第廿六話 運び去られた妻神
白煙、閃光――その直後、千景は目隠しに猿轡を掛けられ、後ろ手に回された手首には冷たい手枷が打ち込まれていた。
「ん――、む――、んん――っ」
必死に身体をよじると、耳元でコウが低く囁く。
「大人しくしろ。……俺も君の身体に、鉛玉を撃ち込みたくはないんだ」
背中に押し当てられた硬い感触に、千景はびくりと身をすくめる。
その刹那、口元と鼻を覆うようにハンケチが押し当てられた。
――こ、れ……薬……?
そう思った瞬間にはもう遅く、意識は音もなく闇に沈み落ちていった。
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ぬるい湿った風、絶え間ない雨音、そしてかすかな振動の中で、千景は意識を取り戻した。
視界は目隠しで覆われ、口も猿轡でふさがれたままだ。
けれど、揺れ方とエンジンの唸りから、自分が自動車で輸送されていることだけは分かった。
やがて、車体が大きく沈み込み、ドアが開く気配がする。
誰かが乗り込んできた。
「総帥、汽車の手配は完了しました。
赤羽駅から十八時三分発の高崎行きです。
改札は通りません。線路脇から直接、貨車に乗り込めます」
耳に届いた声は、先ほど自分を脅した男――コウのものだ。
「ご苦労。……まさか、商会名義の車両を使ったわけではあるまいね?」
千景のすぐそば、落ち着き払った低い声。史郎だ。
「もちろんです。そんなヘマしませんよ。
斎部とは関係のない製糸会社の貨車を借りました。
ただ……高崎で降り損ねると、そのまま翌朝には桐生まで行ってしまいますが」
「さすがだ。……高崎から先の段取りも、つけてあるのかい?」
「いえ。ただ、神津毛に入ってしまえば――どうとでもなりますよ」
ちょうどその時、車体がぐっと揺れ、再び走り出した。
車輪が水たまりを踏み、湿った振動が床越しに伝わる。
千景は、目を覚ましていることが悟られないよう、
呼吸と身体を必死に“眠っている”形へと保ち続けた。
会話はふっと途切れ、ただ車の揺れだけが続いた。
やがて、雨音が止み、頬に涼しい風が触れる。
どうやら、さっきの雨は夕立だったらしい。
ほどなくして、車はぴたりと停まり、
周囲がにわかに慌ただしくなる気配がした。
「――千景さん。もう起きているのだろう?
そんな必死な狸寝入り……可愛いなぁ」
息を潜めていた千景に、コウが不意に声をかけた。
思わず身体がびくりと震え、その動きを逃さず、
コウは手際よく彼女の目隠しを外す。
夕暮れどきの、薄明るい光が流れ込む。
しばらく閉ざされていた瞼にも、その明度の落ちた景色はすぐ馴染み、
輪郭がゆっくりと形を取り戻していった。
千景は、まず自分に銃口が向けられていないことを確かめると、
すぐに――異能でも、神威でも、使えるものはすべて発動させようと身をよじった。
彼女を拘束するのは、もはや猿轡と手枷だけ。
なのに――。
異能も、神威も、確かに身体の内側ではうねり、めぐっているのに、
外界へ向けては、まったく“発露”しようとしなかった。
「あはは。そんなふうにもがくと――千景さん、惨めだねぇ……それに、色っぽい。
異能が使えなくて驚いているんだろう?
