第廿九話 妻神の純潔と禁欲くんの試練
「未交合って……。
でも、この娘は、確かに妻神の神威を持っています。総帥も、それは感じているでしょう?」
コウが問いただすと、史郎は難しい顔で千景へ手をかざした。
「ああ。間違いなく――美都香比売の神威だ。
観測機器でも何度も検査したし、自分の“眼”でも確かめた」
「じゃあ――」
「だが、それでも足りないのだよ」
史郎は低く息を吐いた。
「妻神の依り代が定まり、神威を行使できるようになったとしても、
それだけで“遷座”が起こるわけではない。
遷座には複数の工程があり――気の和合、肉体の和合、そして社会的和合。
この三つは、どうにも避けて通れない……今回の事例で、それがはっきりした」
「――気と肉体が別々だったってことは分かりましたが……
社会的和合って……どういうことですか?」
コウの問いに、史郎はわずかに顎へ指を添え、思索を言葉へ落とし込む。
「“社会的和合”とは――婚姻の儀のことだ。
一見、もっとも俗で、神事とは無関係に思える条件だが……そうではない。
神と言えど、依り代は人間だ。
婚姻とは、“社会が夫婦と認める制度的承認”であり、
その共同体的形式が、遷座の基盤として作用している」
史郎は淡く笑う。
「――結局のところ、神もまた制度に縛られるのだよ。
我々が扱うのは、“人が祀る神”なのだからな」
「つまり……気を同調させ、肉体を相手へと開き、
社会的にも結ばれて――初めて遷座が起こる、ということですか?
……総帥が、彼女と交わってもダメですかね?」
コウは、苦しげにもがき続ける千景を見下ろしながら、首をかしげた。
「――ダメだろうな」
史郎は短く息を吐く。
「最後の“社会的和合”――婚姻の段階をこちらで偽装し、
その後で肉体の和合を行うなら、神の目をくらまして神威を奪うことはできる。
筋書きとしては成立する。」
史郎は言葉を切り、目を細めた。
「だが、この段階でこの娘に手を出したら――」
その声は、わずかに冷たく震えた。
「夫婦神の逆鱗に触れる。
気の和合だけで、ここまで強く結ばれた依り代だ。
肉体に触れれば、未だ“遷座前”であっても、夫神は必ず反応する。
神威そのものが暴走し、この場にいる者がどうなるか……想像に難くない」
「じゃあ、どうすれば……」
コウが尋ねると、史郎は興が削がれたように鼻を鳴らし、手を払った。
「――清晴を呼べ」
「え?」
「やはり、神といえど“初夜”は重んじる。
最初に触れる男は“正統”でなければならん。
清晴にはきっちり、純潔を奪わせねばなるまい」
「でも……あいつ、そう都合よく来ますかね」
「来るさ」
史郎は即答した。
「その娘の枷をちょっと細工して、神威と陰の気を漏れ出るようにすれば、
勝手に嗅ぎつけてやって来る。
護符も使えず、気を散らしてくれる自分の“乙女”もそばにいない――
そろそろ陽の気が飽和して、耐えられなくなる頃だ」
史郎は冷えた笑みを浮かべる。
「来たら、あいつにも“薬”を盛れ。
媚薬とアストラルを重ねれば……さすがの清晴でも、本能を押さえられまい。
あとは勝手に“ケダモノ”になって、この娘を求める」
その声音は、計算と嘲りが入り混じった冷たいものだった。
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高崎行きの汽車の中。
ボックス席の奥側で、窓にもたれながら、清晴は小さく身体を丸めていた。
陽が落ちてから乗車して間もなく、
車輪の揺れに身を任せるほどに、体の奥からじわじわと“変調”が押し寄せてくる。
――熱い……。
芯の底から、燃え上がるように熱る……。
向かいに座る桃蘇姉妹は、終始心配そうに清晴を見つめていた。
だが、彼女たちの手当は“気休め”にしかならないのを、清晴自身が一番よく分かっていた。
「ホムラメは、火の神。
熱やほてりを鎮めることはできますが……根本的にはどうにもできません」
「ミタギリは、水の神。
熱やほてりを冷ますことはできますが……やはり、根本は変わりません」
