第廿八話 菫色に染まる翡翠
来栖の一行が高崎駅を出ると、地元の支援者がすでに車を用意して待っていた。
三台の車に分乗し、辿り着いたのは渋川駅――そこからは我妻軌道という鉄道馬車を臨時に動かし、
ようやく我妻の斎部邸へ着いた頃には、すでに夜も更けていた。
千景はコウに担がれたまま屋敷へと連れ込まれ、
出入口が一つきりで、明かり取りの窓すらない六畳ほどの部屋へ押し込められた。
部屋の隅には薄暗い行灯が一つ置かれ、そのそばに置かれた香炉からは、重く甘い匂いが細い煙と共に漂っている。
千景が長旅で疲れ果て、ぐったりと項垂れていると、
コウは家の者から大仰な包みを受け取り、再び千景のもとへ戻ってきた。
「その手枷だと何かと不便だろう。今、付け替えてやるからな……」
コウが包みから取り出したのは、真っ黒な鋼で作られた大小の環だった。
鍵穴に鍵を差し込み、廻すたびに――ガチャリ、と重い金属音が響く。
環は内側にいくつもの刻印が彫り込まれており、どこか禍々しい光沢を放っている。
コウは手際よく千景の手首、足首、そして首へと一つずつ嵌めていき、
最後に、今まで付けられていた異能封じの手枷を外した。
「それを付けていれば、異能や神威は使えないから。
その戒めに――ほら、輪がついているだろう? そこに鎖を取り付ければ、いつだって君の自由なんて奪えるんだ。
快適に過ごしたいなら、変な気は起こさないように。」
千景は、新しい枷の嵌められた自分の手を、ぼんやりと見つめた。
確かに手は自由に動かせる。指も曲がるし、物も持てる。だが――
異能や神威だけでなく、“抵抗しようとする心”そのものが、じわじわと吸われていくような気さえした。
やがて、史郎が屋敷の女中を従えてやって来た。
女中たちは、身体を清めるための道具や化粧道具、そして真紅の着物を
うやうやしく抱えている。
「王妃に、下士官の軍服など似合わない。――着替えさせなさい」
史郎が静かに命じると、女中たちは音もなく進み出た。
その所作は機械のように迷いがなく、史郎やコウの視線すら意に介さず、
淡々と作業を始める。
千景の軍服を外し、濡れた手ぬぐいで身体を手早く拭い清めてゆく。
次いで、腰巻から襦袢に至るまで、全てが同じ真紅の衣に差し替えられていった。
着物を着せ終えると、次は髪に櫛が入れられた。
女中たちは迷いのない手つきで髪をすくい上げ、千景がこれまで一度も見たことのない、奇妙な形の髷へと結い上げてゆく。
顔には白粉が薄くはたかれ、唇と頬には鮮やかな紅が引かれた。
鏡があれば、そこに映る自分を千景はきっと見分けられなかっただろう。
「おお……この姿こそ、斎部氏始祖・忌部天足の妃――鹿奈媛。
百済より招聘され、天地を統べる夫婦神を引き裂き、神津毛の地に牧を拓いた伝説の王の妃……!」
戸口に寄りかかってその様子を眺めていた史郎は、
すっかり“王妃”として着飾られた千景の姿を目にし、
抑えきれぬほど瞳を輝かせた。
「総帥。後は――遷座が可能なほど、神威の所在が揺れるまで、
気の統合が進んでいるかどうか、ですね」
コウが冷静に言葉を返すと、史郎はツカツカと千景へ歩み寄った。
そして、彼女の首輪に取り付けられた鉄の環を無造作に掴み、ぐいと引き上げる。
「あ……っ、あぁ……」
千景の心は、確かに“抗いたい”と反応した。
しかし手足にはまるで力が入らず、史郎の動きに引きずられるように立ち上がってしまう。
「よし。――善は急げだ。早速、確かめてみよう」
女中の一人がうやうやしく差し出した、金具のついた長い鎖。
史郎はそれを受け取り、手にしたまま首輪の金具に淡々と接続した。
金属音が重く響く。
千景を完全に支配下に置いたその感触に、史郎は満足げに目を細める。
鎖のもう一方の端を握りしめると、史郎はためらいなく歩きだした。
引かれた首輪に千景はわずかに眉を寄せたが、
それ以上の抵抗はできず、ただ史郎の後を追うしかなかった。
やがて千景が連れてこられたのは、屋敷の最奥にある間――。
一面、白い絹布で覆われた真っ白な部屋だった。
床も壁も天井も白く、その中心に、漆塗りで螺鈿を施した豪奢な椅子が二脚、まるで祭壇のように鎮座している。
螺鈿が描き出す術式は、虹色の光をちらちらと放ち、絶えず脈動していた。
――椅子そのものが……呪符だ……。
千景が直感的にそう思った時には、その椅子の片方へと座らされており、
ひじ掛けに仕込まれた金具へと手枷の金具が淡々と接続されていた。
金属音が響いた瞬間、身動きは完全に奪われる。
これは最初から――
