第丗五話 朝日の中の祓い
夏の早い夜明けは、刻々と空の色を染め変えて、静かに日の出へと近づいてゆく。
宵闇の神秘の帳がはがれ落ちれば、松明の火は急に白々しく、広場に広がる“地獄”の光景が、容赦なく現実となって迫ってくる。
その中心で千景をかき抱く清晴も、己の肉体が限界に達しつつあることを、嫌でも悟らされていた。
――『これよりしばらくは、正気を保てましょう。』
脳裏に、幸助の静かな声がよみがえる。
――鎮静剤の効果が……切れてきている。
また自らの体内で、封じられたはずの力が暴れ始めていた。
注射器で体内へ直接投与されたときは、
その衝撃だけで気を失った。
けれど、あれから数時間――。
鎮静剤の効果も相まって薬効がほどよく中和され、
いま彼の身体を支配しているのは、
軽い酩酊感。
全能感。
そして、底の知れない快感。
――依存性が強いというのも、うなづけるな……
清晴は、どこか他人事のようにそう思いながら、
千景を抱く腕にそっと力を込めた。
もはや彼女のぬくもりと重みだけが、
暴走しつつある自我を繋ぎ止める唯一のよすがだった。
「わ……若様っ!」
広場の入口のほうから、切羽詰まった呼び声がした。
清晴は、うつろな目をそちらへ向ける。
そこには、幸助とその配下数名が、息を切らせて広場へと戻ってきたところだった。
史郎に離反した一族の彼らは、
血の付いた白布を祭壇へ捧げた直後、
報復を恐れて闇夜へ身を潜め、一時広場から離脱していたのだ。
しかし――戻ってきた彼らの眼前に広がっていたのは、
想像をはるかに超える惨状だった。
幸助は、反射的に袖で口元を覆った。
配下の中には、その場でえずく者さえいた。
苦痛にのたうち回り、発狂し、あるいは呆然自失となった者たちの間を、
幸助は巧みにすり抜けながら清晴のもとへとたどり着いた。
そして、彼の前に膝をつく。
「幸助……鎮静剤はあるか……? また身体が……」
清晴が呻くように問うと、
幸助は痛ましげに目を伏せ、首を横に振った。
「これ以上は打てません。
薬が抜けるまで……どうか、耐えてください。」
「しかし……下山せねば……千景を休ませねば――」
千景を抱える腕に、ぎゅっと力がこもる。
その様子を見ていた幸助は、配下の若い衆を二人呼び寄せ、短く命じた。
「おい、奥様を屋敷へお連れしろ。
おまえは――若様をお支えして差し上げろ。」
「い、嫌だっ! 千景は……誰にも触らせん!」
伸ばされた男たちの腕を見た瞬間、
清晴は血の気を失ったように顔を変え、激しく拒絶した。
「若様――お気持ちはわかります。ですがそれでは、奥さまも若様も……休むことができません。」
「俺がっ……俺が自分で抱いてゆくっ!
だから鎮静剤を――!」
こめかみに青筋を浮かべ、冷や汗をしたたらせながら訴えるその姿は、
日ごろの冷静沈着な彼からは想像もつかないものだった。
幸助は、痛切な面持ちのまま、頑なに首を横に振る。
「ダメです。
これ以上は効果がないばかりか……若様のお命にかかわります。
――さあ、どうか聞き分けください。」
「嫌だ……千景は……千景だけは、俺が連れて行くんだ。
千景は俺のものだ――誰にも……誰にも渡さないっ!」
「まずい、錯乱されているっ! おい、若様を――!」
清晴は、千景を自分の胸に必死で隠すように抱きしめ、
涙をぼろぼろとこぼしながら、駄々っ子のように激しく抵抗した。
その異常な姿に、幸助はさっと顔色を変えた。
「どうする……もう一本、鎮静剤を打つべきか――」
幸助が低く呻いた、そのとき。
ふいに、上空を二つの影がすべりよぎった。
トッ。
軽い着地音を立て、地に降り立ったのは――
桃蘇姉妹だった。
彼女たちは、どこからどう通ったのか、
山頂から岩場をひとつひとつ飛び移りながら、
惨劇の広場へと――
まるで雌鹿のように、しなやかに舞い降りてきたのだった。
『――過ぎたる神罰を癒すも、
眷属神たる我が役目』
水の神威を全身にまとい、
美しき咲夜媛の面を後ろざまに被った青葉が、静かに告げた。
『――我が主たる夫婦神を侵食せしものを清めるも、
眷属神たる我が役目』
同じく、全身に火の神威をまとい、
その面を後頭部へと付けた紅葉が、応じるように言った。
幸助は、尋常ならざる気配に気づき、配下たちを下がらせて自らも後方へ退く。
入れ替わるように桃蘇姉妹が進み出て、
