第丗七話 夏の光と風鈴の下で
「『園子元内親王 死去、黒曜会降霊事件 悪魔の薬二十三人目の被害者』か……」
清晴は新聞の見出しを読み上げると、バサリと卓の上へ投げ出した。
卓の上には、ここ数日の新聞に加え、週刊誌やゴシップ紙までもが無造作に放り出されている。
「清晴さん――やっぱり、気になりますか?」
卓の反対側で扇いでいた千景が、うちわを止めてそっと顔を上げた。
「……まぁ、な。」
きまり悪そうに答えながら、清晴は窓の外――白光の差す海へと視線を逸らした。
旅館の二階の客室。大きく開け放たれた窓からは、寄せては返す波音が絶え間なく流れ込む。
八月の強い光線に海面は眩しくきらめき、盆を過ぎて海水浴をし損ねた人々が、波打ち際を名残惜しげにそぞろ歩いている。
我妻の旧斎部屋敷での惨劇から、早くもひと月。
清晴と千景は“若夫婦”を装い、熱海へと“避暑”に来ていた。
陸軍による二人の聴取が済み、事件の今後の取り扱いも定まったのち、
万が一にも記者などに嗅ぎつけられぬよう、しばらくは身を隠す意味も込めて――
“避暑”を命ぜられたのである。
「黒曜会の件を、『交霊術での薬害事件』などと矮小化するとは……考えたな、と。」
「“矮小化”した割には、連日、報道が止まりませんね……」
千景も卓へ手を伸ばし、開きっぱなしになっていたゴシップ雑誌を取る。
――『教祖 来栖宗真、その正体に迫る。名士・知識人・貴婦人を手玉に取る悪魔の手口』
紙面の大仰な見出しを目で追い、軽く息をついた。
「とりあえず、今日まで斎部史郎の名も、徳井隼人の名も……まだ表には出ていませんね」
「ああ。このまま静かに収束してくれるといいが……」
清晴は再び卓の上の記事へ目を落とし、難しい顔をした。
黒曜会の事件後、その後始末で最も頭を悩ませたのは、二点だった。
ひとつは――彼らが国家転覆を企てていたという事実を、どう隠ぺいするか。
そしてもうひとつは――神罰を受け、廃人となってしまった百名あまりに、もっともらしい理由と処遇をどう与えるか、であった。
結局、陸海両軍は、自陣営で起きた反乱を「集団錯乱」とでも呼んで隠蔽し、生き残った関係者を軍の閉鎖病棟へ放り込み――すべてを、なかったことにした。
黒曜会についても同様だった。
怪しげな降霊会で危険な薬物を使用し、その結果、儀式に参加していた会員が薬害を受けた――
そういう筋書きが作られ、総帥“来栖宗真”もその場で命を落とした、ということにされた。
その“来栖宗真”が斎部史郎であった事実は、徹底して伏せられた。
彼が経営していた製薬会社も、粛々と――斎部宗家が指名した後継者へと引き継がれている。
百名ほどいた被害者で、身元が分かった者は遺族や関係者へ随時引き渡されたが、その予後はかんばしくない。
すでに何人もが命を落としており、その犠牲者には、財界の名士、大学の知識人、政治家、華族といった顔ぶれまで含まれていた。
それが報道をさらに過熱させる一因となっていた。
「まあ……今となっては、史郎が来栖であることを自ら徹底して隠してくれたのが功を奏したな。
誰も、斎部医薬化学商会の経営者が黒曜会を主催していたなどと思いもしない。
知っていた者は……皆、神罰を受けるか、軍で始末された。」
「お葬式もちゃんと上げましたし――もう、疑われる余地はありませんよね……」
千景は手にしていた雑誌をそっと卓へ戻し、ゆっくりと窓の外へ目を向けた。
窓際に吊られた風鈴が風に揺れ、ちりん、と澄んだ音をこぼす。
「……こうして、ぼんやりしていると、全部夢みたいな気持ちになるんです」
その呟きに、清晴はそっと視線を上げ、千景の横顔を黙って見つめた。
「この半年ほどのことが全部夢で……
目覚めたら、実家の布団の上じゃないかって。
清晴さんも、異能特務局のことも、自分が闇の異能を使えたことも……
全部、全部、夢だったんじゃないかって……」
千景は無意識に唇を噛み、窓の外を見つめ続けていた。
神罰ののち、桃蘇姉妹の祓いによって、清晴と千景の身体からは “アストラル” の影響が完全に払拭された。
