第三話 闇の報告と禁欲の噂
「清晴、情けない顔ね。
局長に報告に行くなら、その顔、どうにかしなさい。」
救護室を出ると、相棒の静香が壁に背をあずけて待っていた。
清晴は憮然とした表情で頬をつるりと撫でるが、その赤みは簡単には引いてくれない。
「……これは、その、生理的反応で……。誤解だけは、しないでくれ。」
「はいはい。――“気の調整には粘膜や経口摂取が効果的”。
医療行為なんでしょ? 分かってるって。
でも、そんなに必死で言い訳されると、逆に怪しいわよ?」
静香はため息をつきながら、「じゃ、私が交代で見張っておく」とだけ言って、救護室に入っていった。
じつのところ、千景の立場は軍内でも微妙なものだった。
被害者であることはほぼ確定している。
だが、黒曜会の構成員でないと断言できる証拠も、他の組織に関与していないという確証も、まだ取れていない。
このまま省内でひとりにするのは、あまりに危うい。
清晴は静香の背を見送り、深くため息を吐いた。
そして――局長室へと歩き出す。
やがて、重厚なオークの黒光りする局長室のドアの前にたどり着くと、
清晴は一度深呼吸し、ゆっくり――しかしはっきりとノックした。
返事を待たずに扉を開ける。
局長・室井輝昌は、デスクに向かい、静かに書き物をしていた。
「斎部清晴、参りました。」
ピシリと背筋を伸ばして敬礼すると、室井はペンを置き、
大きくひとつ伸びをしてから、穏やかな声を返した。
「ご苦労。昨日の今日で、ゆっくり休ませてやれなくてすまないな。」
「いえ、問題ありません。」
「……あの娘が、目を覚ましたそうだな。話はできたか?」
室井はデスクに積まれた書類の山から、一通の封筒を取り出しながらたずねた。
「はい。彼女の名前は深山千景――十八歳になるそうです。
諸般の事情で、今泉家の女中として働き始めたばかりとのことです。」
「ふむ……今泉の女中、だとな。」
室井は一拍置き、眉間に浅い皺を寄せる。
「親御さんは――ご実家は、どうなのだ?」
「それが……天涯孤独のようです。」
清晴が報告すると、室井は眉間の皺を深め、
封筒から書類を一枚抜き取りながら、低くため息を洩らした。
「――またか。これまでの五名も、皆“天涯孤独”。
そうした娘ばかりが選ばれている。」
「……失踪しても、誰も心配しない、からでありますか。」
清晴の言葉に、室井は黙って頷き、
便箋を一枚、清晴の方へ差し出した。
「あの娘――深山千景、か。
彼女の検査結果が出た。六年前の徴用検査と同じく、
火・水・風・土、いずれの属性も示さぬ“無能者”と出ている。」
「でも――しかし、彼女は、何らかの異能の力を有していたのです。」
清晴が訴えると、室井は煙草に火を点け、
深く吸い込んでから、ゆっくりと白い煙を吐き出した。
「ああ……おまえが嘘をついたり、見間違えたりなど、疑ってはいないよ。」
室井の声は低く、淡々としていた。
「検査官も、彼女の状態を見て、それを嗅ぎ取ったようだ。
追加で検査をしたが――その結果は、まだ書類にはまとまっていない。
ただ……“闇”の属性ではないか、との報告だ。」
「“闇”の属性? まさか、本当に……?」
信じがたい思いに、清晴は動揺を隠せなかった。
「ああ。西欧諸国の魔法使いに、ごくまれに生まれるという。
わが国では、神威や“陰の気”と混同され、
純粋な異能の属性としては発生しない――そう考えられてきた“闇”の異能だ。」
室井は煙草の灰を落とし、もう一口吸ってから、
大きく息を吐いた。
「……これが本当なら、徴用検査そのものを見直さねばならん。
現行の検査では、四大属性しか検出せず、
“光”と“闇”の属性は、わが国には存在しないものとして扱っていたからな。」
「千景は――どうなりますか。」
清晴が、彼女を“名前”で呼んだ瞬間、室井の眉がわずかに動いた。
だが、あえて言及はせず、もう一口、煙草を吸って紫煙を吐く。
「……できれば、特務局に取り込みたい。
わが国で初めて確認された“闇”の異能者だ。
こう言っては語弊があるが、保護し、観察し、記録を取り、後進のための研究に資したい。」
「それは、強制でありますか?」
なおも食い下がる清晴に、室井は答える。
「いや、強制ではない。だから、おまえの口からも勧めてほしいのだが――」
室井が煙草の灰を揉み消す。上目遣いを一度清晴に向けると、清晴はそれを真正面から受け止めた。
「でしたら――千景を守る、いや、監視する役目を私にください。
彼女には帰る場所がない。女中が駄目なら、花街に身を売ると申しておりました。ですから――
彼女を私の女中として雇います。その間に、軍属にならないか、口説いてみます。」
必死な清晴を見て、室井はやや戸惑いながら思案する。
「女中にするって……おまえは官舎暮らしだろう? 女中部屋なんてないぞ?」
「ええ、構いません。
昼間はひとりで家に置いておけませんし、夜は――同じ部屋で寝ます。」
真顔で言い切った清晴に、室井は今度こそ目をむいた。
「はぁっ!? いやいやいやいや、何を言っているんだ。夜は同室!? おまえたち、まさか――」
清晴は慌てて両手を振り、首を横に振る。
「い、いえっ! 何らやましいことはございませんっ!
