外-一 異能特務局、苦い要望と甘い計らい
「さて……本当に、困ったねぇ。」
八月上旬。
局長室には、特務局の各方面を束ねるトップたちが、秘密裏に集められていた。
局長・室井は難しい顔のまま、自らの手で一人ひとりに資料を配っていく。
紙束を受け取った者たちは、憤りをあらわにする者、深いため息をつく者、沈痛な面持ちでうなだれる者――さまざまであった。
「本日、諸君に集まってもらったのは……その資料の通りだ。」
室井は机の上に肘をつき、ゆっくりと組んだ指をほどく。
「大本営から、我が“異能特務局”へ――この度の事件を受けての“要望”が、正式に届いた。」
「要望と言っても、どれくらいの強制力なんだ?」
声を上げたのは、海野幸昌特務中将――清至の盟友にして、室井の実弟であった。
室井は資料を閉じ、低く応じた。
「……全てを突っぱねるのは難しい。だが――中には、先日の件があったとしても到底承服しかねるものもある。
まるで我々を軍人として扱っていない……いや、人間と思っていないような要求まである。」
淡々と言いながらも、その声音には微かな怒気が混じる。
「そうした“度を越えたもの”については、こちらとしても断固として拒絶するつもりだが……
とりあえず上から順に諸君の考えを聞きたい。」
室井は、資料の紙束を机に置くと、懐から眼鏡を取り出し、ゆっくりとかけ直した。
そして淡々と読み上げ始める。
「まず――一つ目。
“異能科を一兵科として扱い、特務局という特別組織を廃し、他兵科と同様に各部隊へ配属すること”――。」
静まり返った室内に、誰かが小さく息を呑む気配が走る。
「……一つ目からキッツいなぁ。」
ぼそりと呟いたのは、解呪班長・篠崎朝彦特務大佐であった。
「そんなの無理だ。異能科はもう生態からして普通の人間と違うんだよ。
士官学校の課程だって全然違うし、女子だっているし、神威持ちは更に因縁やら因習やらに縛られるものも多い。
十把一からげに他兵科と混ぜられて、一斉点呼なんて、土台無理な話だ。」
まくしたてた篠崎の意見に、一同は深くうなずいた。
「私も、この案には承服しかねる。
――まあ、この草案を提出したのが工藤中将閣下だと聞けば……諸君らも察してくれるだろう。」
室井が苦笑まじりに名前を出すと、室内は一斉にざわめいた。
眉をひそめる者、苦笑いを返す者――反応こそ違えど、“ああ、やっぱり”という空気は同じだ。
工藤是光中将。
陸軍内でもとりわけ異能特務局や異能者を毛嫌いすることで知られる、参謀本部次長である。
「工藤閣下か……。
では、これは陸軍大臣閣下のお考え――というわけではないのだな?」
顎を撫でながら尋ねたのは、異能者筆頭の斎部清至特務中将であった。
室井は深くうなずく。
「ああ。さすがにこれは暴論だと見なされたらしい。
その代案として――特務局を陛下直轄から外し、参謀本部付に“格下げ”してはどうか……と。
まあ、実質的にはそういう話だ。」
「まあ、致し方ないだろうが――次のも酷いじゃないか。
“全局員の異能・神威の詳細をリスト化し、有用と判断された者は878部隊へ配属する”って……。」
海野は資料を握りしめ、机に叩きつけんばかりの勢いで言い放った。
「奴ら、俺たちをハツカネズミか何かだと思ってやがる。」
再び語気を荒げる海野――だが、それも無理はない。
878部隊とは、化学兵器・生物兵器の研究を専門とする、陸軍内でも“触れてはならない”と恐れられる部隊だった。
「私も同感だ。しかも……あいつらはすでに何名か“ご指名”で要求してきている。
とりわけ――深山千景くんを“永久配属”させてほしい、と……」
室井の言葉に、清至がびくりと肩を震わせた。
「……“うちの嫁”を、だと?
永久配属って――奴ら、解剖してホルマリン漬けにする気満々じゃないかっ!
