第二話 将校の唇、少女の涙
「ん――」
唇に、温かく湿ったものが触れた感覚で、千景は目を覚ました。
身じろぐと、上半身にのしかかっていた重みがすっと離れ、視界が明るくなる。
「……ここ、どこ……?」
見慣れない白い天井を見つめながら、ぼんやりと記憶を手繰る。
「……目が覚めたか。」
右隣から、低く艶のある男の声がした。
「ここは、陸軍省内――異能者専用の救護施設だ。」
「陸……軍……?」
千景がゆっくりと声の方へ顔を向けると、
カーキ色の軍服に身を包んだ男が、寝台のそばで体を起こすところだった。
「ああ、俺は陸軍異能特務局・特務中尉、斎部清晴。
昨夜の突入作戦で、君を保護した。」
「保護……?」
唇に残る感触をたどり、自分の唇へそっと手を伸ばそうとする。
しかし、腕はピクリとも動かなかった。
「……からだ、動かない……」
「ああ。君はいくつもの強い薬と魔術をかけられていた。
しばらくすれば元に戻ると思うが――」
清晴は腕を組み、静かに千景を見下ろす。
身体の自由を諦めた千景は、首だけを動かして周囲を見回した。
ベッドのまわりはカーテンで囲まれ、光の加減から昼であることだけはわかったが、それ以上のことは何もわからなかった。
「君、名前は?」
「え……あ……」
不意に問われ、千景が言葉に詰まる。清晴は眉をわずかにひそめた。
「名前だ。思い出せないか?」
「いえ……千景、です。深山千景。」
「ふむ、千景か……いい名だな。
名前で呼んでもいいか? 実は、苦手な上官と同じ苗字でね。」
「はぁ……構いませんけど」
千景が困惑しながら承諾すると、清晴は身をグイと乗り出した。
「寝起き早々悪いが――君のことを教えてほしい。
どこの誰で、どうしてあの場で“生贄”として捕らえられていたのか。」
「……うーん、私のこと……」
千景は、まだ霞のかかった頭で、ゆっくりと思い出そうとする。
――あー、この将校さん……よく見たら、すごくきれいな顔してる……。
そういえば、起きたとき、唇に何か触れてたけど――まさか、寝てる間に……?
……まさか、ねぇ……。
頭は勝手に別のことを考えはじめ、思考は千々に乱れた。
「……思い出せないか? まあ、あの場で押収した薬品類を考えれば、記憶障害が出ていない方がおかしいくらいで――」
千景の沈黙を、清晴は“記憶喪失”と解釈したらしい。
慌てて、彼の言葉を遮る。
「い、いえ! 覚えてます、ちゃんと覚えてますよ?
ちょっと、ぼーっとしちゃっただけで……!」
「そう……なのか? なら、いいのだが……」
「ええ、ええ……私は――」
千景は、今度こそ確かに思い出そうと、ぽつぽつと言葉を紡ぎはじめた。
+++++
深山千景は、十八年前に生を受けた。
東京生まれの、東京育ち。
父は、従業員十数名のあまり大きくない商会を経営し、
主に海外から薬品や化粧品を輸入していた。
母は、千景を産んで間もなく産褥で亡くなった。
家は裕福で、乳母に育てられた彼女は、
尋常小学校の頃から女学校まで、一貫して私学の女子校で学んだ。
父は仕事一筋で、女の影などなく、
周囲にどれほど勧められても後妻を迎えようとはしなかった。
亡き妻に、一途だったらしい。
一人娘の千景には、いずれ婿養子を取る話が持ち上がり、
十三の年に、許嫁が決められた。
女学校を卒業するこの三月までには結納が交わされ、
卒業から一年以内には結婚する予定だった。
それは、年の瀬も押し迫った師走の半ば――
訃報は、突然もたらされた。
学校から戻ると、玄関先に父の秘書が待ち構えていた。
やがて、彼は青ざめた顔で畳に手を突き、深く頭を下げる。
「……社長が――あなたのお父上が、亡くなりました。
私が社長室に入ったときには、もう事切れておりまして……。
自殺と他殺、両面から捜査が入っております。