残念だけど、その手枷と猿轡には“封じ”が練り込んである。
異能も、神威も、外へ漏れない。
千四百年前に、斎部の夫婦神を屈服させた術だよ」
コウは心底愉しげに笑うと、千景の胸倉をつかみ、
そのまま自動車の床から乱暴に引きずり下ろした。
そして、史郎の私邸を出たときと同じように、
彼女を“荷物扱い”で肩に担ぎ上げる。
「ふふふ。情けないねぇ、千景さん。何にもできないねぇ。
……でも大丈夫。そのうち、そんなこと――ぜーんぶ、どうでもよくなるから」
「コウ。無駄話していないで、早く来なさい」
少し前方にいた史郎が、軽くたしなめるように声をかけた。
同じ車で移動してきた男たちも次々と降り、黙って歩き出す。
「はーい」
コウは気の抜けた返事をすると、
千景を担いだまま、その列にふわりと加わった。
一行はほどなく駅舎脇の線路際にたどり着き、
柵が途切れた細い隙間から、ひょいと線路内へと降りていった。
つい先ほど構内に入ってきたばかりの蒸気機関車が、
白い息を吐きながら停まっている。
その後ろにつながれた貨物車の一両――
その前で、車掌が待ち受けていた。
「来栖さま。お待ちしておりました。
まもなく発車いたします。さあ、お急ぎください」
車掌は恐縮しきりに頭を下げ、
黒曜会の一行を急かした。
貨物車の扉が閉まると、ほどなく汽笛が短く鳴り、車体がゆっくりと動き出した。
真っ暗な荷室の中、コウが指先に青白い炎を灯す。
ぱっと昼間のように明るくなり、影が貨物の山に鋭く落ちた。
「さて。汽車に乗り込んでしまえば、さすがの特務局でもすぐには追ってこれまい。
だが――ここからは、一つでも手順を誤れば“儀”そのものが成せなくなる。
……どうせ清晴は、すぐ嗅ぎつけて来るだろうがな」
史郎は懐から煙草の箱を取り出し、一本くわえて火をつけた。
青白い炎に照らされて、煙草の先だけが赤い点となって浮かぶ。
「東京市内の会員にも、“遷座の儀、挙行”を通達済みです。
既に、それぞれ動きを始めているはずですよ。
我妻の斎部邸にも連絡済み――。遷座の儀は、すぐにでも始めますか?」
堆く積まれた荷物に背を預けながら、コウが問いかける。
「ああ、できれば……だ。
だが、詳しく調べてみるまでは分からん」
史郎は煙を吐きながら答える。
それを最後に、一行の間から言葉が消え、沈黙が落ちた。
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「斎部史郎が黒曜会の総帥――
来栖宗真である事は、ほぼ間違いない……。
逃亡には、多くの会員が協力しているはずだ。
……取り逃がしたのは痛恨の極みだな」
自動車で逃走した史郎の一行を、徒歩で追えるはずもない。
室井をはじめ、清晴たち特務局の面々は、ひとまず史郎の私邸へと戻っていた。
室井が指揮権を武井大佐へ移譲してから、一時間。
邸内に残っていた者たちは、食客から使用人まで皆拘束され、
部屋という部屋から、次々と証拠品が押収されてゆく。
押収された品々のどれもが、
斎部史郎こそ黒曜会の中心人物――来栖宗真であることを裏付けていた。
「……何か手掛かりはありませんか。
あいつが千景を連れて行きそうな場所、
あるいは……連れて行かねばならない場所は……」
清晴は苛立ちを隠せず、部屋の中を落ち着きなく行き来した。
集められた帳面、土地や建物の権利書、書簡の束――
片端から目を通していくが、
これといった新しい情報はどこにもない。
募るのは、ただ焦燥ばかりだった。
「来栖も……まさか今日、特務局が踏み込んでくるとは思っていなかったんだろうな。
隠す気が、全然――まったく無いとしか思えん」
室井も、重要そうな書類をぱらぱらとめくりながら、
苦笑まじりにそう漏らした。
「そういえば……徳井家は、斎部の分家の中でどういう立ち位置なんだ?」
室井がふと思い出したように問いかけた。
清晴は、書類を繰りながら顔も上げず、淡々と答える。
「徳井家は、五つある分家筋の中でも、もっとも古くに分かれた家です。
代々、保守的な考えの者が多いですね。隼人なんかは異端児ですよ……。
祖父の代に、斎部宗家が東京へ居を移した後は――
国元、すなわち神津毛国・我妻郡に残る土地や家屋敷の管理を一手に任されました。
生計は、主に養蚕の収益で立てているはずです」
「徳井隼人は特務局に背信していたわけだが……。
それは“徳井家としての総意”だと思うか?」
室井の問いに、清晴は一瞬だけ手を止め、
それから小さく息を吐いて答えた。
「……わかりません。
ただ、五つの分家の中では――
徳井家は、宗家への忠誠がいちばん薄い家かもしれません」
その時だった。
部屋の扉を荒々しく開いて、一人の局員が駆け込んできた。
突入作戦に参加していた隊ではなく、本部の要員だった。
「局長っ! 特務局本部から伝令です!
――陸軍・海軍、両省内で将兵が武装蜂起しました!
市ヶ谷台ではすでに戦闘が始まり、
我が局員の中にも造反者が出ている可能性があると!」
「は……?!」
清晴の口から思わず声が漏れた。
「クーデターか!? なんで今――
宮城は? 首相官邸は無事なのかっ!」
室井が顔色を失いながら問いただす。
「現時点では、蜂起は“陸軍・海軍省内”にとどまっているとのことです!」
「わかった。すぐ戻る」
室井は手にしていた帳面を机の上に置き、
軍帽をまっすぐに直すと、伝令の後を迷いなく歩き出した。
「俺も――」
清晴も続こうと一歩踏み出す。
だが、室井は振り返り、鋭く手を上げて制した。
「おまえは来るな。
……おまえは、深山君の捜索を続けたまえ」
「局長……」
清晴は、それ以上言葉を続けられなかった。
去っていく室井の背に、静かに、深く敬礼した。




