最終話 ふたりの居場所――特務少尉と妻神と
それからほどなく、九月に入る前に、二人は東京へと戻った。
世間はなお騒がしかったものの、主要な被害者の多くがすでに絶命していたこと、そして軍の入念な情報操作もあって、報道はようやく沈静化の兆しを見せていた。
特務局への出頭を命じられた日の前日、
二人はまず中野の斎部邸へと赴いた。
駅まで車で出迎えに来た家令は、清晴の顔を見ると、一瞬驚いた顔をしたが、いつもと変わらぬ調子で言った。
「……思ったより日に焼けておりませんねぇ。
せっかく熱海へ行かれたのなら、海水浴でもなさったのかと思いましたよ」
そののんきな言葉に、清晴は憮然とした表情で短く返す。
「――そんな気分にならなかった」
「まあまあ、若様は史郎さまに懐いておられましたからねぇ。
お元気そうだったのに、急に亡くなられるとは……。がん、だとか。あれは恐ろしいですなぁ」
「ああ……」
千景は思わず清晴を見上げたが、
彼は軽く首を振って千景を制した。
察した千景も、何事もなかったかのように前を向く。
やがて斎部の屋敷へ到着すると、
二人を出迎えたのは珍しく清至と時子だった。
「――父さん、母さん。
どうしたんだ? 中野に二人そろっているなんて、珍しいじゃないか」
二人の来訪は清晴も聞かされておらず、驚きを隠せない。
「ええ……まあ、たまにはあなたの顔も見たいと思って。
それにほら、頼まれていたあれこれもありますしね。
それと、お義母さまが――お盆を過ぎてから少し体調を崩されていて……」
時子は二人を座敷へ通すと、
「少し待っててね」とだけ言い、何かを取りに奥へ去っていった。
千景は小声で囁く。
「……誰も、清晴さんの目の色のこと……触れませんね」
清晴は気まずそうに眉をひそめた。
「……それは、俺の目の色が変わるということが、
この家で“何を意味するか”を――
みんな、正しく理解しているからだろう」
「……正しく?」
いぶかしげに問い返した千景に、
清晴はますますいたたまれないらしく、視線を明後日の方向へそらした。
「……その……つまりだな。
俺が――婚姻もまだなのに、君に……手を出した、ということが……」
「!?」
「父にも母にも、そして古くからこの家に仕えている者には……
ぜんぶ筒抜け、ということなんだよ……」
「えぇっ……」
千景もようやく意味を悟り、
真っ赤になった頬を両手で覆った。
「ど、どうしましょう……っ。
淫らな娘だと思われて……清晴さんにふさわしくないって……言われたら――」
清晴は慌てて首を振った。
「大丈夫だ、そうは思われない。
……君は間違いなく妻神の依り代なんだし。
それに――そもそも熱海の旅館に、一ヶ月も二人きりの部屋を用意したのは、父さんと局長だ。
あの二人だって、俺たちがこういう関係に陥ることくらい……最初から織り込み済みだ」
「織り込み済み――とまでは、思っていなかったぞ……」
不意に襖が開き、
大きな箱を抱えた清至と時子が、
なんとも気まずそうな顔で入ってきた。
「……すまない。聞こえてしまってね。
まあ、清晴のその目を見れば、大方のことは察していたが……」
「何言っているのよ。
旅館の番頭さんに袖の下を渡して、“逐一報告を”なんて頼んでいたくせに」
時子はあきれた表情を隠しもせず、
箱を清晴と千景の前に置いて、そのまま腰を下ろした。
「――時子……。まさか、知っていたのか。
しかしだな、二人の和合は、特務局としても今後の方針に甚大な影響を――」
清至はさらに気まずそうに、妻の後ろへそっと腰を下ろした。
清晴は俯いて眉間を揉み、
千景は耳まで真っ赤にしながら両手で顔を覆っている。
時子はそんな二人を一度見渡し、静かに身を正した。
「で――清晴。
まずは、私たちに言うことがあるんじゃない?」
母のまっすぐな視線に、
清晴は火照った顔を手の平でつるりと撫でおろし、
そっと千景の肩に手を添えた。
――いずれ清晴の父母にはきちんと伝えなければならない。
そう話し合ったのは、今朝の汽車の中だった。
早くもその時が来たのだと、千景にもすぐにわかった。
まだ頬は熱いままだったが、
千景は正座の足を組み直し、背筋をすっと伸ばした。