それ自体は必要不可欠な処置で、ふたりはようやく“普通の生活を送れる身体”を取り戻したのだった。
だが――。
千景は、ほとんど闇の異能を使えなくなってしまっていた。
あの魔法薬が、はからずも彼女の異能を増幅させる一端となっていたのである。
……それ以来、千景は自分の価値を見失いかけていた。
「私――清晴さんの隣にいて、良いのかなって……」
千景は窓の外を見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。
消え入りそうな、か細い声――
それは、このとき初めて言葉になった、胸の奥の本音だった。
清晴は黙ったまま立ち上がると、千景の背後へ歩み寄り、そっと腰を下ろした。
そのまま、彼女を背中から抱きしめる。
――その問いが、彼女の口から出るのを。
清晴は、ずっと待っていた。
「良いに決まっている。
君は……俺の伴侶だよ。」
そのつぶやくような声音に、千景の頬から膝へ、ポタリと涙が落ちた。
「でも私、もう……大した異能が使えない――」
「異能のことなら、気にしなくていい。
そんなもの、あってもなくても……俺は、君が愛しいんだ。」
清晴はそっと身体を寄せ、
うなじへ唇を寄せ、髪の香りを吸い込む。
驚いた千景は、小さく肩を震わせた。
「きっかけは、神威や異能や……色々だったのかもしれない。
だけど、もう、そんなのはどうでもいい。
ただ――俺の人生に、君がいて。
それだけで、日々が色づく。
だから……もう、奪われたくないし、手放したくない。」
情熱を帯びたその吐息に、泣いていた千景も、ふっと頬を染めた。
「――清晴さん……いつからそんな詩人になったんですか……」
照れ隠しにくいと唇を尖らせたその瞬間、
清晴の腕が彼女の肩を引き寄せて向き直らせると、軽く口づけを奪われる。
「……恋する男だからな――必死なんだよ。」
耳まで真っ赤に染めながら、それでもひどく真剣な彼の表情に、
千景の心臓は早鐘を打ち始める。
「反則ですよ……そんなに急に来られたら、私、どうしていいか……」
「急じゃない。――俺はずっと、君に示していたはずだ。」
「でも――」
戸惑う千景は、次第に追い詰められ、
やがて重心を崩し、二人はそのまま畳へと倒れ込んだ。
清晴は千景を自分の身体でそっと囲い込み、
髪を撫で、頬に唇を落としながら、
まるで“心”ごと抱きしめるように彼女を包み込んでゆく。
残暑の座敷――。
薄い浴衣越しに、彼の体温がじかに伝わる。
体臭に、かすかに汗の匂いが混ざっていて、胸がどくりと鳴った。
「……千景」
余裕のない様子に、千景の心から枷が外れ落ちた。
「……清晴さん……」
やがて千景は、こわばっていた身体の力をそっとほどき、
ゆっくりと彼の背へ腕を回した。
その瞬間、海風が部屋を抜け、
風鈴がちりん、と小さく鳴った。
夕闇が迫るころ、二人は情熱の残滓に身をゆだね、
暮れなずむ部屋の中で寄り添っていた。
余韻が名残惜しく、離れがたく、しばらく起き上がれずにいた。
「――明日は……せっかくですから、そろそろ外を見物してみませんか?
熱海に来て……もう何日もなりますから」
千景は彼の胸に頭を預けたまま、ぽつりと言った。
確かに二人は、熱海に来てからずっと部屋に引きこもっていた。
旅館に着いたばかりの頃は、とても人の中を歩く気持ちになれず、
新聞や雑誌を取り寄せては、そればかり眺めていたのだ。
「そうだな……。外歩きに新しい服をあつらえたのに、
着ないまま終わるのは、少し残念だと思っていたところだ」
清晴が彼女の髪を撫でながら言う。
「……本当に驚きましたよ。いつの間にあつらえたんだか――」
熱海行きの直前、清晴から届いた夏用の着物やブラウスを思い出しながら呟くと、
彼は意味深に笑った。
「必要だったから、だが――
下心があったことも否定しない」
一線を越え、どこか吹っ切れたような声音だった。
「……明日が、少し楽しみですね」
千景のその言葉に、清晴は彼女の肩をそっと抱き寄せ、
かすかに微笑んだ。




