外-三 十銭白銅貨
年末も押し迫ったある日、清晴は大本営にほど近い喫茶店へ呼び出された。
向かい合って座るのは、士官学校時代から――そしてつい四月まで相棒として肩を並べてきた、八代静香。
黒曜会事件の折、彼女は敵方の徳井に利用され、結果として清晴を危地へ追いやった。
その咎により、静香は半年の謹慎を命じられていた。
つい先日、その期間が明けて局に復帰したばかりである。
黒曜会事件は闇に葬られることとなり、静香に科された処分も、正式な記録から抹消される運びとなっていた。
「……清晴、おめでとう。もう、二人で暮らしているのよね……」
ウェーターが置いたコーヒーに手を付けず、静香は揺らぎひとつない水面を見つめたまま言った。
「ああ。九月から、局内の夫婦用官舎で暮らしている。」
清晴は、コーヒーにミルクを一滴だけ落としながら応じた。
その声音には、ほとんど感情の色がなかった。
「あの時は……ごめんなさい。
あいつが士官学校からの同期だから――よく確かめもしないで、すっかり信じてしまったの。
後から聞いたけれど……もしあの時、あいつの思惑どおりになっていたら――取り返しのつかないことになっていたって……。」
「……いいさ。全部、終わったことだ。」
清晴は、揺れる水面をただ黙って見つめ、一口コーヒーを口に運んだ。
「……そうね。終わったこと、ね……。」
静香はそう呟くと、しばらく言葉を失った。
二人のあいだでは、コーヒーカップから立つ湯気だけが、ゆらゆらと柔らかく揺れている。
「――君が、第十九師団に……朝鮮方面の招集に志願した、と聞いた。」
今度は清晴が沈黙を破った。
静香はゆっくりと顔を上げる。
だが清晴の視線は、テーブルの一点に落ちたままだった。
「ええ。少し……帝都を離れようと思って。
もう年明けには、向こうに行くわ。」
「――寂しくなるな。」
思いがけない言葉に、静香はわずかに目を見開いた。
だがその驚きはすぐにしぼみ、代わりに、苦笑が痛むように眉を歪めた。
「もう……私がいなくたって、寂しくなんかないでしょう?
あなたには、千景さんがいるもの。」
「……あれとお前は――別物だよ。」
清晴は、言い捨てるようにして再びコーヒーカップへ手を伸ばした。
「……自覚していないなら、ひどい人だわ。
わかっていて言っているなら……最低だけど。」
静香は笑ってみせた。
だがその語尾には、どうしても涙がにじむ。
とっさにハンカチを取り出し、目元をそっと押さえた。
「ねぇ……千景さんと出会わなければ――
私たち、結婚していたかしら?」
――これが最後。
だから、せめて悔いが残らないように。
謹慎中、胸の底で何度も反芻した“もしも”を、静香はとうとう口にした。
清晴はコーヒーを一口すすり、しばし思案したように視線を落とした。
「……そうだな。そうだったかもしれない。」
「――っ」
静香は堪えるように息を呑み、声を殺して俯いた。
「でも――」
カチャリ、とカップをソーサーに戻す小さな音がして、清晴は続けた。
「そうなっていたら、きっと……お互い、幸せにはなれなかったと思う。」
「そんなこと……わからないじゃない……」
涙の混じる声で返した静香に、清晴はようやく視線を上げた。
その瞳は、まっすぐに静香だけを見ていた。
「いや。
俺たちが十八の、多感な時期から……二十五まで。
何もなく“相棒”として過ごしてきた――その事実が、全部物語っている。」
「……本当に、酷い人ね……」
「ああ。酷いと思う。すまなかった……」
清晴はすっと背筋を正し、そのまま静かに頭を下げた。
静香は、思わず息を呑んで清晴を見つめた。
「俺は……おまえに甘えていたと思う。