申し訳なさそうに、それでも手を尽くしてくれる二人へ、
清晴は力なく笑って礼を言った。
やがて、汽車の揺れに身をゆだねているうち、
清晴の意識は、じわじわと“夢”の縁へ沈み込んでいった。
――落ちる。
深い水底へ、引きずり込まれるように。
『……禁欲くん……。
――おい、禁欲くん』
聞き覚えのある声が、頭の奥でガンガンと反響した。
「……ん……っ……」
清晴は不快感に眉を寄せ、喉の奥で唸るように声を漏らす。
ゆっくり薄目を開けば――
男の顔が、覗き込むように飛び込んできた。
『しっかりしてくれよ、禁欲くん。
君、ずいぶんと不味いことになっているね。……乙女を奪われたのかい?』
「……おまえは……戸神名神……」
清晴は身を起こしながら、ぼんやりと周囲を見回す。
そこはいつもの“真っ白な世界”。
音も影もなく、ただ平坦な光だけが満ちる、あの場所だった。
「心配してくれるなら、この陽の気をどうにかしてくれよ。
……うっとおしくて、かなわん」
清晴が忌々しげに吐き捨てると、戸神名神は気の毒そうに首を振った。
『そうしてあげたいのは山々なんだけどね、
なかなか、そううまくはいかないんだよ。
努力はするが――』
そこで神は言い淀み、視線を宙に彷徨わせる。
気まずそうに、心配そうな表情で、続けた。
『――君は、どこまで禁欲を貫ける?』
「……は?」
清晴が眉をひそめる間もなく、
戸神名神の声が、耳元に直接流し込まれるように囁いた。
『例えば――君の“乙女”が夜這いを仕掛けてきたら、どうする?』
清晴の喉が、ごくり、とわずかに鳴った。
『肌を見せて、「抱いて」と迫ってきたら。
あられもない姿で、抱いて、楽にしてほしいと泣きついてきたら。
――それでも君は、はねつけられるのかい?』
神の声は淡々としているのに、
その内容だけが、清晴の胸の奥に容赦なく突き刺さる。
「ち……千景がそんなことをするはず――」
『そうだよね?
普段のあの娘なら、そんな真似をするわけがない。
だけど――これから起こる“未来”なら、するんだよ。』
「……は?」
再び荒唐無稽な言葉を投げられて、清晴は呆然とする。
『今、あの娘を使って良からぬことを企んでいる連中がいてね。
君から“依り代の座”を奪おうとしているのは、もう知っているだろう?』
「……史郎叔父たちの――黒曜会の事か?」
『そう、その連中だ。
どこから引っ張り出してきたのか知らないが、
千四百年前の秘術を土台にして、事を進めている。
――そして、君だ。
君は“肉体の和合なし”にあの娘を妻神に内定させてしまった。
だから奴らの目論見としては、どうしても“肉体の和合”が必要になる。
――当然、次に狙われるのは、あの娘の肉体……純潔だ。』
「……まさか、千景が、史郎叔父や、他の男に穢される――ということか?」
清晴の眉間に、深い皺が寄る。
すると戸神名神は、静かに首を横に振った。
『いいや、違うよ。あいつらだって馬鹿じゃないさ。
妻神の純潔を奪えるのは“君だけ”だってことくらい、理解している。
そこは外さないよ』
だが、と神は続ける。
『――だが、君があの娘を“抱いてしまえば”、奴らの思うツボだ。
そこまで追い込むために、あらゆる手を打ってくる』
そして神は、恐ろしく真剣な顔で、
ゆっくりと二本の指を立てた。
『だから君には、二つの選択肢がある』
ごくり――清晴が生唾を呑むと、
戸神名神は立てた指を一本、軽く折った。
『一つ目は――あの娘を諦めることだ。
このまま東京へ戻り、彼女を忘れ、別の女と番えば……あの娘は“候補”から外れる。
僕は、本来なら複数の女で汚れた依り代など好まない。
だが、今回は事が事だ。妥協してやる』
そこで神は、ほんのわずか言葉を切る。
その沈黙が、清晴の胸を締め上げる。
『ただし――本当に、だ。君は彼女を完全に、諦めなければならない。
一度“神威を得た女”が、中途半端な形でそれを失えば……
正気を保てるかどうか――いや、その生死すら保証できない』
「そんなっ……!
