第廿三話 密室の宣告――黒曜会・前編
「やあ、清晴くんに……千景さん、だったかな?」
斎部史郎は、二人に椅子を勧めながら言った。
「はい、千景です。
この度、俺の公私ともにパートナーとなりまして……今日もこうして同席してもらっています」
清晴は、漆の艶やかな座面に腰を下ろしつつ、横の千景を紹介した。
「ほう。では、祝言に呼ばれる日も、そう遠くないかな」
史郎は二人の正面に腰かけると、灰皿を引き寄せ、手慣れた仕草で煙草に火をつける。
「清晴くんも――一服どうだい?」
煙草入れを押し出す史郎に、清晴は軽く首を振った。
「どうも、俺は遠慮しておきます。昔から呼吸器が弱くて……どうぞお構いなく」
「そうか。陸軍だと、煙草はコミュニケーションの一つだと思うが……苦労していないかい?」
史郎の問いは柔らかいが、どこか含みがある。
「まあ、それなりには、やっていますよ」
清晴は笑みを崩さずに答えた。
史郎は一口、煙を深く吸い込んだあと、吸いかけの煙草を灰皿に置き、手を組んでゆっくりと姿勢を崩す。
やがて女中がやって来て茶を勧めたが、清晴は手を付けず、千景は口を付けるふりだけをした。
二人は、史郎の私邸で出された物は、口にしないと申し合わせていた。
「ところで――手紙の件だが……護符が不具合を起こしたそうだね。
ちょっと見せてもらえるかな?」
「はい――」
清晴は着てきた軍服の上衣を素早く脱ぎ、襟の裏が見えるように整えて差し出した。
「こちらの護符です。史郎叔父さんに護符を頂き始めてから、早十二年……このようなことはなかったのですが……」
史郎は、清晴の手から受け取った護符を持ち上げ、徽章の裏に取り付けられた金属片をしげしげと眺める。
「ふむ……見たところ、術式の一部が壊れてしまっているようだね。
――最近、何か“変わったこと”はあったかな?」
吸いかけの煙草をもう一度咥え、薄く目を細めながら、史郎は清晴を見据えた。
「そうです……ねぇ……」
清晴は、唇に指をあて、思いを巡らすように視線を落とした。
千景は、不安とも違う、どこか胸の奥をつつかれるような感覚で、思わず彼を横目に見る。
史郎はその一瞬の視線の動きを、興味深げに――しかし確実に――捉えた。
「何か、“陽の気”に関わるようなことで、大きく変わったことはないかな?
私は……千景さんが君のパートナーとなったことが、大いに関係していると思うが」
史郎の視線が静かに千景へ移る。
清晴は、はっと思い出したように、ゆっくりと唇から指を離した。
「……ああ、叔父さん。まさか、それですか?
確かに、彼女を妻神の依り代に迎えてから、気を整えてもらうことは増えましたが……」
「ふむ。――彼女に、何度も気を整えてもらっているんだね?」
問いかけた史郎は、どことなく不自然で、抑えきれない笑みを堪えているように、口端がわずかにピクリと動いていた。
「はい。ことに、その護符がうまく機能しなくなってからは、頻繁に気を整えなければならず――。
かといって、次々と新しい護符を試すのも恐ろしくて……こうして早急にお会いできて、助かりました」
「なるほど。恐らく、それだろうなぁ」
史郎は、煙草の灰を落とすように軽く指を揺らしながら続ける。
「斎部家の夫婦神は、次代の夫神の近くに妻神の依り代がいると――“和合を促した夫神”が、依り代の陽の気を暴走させてしまう。
君のお父上も、遷座の間際はずいぶん苦しんでいたと聞いているよ」
そう言うと、史郎は煙草を灰皿に押し付け、もみ消し、不敵な笑みを浮かべた。
「完全に遷座してしまえば、私の護符もいらなくなる。
だが、それまでは千景さんに協力してもらって――なるべく頻繁に、“気の調整”をしてもらうといい。
そうすれば、護符が壊れるようなこともなくなるはずだ」
「……わかりました。
ところで――一つ、お聞きしたいことがありまして」
清晴は、静かに背筋を伸ばし、真正面から史郎を見据えた。
「護符が壊れた機会に、色々と検証してみたのですが……