清晴と千景の前に跪くと――
額を地につけ、深く、深く、礼拝した。
『『分かたれて幾星霜――
我が主、天地を統べる夫婦神よ。
再び相見まみえしこと、
この焔女・水滾、これほど嬉しきことはなからんや』』
やがて二柱は静かに立ち上がり、
ホムラメは清晴へ、
ミタギリは苦しむ人々の方へ――
背中合わせにすっ、と立ち位置を決めた。
『『浅間なる山の木花咲夜媛――
我ら二柱に、その御力を――』』
二人は同時に天へと手をかかげる。
その瞬間。
日の出間際の空を、薄紅の光に染めた無数の花弁が、
ハラハラと舞い降りてきた。
やがて二人は手を胸の前へとゆるやかに下ろし、
気を押し広げるように――両の掌を、すっと差し出した。
『『祓い給え、清め給え――』』
二つの声が重なった瞬間、
ミタギリの向かう人々へは、癒しの水の奔流があふれ流れ、
ホムラメの向かう清晴と千景には、清めの炎がふわりと包み込んだ。
柔らかく、清らかで、温かなその炎のただ中で――
清晴は、自らの肉体の根源から“アストラルの汚染”が
すうっと剝がれ落ちていくのを感じていた。
やがて朝日が山肌を照らし出し、
長かった夜がそっと明けた。
神威の光はゆるやかに収束し、
清晴たちを包んでいた清めの炎も、
朝風に乗って静かに溶けていった。
力を使い果たした桃蘇姉妹は、
その場にくたりと崩れ落ち、
すぐに安らかな寝息を立て始める。
清晴は、腕の中の千景をそっと見つめた。
先ほどまで胸の内を荒れ狂っていた、
不合理なほど激しい恋情は――
彼女への思いの深さだけを残して、
今は静かな凪となっていた。
ゆっくりと、彼女のまぶたが開いてゆく。
その瞳は、紫水晶のように恐ろしいほど透き通り、
こまかな星の煌めきを――まるで宇宙の深淵をそのまま閉じ込めたかのように、宿していた。
「千景――」
清晴は名を呼んだが、
それ以上の言葉が喉につかえて出てこない。
千景の眼球がそっと揺れ、
彼の顔の上を視線がゆっくりと走った。
「きよ……はる……さん?」
戸惑いとためらいがわずかに混じりながらも、
それでも確かに“意識”をもって、
その名がそっと囁かれた。
その声の中に、確かに「千景」がいる――
そう確信した瞬間、清晴は彼女を力いっぱい抱きしめた。
「千景……ああ、千景。本当に……戻ってきてくれたのだな……」
涙まじりに、名を何度も囁く清晴に、
千景もそっと腕を回し、同じ強さで抱きしめ返す。
やがて朝日の中で二人はそっと顔を上げ、
静かに視線を合わせ――
震えながら触れるだけの、儚い口づけを交わした。
山のふもとの村から、鶏の鳴き声が朝風に乗って届いた。
広場で苦しみのたうっていた人々も、
いまは静まり返り、
時折、微かな唸り声をもらすだけになっている。
やがて――参道のほうが、にわかに騒がしくなった。
陸軍の軍服に身を包んだ一団が、
鬨の声を上げながら押し寄せてくる。
その首元に輝く徽章は、皆、五芒星。
東京から夜通しで駆けつけた、異能特務局の第一陣であった。
「清晴――っ! 無事かぁっ!」
先頭で叫び声を上げたのは、
清晴の父――斎部清至特務中将だった。
そのすぐ後ろから、母の時子も駆け寄ってくる。
桃蘇の縁者たちは、清晴の足元で倒れている
紅葉・青葉姉妹のもとへいっせいに走り寄り、
他の者たちは――
地面に転がる百名あまりの人々を前に、
息を呑んで立ち尽くした。
苦しみこそ取り除かれたものの、
彼らの目は大理石のように濁り、
二度と光を宿すことはなく。
耳は鼓膜ばかりか内耳まで破壊され、
音を拾うこともなく。
歯はすべて抜け落ち、
噛むことも、言葉を発することもできず。
皮膚は全身黒々と――
顔の隅々に至るまで、刺青で覆われていた。
そして何より、
誰一人として正気を保つ者はおらず、
ただ、ぽかんと口を開けたまま、
虚空を静かに見つめていた。
「……これは――ひどいな。」
殿でやって来た解呪班の
篠崎朝彦特務大佐は、眼前の惨状に思わず声を漏らした。
「呪詛によるものだとはわかる。
だが――恐ろしく凶悪で、質が悪い……。
解呪そのものは成立しているが……
こんなのは、見たことがない。」
朝彦は、言葉を失ったまま立ち尽くした。
清晴は、千景を抱えたままそっと目を閉じる。
高く昇った朝日が、
広場のすべてを――白々と照らしていた。