妃を拘束し、“遷座”を施すための椅子だった。
「――まだ予行演習だ。
とりあえず……“テスト”といこうじゃないか」
史郎は、白木の卓に据えられた三方へと手を伸ばし、
そこに供えられていた一連の首飾りを取り上げた。
それは、氷の結晶を削り出したかのような、無色の翡翠の玉が連なるものだった。
透き通った丸玉のあいだに、いくつかの勾玉が挟み込まれている。
勾玉には淡く刻印が浮かび、光を受けるたびに微かに脈動するように見えた。
「コウ、準備を。」
史郎が低く命じると、
コウは懐から白いハンケチと、薬液の入った小瓶を取り出した。
「香がだいぶ効いているようだが……念のため、だ。」
そう呟きながら、ハンケチに薬液を数滴落とす。
漂いはじめる甘い匂いは、すぐに千景の鼻先へ忍び寄った。
次の瞬間、コウはそれを千景の口と鼻にそっと押し当てる。
――あぁ……この匂い……。
千景は、その香りを知っていた。
生贄にされかけた夜――
そして、清晴と閉じ込められた会議室で漂っていた、あの香。
「さあ……ゆっくり吸って。
そう……肺の奥まで、ゆっくりと……」
コウの声は妙に柔らかく、どこか深いところをくすぐるような響きだった。
それが精神を揺らし、理性を奪う薬だと理解していても、
その声に導かれて、千景の身体は言われたとおりに呼吸をしてしまう。
「うんうん、いいねぇ。……よく効いている」
コウは、瞳孔が開き、恍惚に沈み始めた千景の目を覗き込むと、
満足げに口角を上げた。
そして、懐からもう一つの小瓶を取り出す。
桃色にきらめく粒子が揺らめく魔法薬――“アストラル”。
「さあ、仕上げだよ。千景さん。“アストラル”はこれで二度目。
遷座の本番で三度目になる……。
三度使えば、もう、この薬なしでは生きられない――、正気を保てない身体になるけれど――」
瓶の口を“ポン”と開く小気味よい音が響く。
コウはあざけるように笑い、千景の唇へそっと押し当てた。
「――黒曜会の“王妃”になれば、自律なんてもう必要ない。
思考も、判断も、痛みも、迷いも。
君はただ、永遠に心を手放していればいい。
“アストラル”は……切らさないようにしてあげるから。」
言われている言葉の恐ろしさに、千景は気づいていないわけではなかった。
だが、コウの声は心の隙間へじわりと染み込み、脳髄の奥にまで忍び込んで――
その思考を、じわじわと支配していった。
千景の喉が、こくり、こくりと勝手に動く。
魔法薬は素直に飲み干され、最後の一滴が唇から顎へと伝い、ぽたりと赤い着物へ落ちた瞬間――
「あ゛……ッ、あ゛あ゛ぅ……!」
千景の中で、封じられていた力が一気に目を覚ました。
奔流となったそれが神経を逆流し、身体中の筋肉を強張らせ、
筋という筋が弓のように張り詰める。
「……きよ……はる……さん……」
生贄の夜には封じられていた声が、
もう堪えきれずに喉の奥から迸った。
名を呼んだ自覚すらない。
ただ、千景の内側の奥深くで、
誰より早く救いを求めた相手の名が零れた。
それは、理性を焼き切られた者の叫びだった。
耐えがたい衝撃から逃れようと、
ただその瞬間の痛みと奔流に抗えず、
千景の身体から押し出される“声”だった。
白目を剥き、口元から細かい泡を散らしながら、
千景は身体をよじらせ、押し上げるような力を必死に吐き出そうともがき続けた。
溢れ出た神威が皮膚の下で脈打ち、椅子ごと震わせる。
そんな千景を、史郎は満足げに眺めていた。
暴れ狂う首元へ、翡翠の首飾りを、まるで長年の儀式に習いでもしたように迷いなくかける。
「さて――。濃い緑に染まってくれれば、上出来なのだが……」
一歩下がり、術式の発動を見届ける“王”のように、史郎は静かに呟いた。
やがて翡翠は、千景の内に押し込められた力へと反応し、
淡く、自ら光を発し始めた。
そして――その色は。
「……なん、だと……? 紫……だと?」
史郎の喉から、ひび割れたような声が漏れた。
千景の胸元で揺れる首飾りは、彼が望んだ“緑”ではない。
確かに――淡い、菫色を帯びた紫が、脈打つように輝いていた。
光は翡翠の内部から滲むように広がり、
まるで千景の心臓の鼓動に呼応するかのように、
ゆっくりと明滅していた。
「総帥、紫では……まずいのですか?」
傍らで見ていたコウが、怪訝そうに問いかけた。
史郎は額に手を押し当て、前髪を乱暴に掻き上げると、
苦々しい声を吐き出した。
「紫は――“未交合”の色だ。
つまり……清晴は、この娘と契りを成していない。
これでは……遷座の段階に届かん……!」