相棒だからと、自分の人生にも、おまえの人生にも――真剣に向き合ってこなかった。
その結果……“女性としていちばん大切な時間”を、俺が奪ってしまった。」
静香もまっすぐに彼を見つめ、それからクシャリと顔をゆがめた。
「そんな風に言わないで……。
あなたが相棒で、とても楽しかったし、充実していたわ。
あなたと過ごした時間は――確かに、青春だったのよ。」
いつしか静香は、泣きながら微笑んでいた。
清晴はコーヒーを飲み干すと、一度ゆっくりと目を閉じた。
まぶたの裏には、士官学校の日々や、任官したばかりの頃の静香とのやり取りが、淡くよみがえる。
そして短く息を吐き、席を立った。
「――静香。……今までありがとう。息災で。」
「……清晴も。千景さんと、お幸せに。」
涙に揺れる声に、清晴はもう一度だけ静香へ視線を送り、椅子の背に掛けていた外套を手に取ると、
二人分の代金を置いて店を後にした。
残された静香は、冷めきった手つかずのコーヒーの前で――
声を押し殺して、静かに泣いた。
清晴は、年の瀬で慌ただしさを増す街の中を一人あてどなく歩いた。
今日は非番で、局の官舎を私服のまま発ってきた。
この用件のことは、千景には告げていない。
――何となく。
静香と別れたその足で、すぐ官舎へ帰る気分にはなれなかった。
鈍色の空は低く垂れこめ、やがてちらちらと雪が舞い始めた。
日本橋に差し掛かる頃には本降りとなり、清晴の被っていたソフト帽にも、コートの肩にも、うっすらと雪が積もり始めていた。
欄干に腕を載せて体重を預け、清晴はぼんやりと川面を眺めた。
荷を積んだ小舟が、せわしなく橋梁の下をくぐっては行き来していく。
「よぉ、兄ちゃん。……飛び込むんかい?」
不意に背後から声がした。
振り返ると、人懐っこそうな壮年の浮浪者風の男が、
ほろ酔いの赤ら顔でニコニコと立っていた。
「いや。ただ、川面を見ていただけだ。」
清晴がそう答えると、男はウンウンと何度も頷いた。
「そりゃあそうよなぁ。
こんな寒い日に川なんか飛び込んだら、ひとたまりもねぇ。
……兄ちゃんみてえな好い男はよ、
もっと気楽に、生きりゃあいいのさ。」
そう言うと男はポケットをごそごそと漁り、
十銭の白銅貨を一枚取り出して、清晴の手にぐいと押し込んだ。
「まあ、そこの店で一杯やってさ。
それから、かみさんのところへ帰んな。」
あばよ、と片手を上げると、
男は年末の人込みへと紛れ、あっという間に姿を消した。
清晴はしばし呆然と、男の去った方角を見つめていたが、
やがてゆっくりと視線を手の中の白銅貨へと落とした。
清晴はどうしようかと思案した末、
結局その白銅貨をポケットにしまい込んだ。
いつの間にか陽は落ち、街灯がぽつぽつとともり始める。
その明かりの下で、気づけばさっきまでの感傷が幾分か薄らいでいた。
身体の芯まで冷え切っていたらしく、思わず身震いする。
清晴は襟元を正し、ゆっくりと市ヶ谷の方へ歩き出した。
東京駅前に差しかかったとき、香ばしい匂いがふっと鼻をくすぐった。
アセチレンランプの灯りに引かれるように近づけば、
屋台では中年の男が今川焼を忙しなく焼いている。
――買って帰ったら、千景は喜ぶだろうか……。
手際よく返されていく生地を眺めていると、
清晴は小さく息を吐き、決意を固めた。
「おやっさん、五つばかりおくれ。」
「へい、十銭だよ。」
言われてポケットから例の白銅貨を取り出し、店主に差し出すと、
「おまけだぃ」
と、男は六つ包んで渡してくれた。
清晴は、温かな包みを胸に抱え、家路を急いだ。
気がつけば、彼の心を占めているのは――千景のことばかりだった。