遺書は……ございませんでした。」
そう言いながらも、秘書の顔には“伝えきれぬ何か”が残っていた。
「――実は、お嬢様に申し上げねばならないことが……」
秘書は千景に告げた。
今年に入ってから、商会の業績は急激に悪化していたこと。
十月にはすでに首が回らなくなっていたこと。
年内には倒産を予定していたこと。
そして――その矢先だったことを。
「大変申し上げにくいことですが――本来でしたら、お嬢様が女学校を卒業なさるまでの資金は残される予定でした。
……しかし、もう――社長の葬儀を上げる余力もあるかどうか……」
秘書の言葉は、千景の耳を、他人事のように通り抜けていった。
途中からのことは、もう覚えていない。
結局、父は自殺と断定され、秘書と千景だけの密葬で送り出された。
葬儀も済まぬうちから、債権者や、生前に金を貸していたという知人・友人たちが次々と押しかけ、
残っていたものを、ことごとくむしり取っていった。
そのような状況の中で、当然女学校に通うこともできず、
この先の見通しも立たないまま、退学となった。
そして、後始末に追われ、――父の死から三か月あまりが過ぎた、ある夜のこと。
千景は、縁側で月明かりに照らされた庭を、ぼんやりと眺めながら人を待っていた。
もう家の中には、何もない。
金目のものはすべて持ち去られるか、売り払われた。
数日後にはこの邸宅自体も人手に渡るため、退去しなければならない。
残されているのは、わずかな衣類と、父母の位牌だけだった。
父母は駆け落ち同然で東京に出てきて身を立てた人で、
頼れる親戚もいない。
「待たせたね。仕事が――忙しくてね」
断りもなく入ってきたのは、許嫁だった。
高そうなスーツに身を包み、今は大手商社に勤めている。
「このあとも予定があるんだ。単刀直入に言うけれど、こんな状況では結婚どころじゃない。
残念だけど……約束は、なかったことにさせてくれ」
――ああ、やっぱりね。
千景は、この申し出を予想していた。
もう嘆く心も、流す涙も、残っていなかった。
「君、行くあてはないのだろう。これ、僕の知り合いなんだけど――女中を探していてね。
話はつけておいたから……この紹介状が、僕から最後にしてあげられることだ……」
彼はそう言って、一枚の名刺と、封をした紹介状を畳の上に置いた。
「では、さようなら。元気でね」
そう言うと、彼は別れを惜しむでもなく、慌ただしく去っていった。
――家を追い出されたら、花街に身を売ろう。
そこまで思い詰めていた千景は、元許嫁の置き土産を受け取ることにした。
名刺に記されていた名は「今泉誠二」。
肩書は、元陸軍異能特務局・特務中佐だった。
さっそく連絡し、先方に許可を得る。
家の引き渡しが終わると、ここまで尽くしてくれた秘書が、
「最後の奉公です」と言って、目白の今泉邸まで車を出してくれた。
+++++
「今泉邸では、人手が足りなかったと歓迎されました。
仕事は明日からでいいと、素敵な女中部屋まで宛がってくださって……。
ご夕飯には“歓迎だ”と、豪華なお膳まで用意してくださったんです」
千景は、天井を見つめながらぽつぽつと吐き出した。
「将校さん、どうしましょう。
一晩ではありますが、あんなに良くしていただいた今泉さまに、
何も言わずに留守にしてしまいました。
もう、私の籍はないかもしれません……」
千景の視界がじわりとにじむ。
「……きっと、もう、信用を失いました。
奉公先を追われた女に、次の行く先なんてありません。
なら、いっそ――身を売るしか……」
「――君を生贄に、儀式を行おうとしていたのは、その今泉だ」
黙って聞いていた清晴が、突然、ピシャリと断言した。
「え……?」
「だから、君を殺そうとしていたのは、今泉なんだ。