あの――狂科学者どもが!!」
ダンッ、と机を叩く大音が室内に響いた。
清至の声は怒号というより、底冷えする“殺気”に近かった。
「落ち着け。
私とて、大切な局員を――たとえ軍部内と言えども――実験台に供出するつもりは、ハナからないよ。」
室井は両手を軽く上げ、清至の怒気をなだめるように言った。
だが続く言葉のほうが、むしろ重かった。
「ただねぇ……あいつら、黒曜会の件を、どこからか嗅ぎつけてしまっていてね。
まあ、恐らくは工藤閣下の差し金だろうが――深山くんに“強い興味”を持ってしまったようだ。」
室内にひやりとした空気が走る。
「彼女が出せないなら、と。
代わりに“アストラル”の現物と資料を提出せよ――と、要求してきている。」
「……“アストラル”かぁ……」
誰ともなく漏れた呟きに、室内は再び重い沈黙に包まれた。
次いで、一同は揃って頭を抱えるように、眉間へと指を押し当てる。
特務局の上層部で、この薬を知らぬ者はいない。
かつて、コウ――徳井隼人が、特務局内での資金集めと、手勢確保のために、裏で売りさばいていた魔法薬。
かの薬が、どれほど多くの異能者を廃人にし、どれほどの部下を“死なせた”か――
それを肌で知る者ばかりだった。
中には、目の前で中毒死した者を抱えた者もいる。
依存症に堕ち、任務に立てなくなった若い隊員の末路を見届けた者もいた。
思い出したくない記憶が、一斉に胸へこみ上げてくる。
「あいつら、“アストラル”で何をしようとしているんだ?」
篠崎がつぶやくように言うと、それまで発言を控えていた帝大医学部の風張教授が、静かに手を上げた。
「……最近、あやつらは“肉体を強化する薬剤”の研究にご執心のようでね。
“アストラル”の成分も、どうやらメタアンフェタミンの一種と短絡的に判断している節がある。
それか――」
風張は一度、口をつぐみ、眉間を押さえた。
「……いや、まさかとは思うが……」
教授の声は、最後の一語だけかすかに震えていた。
「もったいぶらないで、言ってくださいよ。」
篠崎が先を促す。
風張はしばらく逡巡し、首をひねって考えこむと――やがて、静かに首を横に振った。
「……いや。思い過ごしだろう。
まさか、深山くんの例が878部隊に“漏れている”とは考えられまい。」
会議室の空気がピン、と張りつめる。
「“アストラル”の成分は、異能者にこそ強く作用するが、一般人には精々、高揚感を与える程度の代物だ。
彼らとてじきに気付くはずだよ――“異能者でなければ意味がない”とね。」
最後の一言には、教授自身がその事実を恐れているような響きがあった。
「来栖の邸宅から押収した資料一式を渡すだけにしてはどうだろうか。
……少なくとも、現物を渡すよりははるかに安全だ。
心配なら、一、二枚ほど“紛失”しておけばいい。
どのみち、科学畑のあいつらに作れる代物ではないさ。」
風張は、にやりと口の端を上げた。
彼は帝大に籍を置く身とはいえ、特務局の将官位も保持している。
立場はどこまでも“局側”――迷う余地など微塵もなかった。
それからも、いくつかの“提案”を一同で揉んでいった。
そのまま受け入れるもの、形をわずかに変えて承認するもの、そして――断固として拒絶すべきもの。
ひとつひとつ分類を終えると、室井は書類を揃えながら重い息を吐いた。
「しかしなぁ……。
海軍に続いて陸軍にも軍縮の要請が来ているせいか、こちらもだいぶ足元を見られたものだ。」
書類を置いた手でこめかみを押さえつつ、室井は一同を見渡した。
「諸君の提案は、必ず通るよう全力を尽くす。
だから、引き続き任務に励んでくれ。
――局として、この苦境を乗り越えるためにもな。」
すると、機を見計らっていた清至が、静かに立ち上がった。
背筋を伸ばし、一同に向けて深々と頭を下げる。
「此度の黒曜会事件――。
我が斎部家の縁者が引き起こしたこと、斎部宗家当主として深く陳謝する。
ついては、次代への継承にも目途が立ったゆえ、近々、責任を取って軍を退こうと思う。
……本当に申し訳なかった。」