実は、千景は昨夜投与された“アストラル”の影響で、陰陽の気の均衡を大きく乱しておりまして……!
今はだいぶ落ち着いてはおりますが、予断を許さぬ状況には変わりありません!」
「……何かあったら、おまえが気を整えてやる、ということか。
確かに、未婚の斎部の男なら――陽の気を持て余しているだろうからな。
恰好の相手ではあるが……それなら、なおさら早いところ軍に籍を置いてもらいたいものだ。」
「鋭意努力いたします。」
言い放った清晴に、室井はやや胡乱な視線を送り、
しぶしぶ許可を出した。
「――まあ、何にせよ、まずはあのお嬢さん本人の了承を得るところからだな。
それと、この件……八代は承知しているのか?」
「……静香、ですか? なぜ、いま彼女のことを?」
「なぜって……彼女はおまえの相棒だろう?
それに、そろそろ婚約の話も出ているのではないのか。」
室井は、ますます眉をしかめた。
清晴は少し困ったように息を吐き、
「――いいえ。私からは特には。
まだ所帯を持つには早いと思っておりますし、
彼女がその最有力候補だという自覚はありますが……
明確な約束を交わしたことはございません。」
と答えた。
「とは言ってもだな、士官学校時代からのカメラートだろう?
野営演習の折や、卒業前に――間違いの一つや二つくらいは、なかったのか?」
「ありません。
確かに彼女は私のカメラートではありますが、それ以上でも以下でもありません。
変な噂を立てられると、私だけでなく、彼女にも迷惑です。」
心底迷惑そうに言い切った清晴に、さすがの室井も頭を掻き、
「……すまない」と小さく謝罪した。
「何はともあれ、だ。
もう数日は救護室に滞在しても構わない。
その後は――おまえの監視下に置け。
彼女が、出仕するつもりなら、おまえの下につけてやる。
だから――誠心誠意、口説きたまえよ。」
その後、室井は「定期的に報告を入れろ。進展があれば即時連絡を」と命じ、
清晴を部屋から追い出した。
「おーい、斎部!」
救護室へ戻ろうと踵を返したところで、背後から声を掛けられた。
「……徳井か。」
清晴が振り向くと、士官学校時代からの同期――徳井隼人が、
何やら意味深な笑みを浮かべながら歩み寄ってきた。
「おう、今朝出勤したらさぁ――おまえ、面白いことになってるじゃねぇか!」
「……面白いこと?」
「ああ、第八小隊の連中が言ってたぜ。
おまえ、昨夜、女と接吻したんだってな!」
徳井の言葉に、清晴は思わずむせた。
「……誤解だ。体調を崩した被害者に、粘膜の接触による“気”の均衡の調整を行っただけだ。
あいつらも――軍務の内容を、ぺらぺらと……」
「箝口令は布いてなかったんだろ?
そりゃ、広まって当然だ。おまえの落ち度だな。」
徳井はますます面白そうに笑みを深め、清晴の肩に手を回した。
「で――“禁欲の中尉殿”、初めてのキッスの味はいかがでしたかな?」
「だから――そんな不純な動機ではない。あれは医療行為だ。」
「とか言っちゃって、『ドキッ』とか『ムラッ』とか、
こう……おまえの“男の部分”が刺激されたりとか――」
そこまで言ったところで、徳井のすねに清晴の蹴りがさく裂した。
「無い。あるわけがない。
俺がそういった感情を持ってはならないことを――
おまえも、よく知っているはずだ。」
清晴は、蹴られたすねを抱えてうずくまる徳井を、
絶対零度の視線で睥睨しながら言った。
けれども、それで引き下がる徳井ではない。
「“恋情や劣情こそが陰陽の均衡を乱す”か? おまえの勝手な持論だろ?
それに、さっさと伴侶を得た方が、もっとずっと簡単に“気”も整って、
異能者としても安定するだろうに……」
「余計なお世話だ。俺は二十五年間、この方法で己を保ってきた。
これから先も、しかるべき時に、しかるべき伴侶を娶り、
劣情などに流されず、安定した神威と異能を行使する。
それが俺のやり方だ。」
「……でもなぁ、恋はいいぞー。乙女の柔肌なんて――」
「……何度言っても分からないようだな。
おまえこそ、始終女のことばかり考えていないで、職務に励んだらいかがかな?
なんなら――俺と“禁欲”してみるか?」
清晴は額に青筋を立てながら、皮肉な笑みを浮かべ、
己のあだ名をダシにして言い放った。
「……おことわりだ!」
徳井が立ち上がって叫んだ瞬間、清晴の蹴りがもう一発、すねに命中した。
徳井は情けない声を上げて再び悶絶する。
「……この俗物が」
苦笑をひとつ漏らすと、清晴は背を向けた。
今度こそ、救護室へと戻っていったのだった。