『若さと美を授ける』などと称して、帝都の貴婦人や高級娼婦を集め、高額な金を出させていた。
そして君を――呪術の道具にしようとしていた。
しかも、君は最初の犠牲者ではない。
これまでも何人もの若い女が姿を消し、血を抜かれた遺体で見つかっている。」
千景は目を見開き、呆然と清晴を見つめた。
彼は感情を読ませない無表情で、静かに千景を見下ろしている。
「今泉は捕まった。今は軍が、その身柄を確保している。
奴は――元・陸軍の異能将校だ。
警察では、到底、太刀打ちできん。」
「嘘……今泉さまが、逮捕?」
千景は、まだ理解しきれずに繰り返した。
やがて、唇がわなわなと震え、その震えは全身へと広がっていく。
身体の奥底から、何かが突き上げるような力の奔流が湧き上がり、
言いようのない不快感となって、全身を駆け巡った。
清晴はすぐに彼女の異変に気づき、顔色を変える。
「おいっ、落ち着きたまえ! 陰の気が暴走しているぞ!」
「えっ……あ……どうしたら……」
千景も我に返って慌てたが、もはや自分の身体を制御できる状態ではなかった。
清晴の判断は早かった。
チッと舌打ちし、千景の上に覆いかぶさる。
「許せ。――必要な処置だ。口を開けて」
千景は、言われるまま素直に口を開いた。
「んぐ……」
彼女の唇に、彼の唇が重なる。
――私……将校さんと、キスしてる……?
目を見開いたまま、彼の舌を受け入れながら、ぼんやりと思った。
彼の口から、何かが送り込まれた。
それは温かく、流れ込むほどに、胸の奥の不快感が静かに消えていった。
千景がすっかり落ち着き、そっと目を閉じたとき、
清晴はようやく唇を離した。
「……昨夜から、君の陰陽の気が乱れていてな。
それを整えるために――少し、特殊な処置をしただけだ」
「『陰陽の気』って……なんですか?」
千景は頬を真っ赤に染め、薄目で清晴を見ながらたずねる。
「ああ、『陰陽の気』とは、人の生を司る根本の力だ。
強大な力をもたらすこともあるが、その均衡は実に繊細で――」
「……難しくて、わかんないです」
「……生命力みたいなものだ。陰と陽があってな。
おまえは昨夜から、陰の気に極端に傾いていた。
俺はもともと陽の気を多く持つ体質で――だから、効率的に“経口から摂取”を――」
「“経口から摂取”なんて言い換えたって、実質“口づけ”じゃないですかぁ……。
私、誰にも唇を許したことないのに――」
危機感のない千景に、清晴の片眉がぴくりと跳ねた。
「あのなぁ……おまえの命がかかっていたんだぞ?
唇がどうのとか、構ってられるもんか!
だいたい、俺だって――初めてだったんだ!」
「えっ……」
「それにおまえ、身売りするとか言っていただろう!
そうなったら、口づけなんて目じゃない、もっとすごいことをするんだぞ! わかってるのか!?」
凄んだ清晴の顔を、千景はまじまじと見つめてしまった。
「――将校さんも、初めて、だったんですか?」
千景に穴が開くほど見つめられ、清晴はようやく己の失言に気づく。
「あー、もう……知らんっ。
とにかく、これは必要な処置だ。医療行為だっ!
必要なら、またやる。おまえの“初めて”には数えなくていいぞっ!」
言い捨てた彼の白皙の頬は、ほんのりと耳まで色づいていた。
気まずげに目をそらすと、清晴は立ち上がる。
「とりあえず俺は、上に報告に行ってくる。
すぐ戻るから、おとなしく待っていろよ!」
破れかぶれの調子でそう言い捨て、カーテンの向こうへ去ろうとした。
が、ふと振り返って、まじめな顔でたずねる。
「――『黒曜会』を、知っているか?」
「いいえ、知らないわ」
千景は即答した。
「そうか。……わかった」
清晴は短くそう答えると、今度こそ部屋を出ていった。
カーテンが揺れ、彼の残した空気だけが熱を持って部屋に残った。




