第廿七話 密書と雷鳴の午後 ――露わとなる造反
「――清晴、やっぱりまだこちらにいらしたのね。」
室井とほぼ入れ替わるように入って来たのは、ひとりの青年を従えた斎部りよだった。
その場に残り家宅捜索の続行を命じられていた武井大佐と数名の局員は、彼女の姿を認めた瞬間、はっと顔色を変えて敬礼する。
りよは、異能軍人の先駆けとして今なお語り草となっている“伝説”だった。
「皆さん、構わず作業を続けてください。」
柔らかく、しかし凛と張りつめた声でそう告げると、りよは迷いなく清晴のもとへと歩み寄った。
「お祖母さま、こんな時に――どうされましたか? そちらの方は……」
清晴は、手にしていた書類を机にそっと置きながら問いかけた。
「清晴、あなたはまだ会ったことがなかったわね。こちらは――徳井慎太郎さん。
徳井家の傍系に当たり、いまは陸軍士官学校・異能科の第三学年に在籍している方よ。」
りよは、少し後ろに控えていた慎太郎を前へと促し、清晴へと紹介した。
「――徳井の……縁者?」
その名を聞いた途端、清晴の眉間にきゅっと深い皺が刻まれた。
空気がひりつく。彼の警戒が一瞬で跳ね上がるのが、周囲にも分かるほどだった。
すると、りよと慎太郎がほぼ同時に手を上げ、慌てたように清晴を制した。
「清晴、落ち着いて。彼は敵ではありません。
昼過ぎに――わざわざ中野の私のところへ知らせに来てくれたの」
りよは短く息を整え、静かに続けた。
「徳井本家から、“斎部宗家に造反せよ”という命が下ったと――それを、いち早く教えてくれたのよ」
慎太郎も深く頭を下げ、言葉を補う。
「自分は、徳井慎太郎と申します。
清晴さまもご存じの隼人――あれは私の従兄にあたります」
清晴は、ひとまず噴き上がった怒気を押し下げた。
だがその表情は険しいまま、憮然と腕を組み、軍帽を脱いだ慎太郎のつむじを真上から射抜くように睨みつける。
慎太郎は、みるみる青ざめながらも、慌てて軍帽をかぶり直し、わたわたと口を開いた。
「ま、まず……大前提として信じていただきたいことがございます。
現在、我が徳井家は完全に二派に割れております。」
言葉を区切るたび、慎太郎の喉がひくりと動く。
「ひとつは、斎部史郎に従う“本家派”。
そしてもう片方は――“従うふり”をしながらも、宗家への忠義を捨てられぬ者たちです」
最後の一文だけ、慎太郎はきゅっと唇を結び、軍人らしい決意の響きで言い切った。
そして、何か思い出したように懐をごそごそ探り、小さく折りたたまれた和紙を取り出すと、両手でそっと清晴へ差し出した。
「――これが、今朝。
徳井本家から私の元へ届けられた密書です。」
清晴の前に掲げられた紙には、墨の走りが生々しい。
「内容は……史郎が“斎部の神威”を継承し、宗家に成り代わる、その段取りが整ったというもの。
徳井の各家は、至急神津毛の屋敷へ帰参せよ、と」
慎太郎の手が、わずかに震えた。
「さらに――
史郎が神威を得次第、国家元首の地位を簒奪する。
そのための行動計画を、“合図があり次第開始せよ”と」
淡々と読み上げようとしても、言葉の端々がどうしても重く沈む。
軍人である慎太郎の顔にも、抑えた恐怖と義務感が同居していた。
りよが清晴へ向き直り、慎太郎の説明を補足する。
「慎太郎さんはね、この密書を受け取ってすぐ――卜部校長へ報告に走ってくださったのよ。
おかげで、中野学舎は賊の手に堕ちずに済んだわ」
りよはひと息つき、ほんの一瞬だけまつげを伏せた。
「……残念ながら、本部への警告は間に合わなかったけれど」
「……力至らず、まことに申し訳ございません。
清晴さま――」
慎太郎は深く頭を垂れたまま、声を震わせた。
「徳井本家は、何年も前から準備を進めておりました。
清至さまから清晴さまへ“神威が遷座するその時”を狙い定め、
清晴さまから神威と――妻神の依り代を奪い取るために。」
言葉の続きが喉の奥でつかえ、慎太郎は唇を噛んだ。
「そのための研究を積み重ね……
そのための“舞台”を整え……
すべてを、神津毛の屋敷に築いてまいりました。」
慎太郎は一度だけ視線を上げる。その眼は恐怖よりも、罪悪感に濡れていた。
「――あの場所は、清義さまの代まで“夫神”を封じていた、
斎部にとって最も禍深い地です。
本家は、そこで青写真を整え……着々と準備を進めていたのです」