千景を見捨てるなど――ありえないっ……!」
清晴の声は、震えながらも、怒りと恐怖と否定で満ちていた。
『では――二つ目だ。
あの娘を“純潔のまま”取り戻すこと。』
「そんなこと――!」
当たり前ではないか、と気色ばむ清晴に、
戸神名神はピシャリと釘を刺した。
『敵は、“どうすれば神威を奪えるか”を熟知しているんだよ?
千四百年分の知恵を悪用して、君を罠に嵌めようとしている。
あの娘の元に突っ込むのは、飛んで火に入る夏の虫だ』
神の声は淡々としているのに、その内容だけが冷酷だ。
『おそらく君は拘束され、
ありとあらゆる手段で理性を削られ、
欲を煽られ、発情を促される。
そして――あの娘も、同じように操られているはずだ。』
清晴の呼吸が一瞬止まった。
『君は、たとえ“愛する彼女が裸でのしかかってきても”、
欲を抑えなければならない。
――一滴たりとも、“和合”してはならない』
「……そんなことくらい――」
清晴が言いかけたその瞬間、
戸神名神はスッと人差し指を彼の眉間へ押し当てた。
次の瞬間――
清晴の頭の奥で“映像”が弾けた。
布団の上。
上気した顔の千景が、柔らかく微笑みながら両腕を差し伸べている。
乱れた襟元からのぞく鎖骨。
白い肌が淡い光を受けて、呼吸に合わせてわずかに揺れる。
裾からは、すらりとした足が露わになり――
彼を招くようにわずかに動いた。
その一瞬で。
清晴の中で、
ぞくり、と“雄”が目覚める感覚が走り、
熱が鋭く全身を駆け巡った。
『……こんな“妄想程度”で、その反応か』
戸神名神の声は、呆れと皮肉を含んでいた。
『先行きが心配だね、禁欲くん。
君はこのままだと――あっという間に欲に負けて、
依り代の座から引きずりおろされるよ?』
「ふ……不意打ちだったからだ!
次からは、こうはいかないっ!」
叫ぶように言い返す清晴。
その声音には、怒りよりも――自分を叱咤するような焦りが滲んでいた。
戸神名神は、険しい顔で静かに告げる。
『……頼むよ、禁欲くん。
僕もできる限り、君を支援するつもりだ。
けれど――君が踏ん張ってくれないことには、どうにもならない』
神の声に、珍しく“切実さ”があった。
『さあ、そろそろ目覚めの時間だ――。
戦闘開始だよ、禁欲くん。
すべて片付いたら……
好きなだけ、“彼女を抱けばいい”からね。
健闘を祈る。』
「ちょ、貴様っ!」
神はどこで覚えたのか、陸軍式の敬礼を清晴に送る。
その無駄に様になった仕草を最後に、世界はふっと暗転した。
◆
「……戸神名神め……」
自分の声で覚醒した。
胸の奥にまだ神の気配が残っているようで、清晴は額に手を当てる。
すぐに気づく――身体を苛んでいた陽の気が、いくらか和らいでいる。
戸神名神は、支援すると言った約束を破ってはいなかった。
ガタゴト、と規則正しく響いていた車輪の音がゆっくり弱まり、
やがて――
ぷしゅう、と空気を抜く音。
停車の合図だ。
周囲の乗客たちは一斉に荷物を抱え、
気の早い者はもう通用口へ列をつくり始めている。
「高崎ですね。出る前に連絡を入れましたから、
駐屯している歩兵十五連隊から、誰かしら出迎えてくれるでしょう」
「自動車なり、馬なり、何かしら出してもらえると思います」
桃蘇姉妹も席から立ち上がりながら言った。
清晴も続くように立ち上がり――
その瞬間だった。
清晴を、全身を貫くような、言葉にしがたい感覚が襲う。
「……あっ」
「……うっ」
桃蘇姉妹も同時に身を震わせ、それぞれ頭を押さえながら清晴に振り向いた。
「「――感じましたか?」」
双子の声がぴたりと揃う。
清晴も表情を引き締めて答えた。
「ああ……妻神の神威の“揺れ”だ。
千景が――俺を呼んでいる。」