「父さん、母さん――。
俺は、千景を……いや、
深山千景さんを、生涯の伴侶と定めました。
そして千景も、同じ気持ちであることを……互いに確かめ合いました。
つきましては、彼女と正式に婚姻を結ばせていただきたく――
どうか、私たちの結婚をお許しください」
清晴はそう言うと、畳に手をつき、深々と頭を下げた。
その横で、千景も慌てて正座を整え、
「よろしくお願いします!」
と、真っ赤な頬のまま深く頭を下げた。
二人のつむじを、斎部夫妻はしばらく静かに見つめていた。
やがて、清至はふっと視線をそらす。
「――わかった」
そう短く告げると、すっ……と立ち上がり、
襖の向こうへ姿を消した。
その声は、かすかに震えていた。
父の様子に若い二人が唖然としていると、
時子がくすくすと笑いながら言う。
「ごめんなさいね。
あの人……泣き顔は、誰にも見られたくないのよ」
清晴と千景が思わず顔を見合わせる。
そんな二人を見て、時子もそっとハンカチを取り出し、目元をぬぐった。
「あの人、本当に心配していたの。
事件のことも、千景さんの異能のことも……
熱海に行っても、あなたたち、しばらくお部屋に引きこもっていたでしょう?」
千景の頬がさらに赤くなる。
時子は柔らかく微笑んだ。
「千景さんが折れてしまったらどうしよう、
まさか清晴が心変わりしてしまったらどうしよう――ってね。
あの人、もうね……千景さんのことを、すっかり“娘”だと思っているのよ」
「――時子。そんなにネタばらしをしないでもらえるかな」
襖の向こうから戻ってきた清至は、
目元だけでなく、頬までほの赤い。
「失敬したね」
軽く咳払いをしてから、清至は二人の前に正座し直した。
「斎部家としても、清晴が嫁を迎えることは悲願だった。
まして、こんな素晴らしいお嬢さんを迎えられたのだ。
これ以上のことはない」
清至は千景のほうへ深く頷いた。
「千景さん――。
どうか、清晴をよろしく頼む」
そして息子の名を呼び、まっすぐに言う。
「清晴。
千景さんは、これから非常に危うい立場となる。
軍人としてよりも――まず“夫”として、
必ず彼女を守ってあげなさい」
千景は一瞬だけ清至を見つめ、
胸に熱いものを抱えたまま、もう一度深々と頭を下げた。
「――はい、必ず」
清晴も決意を込めて頭を下げ、
そっと千景の背に手を回す。
清至は少し息をつき、表情を引き締めた。
「今回の件で、特務局は大本営に“貸し”を作ってしまってね。
今までのような自由裁量が、この先どこまで通るか……正直、微妙なのだよ。
上層部の中には、我々異能者――いや、特に神威持ちを、
“人間”ではなく“兵器”として管理すべきだと主張する過激派まで現れている」
「私たち特務局としては、そんなこと、到底承服しかねるのだけれど――
異能特務局創設の理念って……ご存じかしら?」
横から時子が静かに口を挟む。
清晴は首をかしげ、おずおずと答えた。
「……異能を帝国の資源とし、軍事に役立てる――と」
時子は小さく首を振る。
「それは“表向き”よ。
先代の局長や、あなたのお祖父さまたちは――
それまで社会に居場所のなかった異能者に、確かな居場所を作るために、特務局を立ち上げたの。
彼らの志は、今でも変わっていないわ」
そう言うと、時子は静かに箱の蓋を開けた。
中には、
真新しい女性用の士官軍服が、
折り目正しく収められていた。
「――時子さん……これ……私の?」
軍服と時子を、何度も交互に見比べる千景。
時子も清至も、優しく、しかし力強くうなずいた。
「ええ、あなたは士官として任命される予定よ。
だから明日は、これを着て特務局に出頭してちょうだい」
「でも私……異能が――」
千景が言葉に詰まる。
すると今度は、清至が静かに首を横に振った。
「問題ない」
その短いひと言には、
当主としての覚悟と、家族への揺るぎない信頼がにじんでいた。
「斎部の男にとって、妻神の依り代の存在こそが
何より重要であることは――この俺が、誰よりもよく知っている。
だから特務局としても、君に正式な立場を与え、
全力で“身内”として守る体勢を敷くつもりだ。
君が清晴の隣に立つ――
ただそれだけで、敵には大きな牽制となり、