清晴は、じっと慎太郎を見つめた。
まるで相手の胸の奥まで透かし見るような、静かで鋭い眼差しだった。
数秒――いや、永遠にも思える沈黙のあと。
清晴はようやく、重い口を開いた。
「……にわかには信じがたい。
なぜ“今”になって、宗家に密告しようと思った?」
慎太郎の背筋がびくりと震える。
その問いは、怒気を抑えた静かな声なのに、刃物より鋭く深く刺さる。
「……理由はひとつです、清晴さま」
慎太郎は軍帽のつばを握りしめ、声を振り絞った。
「史郎派……とりわけ史郎そのものの監視は、常軌を逸するほど厳しいのです。
家中の動きはもちろん、士官学校にいる私の“気”の乱れすら――察知されるほどに」
慎太郎はそこで小さく息を呑み、喉を震わせて続けた。
「しかし今日、密書が届いたその“瞬間”だけ……
私の動きを本家が見落とすほどの、わずかな隙が生まれたのです」
慎太郎はきつく拳を握りしめた。
「混乱がなければ、私は宗家へ連絡を取るなど到底できませんでした。
不審を抱いたまま学舎を出れば、その場で拘束され……二度と表には出られなかったでしょう」
そう言うと、慎太郎はこぶしをきつく握りしめた。
「……“今”しか、ありませんでした」
清晴は慎太郎の様子を黙って見つめ続けた。
その沈黙に耐えかねるように、慎太郎の肩がわずかに震える。
やがて清晴は、深く長いため息を吐いた。
「――つまり……千景は……
俺の乙女は、神津毛の屋敷へ連れていかれた、というわけか?」
「はい。そうとしか……」
慎太郎の声はほとんど掠れていた。
清晴は目を伏せ、唇をきつく噛む。
慎太郎の言葉がどこまで信じられるのか、何度も心の中で問い直す。
しかし、反芻すればするほど、答えは霧のように散っていく。
――信ずるに値するか。
――それとも罠か。
――だが、千景が危険に晒されている状況は変わらない……。
胸の奥が冷え、同時にどす黒い怒りがじわりと滲んだ。
「……桃蘇姉妹。
君たちはどう思う?」
突然の問いかけにも、机の向こうで書類を箱へと詰めていた二人は、さして驚いた様子も見せなかった。
ただ静かに手を止め、揃って立ち上がる。
「妻神の気配は……途切れ途切れです。
追跡には根拠が希薄ですが――
神津毛の方角と“情報”があるなら、慎太郎殿の話は信じるに足ります」
紅葉が淡々と告げる。
続いて青葉が、わずかに伏し目のまま静かに言葉を継いだ。
「神津毛は、戸神名神と美都香比売――
あの二柱が最初に“分かたれた”地。
妻神の依り代が引き寄せられても、不思議ではありますまい」
二人の言葉を聞き終えると、清晴はりよへと向き直った。
その声音には、さきほどまで押し殺していた怒気が、静かに滲んでいた。
「お祖母さま。……俺は、神津毛へ向かいます」
一呼吸置き、清晴は慎太郎を鋭く睨みつける。
「慎太郎の身柄は、お祖母さまの下で拘束していただけると助かります」
そして最後に慎太郎へ――氷のように冷たい声音で言い放った。
「――慎太郎。
もし一言でも虚偽があったなら……君の命、私が責任を取らせる。
覚悟しておけ。」
「――承知いたしております」
慎太郎は青ざめ、震えながらも、しっかりと声を出した。
「私からも……ひとつ願いがございます。
もし私の進言が功を奏し、清晴さまと――妻神の依り代さまをお救いできましたなら……
我が一族を、どうか赦免いただけますと幸いです。」
それは恐怖ではなく、“徳井家としての切実な請願”だった。
「その暁には……徳井本家に連なる者の罪、
すべて斎部宗家の御裁断にお任せいたします。
父も私も、家の命運尽きるまで――
斎部宗家に忠誠を誓い、残された一族を挙げて御奉公する所存です。」
「……わかった。」
清晴が短く告げた瞬間、
ほの暗かった室内に、西日の赤が一気に流れ込んだ。
傾き始めた夏の光は強く、清晴は思わず目を細める。
彼はそのまま桃蘇姉妹へと振り返った。
「俺は神津毛に向かう。……君たちも来てもらえるか」
「「もちろんです。私たちはそのためにここに残っております。」」
声を揃えて答える二人に、清晴は静かにうなずいた。
窓の外――
夏の昼下がりの空には、むくむくと入道雲が育ちつつある。
その白い峰は、まるで遠い山脈のように天へ向かい、
やがて、どこかで低く雷鳴が鳴り渡った。