あの護符、俺の“陽の気”だけでなく――神威や異能の力まで、吸い取っていませんか?」
「……何を根拠に――」
史郎は、椅子の背にゆったりと身を預け、苦笑を浮かべた。
その笑みには、わずかな“牽制”が混じっている。
「実は、少々事故がありまして。二、三日ほどですが、護符を付けないで過ごしたことがあったんです。
その際、“陽の気”の蓄積はもちろんですが……同時に、明らかに異能や神威も強まっているのを感じまして」
清晴は、いかにも“ただの推測”であるかのような顔で――静かに嘘を吐いた。
「それで……検証してみたんです。
確かに、護符を身に着けていると体調はいい。けれど、神威や異能は明らかに弱まっていると」
「……ふむ」
史郎は煙草の火の消えた先を見つめるような、長い沈黙を置いた。
それから、ゆっくりと視線を清晴へ戻し、じっと観察するように見つめた。
やがて彼は、ふん、と鼻で笑い、新しい煙草に手を伸ばした。
「ところで、清晴くん。君は――斎部家と、夫婦神……戸神名神と美都香比売の歴史を、どれほど知っているかね?」
突然の話題の飛躍に、清晴は一瞬、表情を失った。
「……父や祖父から聞きましたが……斎部家で伝わっている程度には、知っております」
「では――」
史郎は煙草の箱を指先で軽く叩きながら続けた。
「あの夫婦神が、本来ならこの日の本の国を統べるほど、強大な力と権勢を持ち……
天孫系の神々が高天原からこの地を征服する以前――
天地そのものを支配していた、ということは?」
「……千四百年ほど前まで、この関東一円を支配していた、とは聞いていますが、
この日の本の国すべてを統べる、などは――到底及ばないと聞いております」
父や祖父から聞かされていた通りに答えると、
史郎はもう一度、明確に人を見下すような鼻笑いを漏らした。
「賢い君なら、それが方便だと……もう気づいているんじゃないかね?」
箱から新しい煙草をつまみ出しながら、史郎の声色はわずかに低く沈んだ。
「夫婦神は確かに、天孫系の神々の侵攻に遅れを取り、長らく封印された。
だが……封印できた理由は、斎部の祖先が行った“二神一柱を引き裂く禁術”に、
見事にはめたからにほかならない」
火をつけた煙草の先が、ほんの一瞬だけ怪しく赤く揺れた。
「現に――半世紀前に二神の和合が成ったあと、どうなった?
現人神たる陛下ですら、軽々と凌駕するほどの“神威”を取り戻された。
……そういうことに、気づいているのではないかね?」
「……」
清晴は是とも非とも言わず、ただ目を細めて史郎を見返した。
隣に座る千景だけが、はらはらと二人の間に視線を彷徨わせる。
「清晴くん。君も――異能者の男なら、一度は考えたことがあるんじゃないか?」
史郎の声が、妙に静かに、しかし確実に二人へ沈んでゆく。
「『誰よりも優れた力を持っているはずなのに、なぜ、軍でつまはじきにされるのか』
『正式な部隊にも配属されず、いつまでも“外様”のままなのか』
『一人で一個師団に相当する力を持ちながら、なぜ特務中将までしか昇進できないのか。
――なぜ、大将にはなれないのか』」
「まあ、確かに……異能者は、軍の中でも異質の存在ではありますが――」
「そうだろう、そうだろう」
清晴の、少し悲しげに下げられた眉を見て、
史郎は――まるで思惑が当たったとでもいうように――静かな笑みを浮かべた。
「そう感じているのはね、清晴くん。何も君だけではないのだよ」
史郎は煙草を、すう、と細く吸い込んで続けた。
「確かに、君のお父上たちは、我々はあくまでも“陛下の臣下にすぎぬ”と、
口を酸っぱくして言ってきただろう。だが、多くの異能者たちはそうは思っていない。
優れた力を持ちながら軽んじられるこの現状を……心底、腹立たしく思っていてね」
史郎は灰皿に半分ほど吸った煙草を押しつけ、火を消した。
その仕草が、妙にゆっくりだった。
「実は――私はそうした異能者を束ね、秘密結社を結成した」
史郎は、清晴の目をまっすぐに見据えた。
「黒曜会。……君も聞いたことがあるのではないかね?」