重く静かな声に、会議室の空気が揺れた。
一同は戸惑い、互いに顔を見合わせる。
その沈黙を破ったのは室井だった。
「清至――それは言いっこなしだ。」
室井は手を軽く上げて、清至の言葉を制した。
「黒曜会の総帥は来栖宗真。
幹部はあくまで、コウ――だ。
斎部史郎殿は末期がんが見つかり病没、徳井隼人中尉は黒曜会捜査中に殉職したことになっている。」
室井は一拍置き、静かに続けた。
「軍の公式記録に“斎部家の責任”など存在しない。
――それでいいんだ。これ以上、自分を責めるな。」
「しかし……」
言い募ろうとした清至の肩に、海野がにやりと笑って近づき、どん、と背中を叩いた。
「気にするなって。
それより――おまえの倅と嫁御が、一番の功労者で、一番の被害者だ。
まずは、あの二人をいたわってやれよ。」
清至が顔を上げて周囲を見回す。
その場にいた誰ひとりとして、彼を責め立てる者などいなかった。
むしろ静かに、深くうなずく者ばかりだ。
「……すまない。
――ありがとう。」
清至は、わずかに俯きながらも、しっかりと礼を述べた。
「清至、ちょっと待ってくれるか。」
散会後、局長室を出ようとした清至の背に、室井の声がかかった。
清至は足を止め、局長の机まで戻ってくる。
「なんだ?」
首をかしげる清至に、室井は机の引き出しをがさりと漁り、
一通の封筒を取り出して差し出した。
「これだ。」
清至が受け取ると、室井は声をひそめる。
「878部隊の件な……。
あの場ではああ言ったが、実のところ、あいつらはかなり千景くんに本気でな。
身内とは言え、正直——何をしでかすかわからん。」
室井は苦々しく顔をしかめ、続ける。
「そこでだ。今は世の中も騒がしい。
――二人には、熱海でも慰安旅行に行ってもらいたい。」
清至は、室井と手元の封筒を見比べ、一拍置いて封を開けた。
中には、熱海までの鉄道乗車券。
旅館の案内。
そして、その旅館宛ての紹介状が静かに収まっていた。
「――部屋が一つのようだが……」
封筒の中身を見ながら言い淀んだ清至に、
室井は懐から煙草を一本取り出し、くわえたまま苦笑した。
「ああ。それなんだがな。
ここはひとつ、清晴くんに“男になって”もらおうと思ってな……」
煙草を指で軽く弾きながら、室井は続ける。
「あの二人――千景くんは妻神に“内定”しているが……その……まだ、なんだろう?」
言いづらそうにしながらも、室井は自分の目元を指さしてみせる。
それは暗に、“清晴の目がまだ夫神の色に変わっていない”ことを示唆していた。
「あ……あぁ……。たぶん、そうだな。」
清至も、どこか気まずそうに言い淀んだ。
「878部隊の連中がどれだけ常識外れでも、斎部宗家の奥方に手を出すほど馬鹿じゃないと思う。
だからな――早々に二人には“既成事実”を作ってもらって、
軍としても、正式な夫婦として扱った方がいいと思ったんだ。」
室井は煙草に火をつけ、ふっと煙を漏らす。
清至は納得したようにうなづき、封筒を懐にしまいながら問いかけた。
「……では、祝言も早々にさせるか?
そうすれば、神威の継承も済んだことにできるが――」
室井は首を横に振る。
「いや、それはまだでいい。
大事なのは、“あの夫婦神の色彩”を二人にまとわせること――まずはそこだ。」
「別に熱海に行かせなくても、夫婦用の官舎でも宛がってやれば、事は成るだろうに――」
清至がぼそりと言うと、
室井はチッチッと舌を打ち、指を振ってみせた。
「わかってないなぁ。
世俗を離れ、旅の空。
若い男女が海辺の旅館に二人きり――。
そのロマンチックなムードの中で、忘れられない一夜。
そういうのが“良い”んだろうが。」
「……そうか?」
どうにも腑に落ちない顔の清至に、
室井はここぞとばかりに追い打ちをかけた。
「すまん、そういえば――
おまえは必要に駆られて“学舎の救護室で”だったな。」
室井のとどめの一言に、
清至は年甲斐もなく頬を赤く染めた。
「……確かに、清晴に渡す。」
そう約束すると、
どこか気まずそうに一礼し、そそくさと退室していった。




