一個小隊分の働きをする。
なのに、海軍は“一兵卒として扱おう”というのか?」
眉をひそめる兄を見て、清明はそっと目を伏せた。
――兄の思考が、どうしても“陸の論理”から離れられないことを悟ったのだ。
「兄さん、海軍はさ……基本は軍艦に乗り込んで洋上に出ることなんだよね。
甲板で異能がどれほど役に立つのか――まだ未知数だけれど、陸軍みたいに“ひとりで一個師団の働き”なんて……ちょっと無理じゃないかな、ってね。」
「そう……か。」
複雑な面持ちのまま押し黙ってしまった兄をしばらく見つめ、清明は小さく息をついてから茶をすすった。
そして、まるで空気を入れ替えるように話題を変える。
「そういえば――千景さんはどうしている?
その様子だと、順調に和合が進んでいるみたいだけど。式は、いつなんだい?」
あまりに唐突で、あけすけな弟の問いに、清晴は思わず激しく咽た。
「――ち、千景は……元気にしている……。
式はまだ未定だ……。いろいろと各方面に調整が必要で……な。」
「そう。なら、よかったよ。」
清明はほっとしたように息をつき、しかしすぐに余計なひと言を付け足す。
「本当に、兄さんって――そういう話、全然なかったからさ。
てっきり“あっちのほう”なのかと思っていたよ。
……いざとなったら、俺が頑張らねばならないかと――」
「――お前は、兄を何だと思っている……」
二ッと笑った弟の白い歯を恨めし気に眺めてから、再び茶を口に付けた。
「式の日取りが決まったら早めに教えてくれよ?
まあ、出られるかはわからんが。」
清明は懐中時計で時間を確かめながら立ち上がると、軍帽を被って鞄を持ち、席を立って行った。
――海軍の将校は、自分の結婚式も出られんことがあるというしな……
白い夏衣の背中を見送りながら、清晴は再び茶をすすった。
+++++
中野の、どこか埃っぽい道を、清明は駅へ向かって歩いていく。
海軍将校の白い第二軍装は、このあたりではいやでも目を引くらしく、
実家の知り合いたちは、見つけるなり嬉々として声をかけてきた。
しかし、実家からの距離が少しずつ開いてゆくにつれ、
いつのまにか人影もまばらになり、声をかけてくる者もいなくなる。
軍帽を目深にかぶり直してから清明は自然と歩調を緩め、静かな思考の底へと沈んでいった。
――あの兄さんが、
斎部の男らしく“恋愛の果て”に相手を自ら選び、
そのうえ婚前交渉まで成し遂げるとは……。
まったく、恐れ入ったものだ。
兄の瞳の色については、あえて口にはしなかったが、
確かにあの青は、父と同じ色へと変わっていた。
兄の硬派ぶり――陸軍内では“禁欲中尉”と揶揄されているらしいことも、
清明はすでに承知している。
生まれ落ちた瞬間から課せられた役目ゆえ、
軽々しく誰かと同衾するなど許されない立場であることは、
弟である自分にも痛いほどわかっていた。
その兄が。
たった半年ばかりの間に、まるで別人のように変貌し、
婚姻を待たずして一線すら越えてみせたのだ。
「――斎部の呪い……か。
本当に、恐ろしいものだ……」
思わず漏れた独り言に、清明は自分でどきりとした。
かくいう清明も、純然たる童貞だった。
斎部清至の次男として生まれ、幼い頃に母方の川村家へと養子に入った。
祖父・川村貞一は海軍大将を務めた人物であり、
清明自身もまた、幼少のころから品行方正を求められて育った。
もちろん、悪友に花街へ誘われたことなど、一度や二度ではない。
だが――。
――家の因習で、兄より先に純潔を失うと、何が起こるかわからない。
そう思うと、いつも口をつぐんで断った。
実際のところ、“何が起こるのか”など、本当に誰にもわからなかったのだ。
その兄が、自分の嗅覚で、自らの運命の女を選び、
そして――その手に抱いた。
「……俺は、恋愛で妻を選ぶなど、許されないからなぁ……」
ふと漏らした声に、思わず清明は歩みを止めた。
海軍士官の結婚は、決して自由なものではない。
妻となる女には、それ相応の家格や身分、教養が求められ、
たいていは親やら上官やらが見繕ってくる。
ましてや、川村家は海軍の中でも名のある家だ。
将来の“義父候補”など、思い浮かべようと思えば具体的に名前が出てくる。
そのうえ、自分には――斎部宗家の血も流れているのだ。
――もし、俺にも……“斎部の男”らしく、運命の相手が現れたら。
そのとき、自分はどうするのだろう……。
ためしに、兄嫁となった千景の立場――
行き場のなかった没落社長令嬢が、ふと自分の前に現れる様を想像してみる。
……無理だ。
清明は、ゆっくりと首を振った。
因習ゆえに“自由に運命を選べた兄”と、
そもそも“運命を選ぶことすら許されない自分”は、
あまりにも遠かった。
再び、土埃の舞う道を歩き始める。
ふと、清明の脳裏に、ある疑問が浮かんだ。
――そもそも、海軍で“異能科”を設置したら、婚姻はどうなるのだろう……。
もちろん、陸軍将校とて、無尽蔵な恋愛結婚が許されているわけではない。
結婚の手続きは海軍と同様に煩雑で、
家柄・素行・親族関係・学歴までも審査されると聞く。
だが――。
ひとつだけ、その枠組みから外れている組織がある。
両親の話によれば、異能特務局だけは“結婚規定が軍全体の例外”になっているという。
異能者は、異能者を伴侶に迎えることが多く、
国もまた、それを暗に推奨していた。
なにより――“異能を持つ”という一点は、
家柄よりも、身分よりも、教養よりも、
あらゆる条件に優先するのだ。
――そういう特別扱いが、異能者の“外様化”に一役買っていると思うんだけどなぁ……。
苦笑しながら歩みを進めつつ、
これから大変になるぞと、心の底で舌を巻く。
清明は先日――
年明けを目途に、
参謀本部から
「諜報部を離れて、異能科立ち上げに参加しないか」
と打診されたばかりだった。
彼自身は、ごく弱い“水”の異能を持つにすぎず、
そのために海軍へもすんなり志願できたのだが――。
血筋をたどれば、斎部宗家と川村家の双方に連なる立場。
海軍と陸軍・異能特務局の“あわい”に立てる者として、
白羽の矢が立ったのだ。
「そろそろ――海が恋しかったんだけどなぁ……」
小さく声に出して呟き、
とっくの昔に覚悟は決まっている自分に、
清明は鼻で笑った。
そして、鞄を持ち直すと歩みをわずかに速める。
中野停車場は、もうすぐだった。