味方には計り知れない力となる。
……そのことを、我々は痛いほど理解している」
千景は、そっと軍服に手を伸ばした。
指先で上等な生地の感触を確かめるように撫で、
やがて両手で持ち上げると――
胸にぎゅっと抱きしめた。
「……清晴さん。
私……役に立てるんですね」
その声は、嬉しさとも安堵ともつかない、
震える息に溶けていた。
清晴は黙って千景の肩を抱き寄せ、
ひたすら、何度も頷いた。
+++++
翌日。
二人は中野の斎部邸を発ち、市ヶ谷の特務局へ向かった。
特務局の臨時任官手続きは迅速で、
その日のうちに千景は「特務少尉」の辞令を受けた。
祝言も入籍もまだ先ではあったが、
特務局は、千景を“清晴の妻”として正式に遇した。
二人には安全面を考慮して、局内の夫婦官舎が割り当てられ、
ささやかではあるが、穏やかな新生活が始まった。
もっとも、祝言の日取りについては、すぐには決められなかった。
斎部の家で、継嗣たる清晴が祝言を挙げるということは、
清晴の父母――斎部特務中将夫妻の神威が失われることを意味する。
それは国の戦力にも関わるため、
時期を慎重に見極める必要があった。
だが千景と時子は、
「そのぶん準備がゆっくりできるわね」と、
どこか楽しげに語り合っていた。
「清晴さん、ちょっと見てくださいよ――」
ある夜。
就寝前のひととき、ちゃぶ台でみかんを剥きながら茶を飲んでいた清晴のもとへ、
千景がニヤニヤした顔で歩み寄ってきた。
特務局では夫婦そろって軍人という例が珍しくない。
そのため官舎の夕餉は士官食堂で出され、今夜も二人は並んで食事を済ませてきたところだった。
「――なんだ?」
みかんの筋を、これでもかと丁寧に剥いていた清晴が、
千景に優しげな笑みを向ける。
すると千景は、懐から一本の羽毛を取り出し、
おもむろに卓の中央へ置いた。
「ふふふーん。見ててくださいね!」
千景は得意げに両手をかざし、
そっと息を整えると――全身へ力をみなぎらせた。
それは、かつてのように神威と闇の異能が明確に分かれるものではない。
どちらともつかず、しかしどちらでもあるような、彼女だけの“気配”だった。
その力が、羽毛に――そして空間そのものに作用し、
ふわり、と。
羽毛が自然に浮かび上がった。
「――お。だいぶいいじゃないか」
みかんを剥く手を思わず止め、清晴が嬉しそうに目を細める。
千景は誇らしげに、さらに笑みを深めた。
「これだけじゃないですよ――」
千景は両手を開いたまま、ゆっくりと掌を上向きにし、
そこへさらに力を込めて握りしめた。
その瞬間――
羽毛の浮かぶあたりの空間が、ぽたり、と沈むように歪み、
こぽりと闇が球となって湧き出した。
「――え?」
清晴の手から、むいたみかんの房がぽとりと落ちる。
「くっ……ふ、うぅ……」
千景は額に汗を浮かべ、歯を食いしばりながらも、
得意げな顔のまま闇を操ってみせる。
全身を、陰の気と神威の紫電が同時に包み――
瞳は鮮やかな紫に輝いていた。
「おっ……おいっ、無理をするなっ!」
清晴は勢いよく立ち上がると、そのまま千景を背後から抱き寄せ、
首筋へそっと口づけた。
「陰の気が――暴走しかけたぞ」
清晴が低く諫めるように言うと、
千景は息を荒くしながらも、くすりと笑った。
「ふふ……でも、清晴さんがいますもんね。
闇の異能と、神威と、陰の気と――
ぜんぶ混ぜて使えば、また“闇”が生み出せる。
あなたと連携すれば……もっと安定して、使えるはずです」
力をふっと解いた千景は、そのまま清晴の胸へ身を預け、
甘えるように頬を擦り寄せた。
清晴は喉の奥で低くうなり、言葉もなく彼女の唇を奪う。
触れ合った唇から――
陰の気と神威が静かに混じり合い、揺らいでいた均衡が、ゆっくりと戻っていく。
「……ほらね」
唇が離れたとき、千景が囁くように微笑む。
清晴は、かなわないと息を吐き、
もう一度、彼女を強く抱きしめた。
了
最後まで物語を追ってくださり、心から感謝いたします。
この世界には、あと少しだけ語るべき“余白”が残っています。
その外伝を書き終えたら、本作はそっと幕を下ろすつもりです。
もう少しだけ、お付き合いいただけましたら幸いです。




