第十九話 特別な席
「静香と徳井に嫌疑がかかるなんて……信じられません!?
だって、彼らは士官学校の同期なんですよ?」
清晴は、ベッドの上で思わず声を荒げた。
「静香は俺のカメラートでしたし、徳井は斎部家の古い分家筋ではありませんか。
俺とだって幼い頃からの付き合いで……乳母子同然の間柄なんですよ!」
「清晴、冷静になりなさい。
私だって、静香さんのことも隼人君のこともよく知っているから、信じたくはないわ。
けれども、状況が状況ですし、現にあなたたちに危害が加えられているの。」
時子はベッドの端に腰かけ、痛ましげな面持ちで息子の肩にそっと手を置いた。
「それに、二人とも優秀な士官よ。これからの異能特務局には、なくてはならない人材だわ。
だからこそ、いま慎重に捜査が進められているの。
起こってしまった事の次第は、解釈をひとつ誤れば、それだけで若者の未来を断ちかねない。
上もそのことは重々承知して、精査しているのよ。」
「そうだぞ、清晴。」
不意に後方から声がかかった。
一同がハッと振り返ると、特務局局長・室井輝昌が、書類の束を片手にこちらへ歩み寄ってくるところだった。
「関係者の聴取が、ひとまず終わった。徳井は……未だ行方知れずだ。」
室井は歩みながら適当に椅子を一つつかみ、ベッドの脇へ腰を下ろした。
「八代は、一貫して“君に危害を加えようとした”という点を否定している。
清晴。
おまえが以前から斎部家より“陽の気を抑える護符”を授かっていたこと——八代もその事実を知っており、徳井の言い分を信じてしまった、と証言している。
……おまえは、度々、徳井経由で護符を受け取っていたそうだな?」
「はい……。
斎部家の中でも、斎部医薬化学商会を経営している史郎さんに依頼し、護符を作っていただいておりました。
その点につきましては、局長にも以前より承諾を得ております。
徳井家は、史郎さんの一族とも縁が深い家でして……。
そのため、護符の受け渡しを、彼に度々頼んでおりました。」
「なるほど……。
おまえたちを置いて現場から去ったのは、確かに嫌疑を深める要因にはなった。
だが――駆けつけた将兵に的確な指示を出していたことも事実だし、
局舎の敷地内から離れた形跡もない。
……八代の言い分も、全面的に否定する必要はないのかもしれん。」
室井はしばらく考え込むように眉根を寄せた。
「まあ……徳井が見つからん以上、何とも言えんがな。
軍法会議は――避けられんだろう。
それよりも、だ。……こいつを見てくれ。」
そう言うと、室井は持ってきた書類束から一枚を抜き取り、清晴へと差し出した。
清晴がそれを受け取ると、一同は自然とその手元をのぞき込んだ。
紙面を見た瞬間、清晴の表情が険しさを帯びる。
「局長……これは――」
「ああ。今はもう消えているが……おまえの胸に刻まれていたものを救護室に運び込まれた際、軍医殿が写し取っておいたものだ。
おまえたちは、この模様に覚えがあるだろう。」
室井はさらに紙束を探り、一枚を取り出して清晴の膝の上に置いた。
「……中野で、神を狂化させ“禍神”に堕とした呪符と、同じ、ですね。」
「そうだ。局内の解呪班にも確認させたが、細部までほぼ一致している。
念のため筆跡鑑定も行ったが……結果は“同一人物の筆跡”だ。」
千景が思わず息を呑む気配が、そっと室内に落ちた。
不安そうに二枚の紙を見比べ、ぎゅっと両手を握りしめる。
「ということは……清晴さんを暴走させたのは、中野の時と同じ……黒曜会ってことですか?」
思わず上ずった声で問いかける千景に、室井は静かに、しかし深くうなずいた。
「ああ、そうだ。しかも、黒曜会の関与を示すのはそれだけではない。
おまえたちに使用された催淫ガスも、黒曜会が交霊会や儀式で使用しているものと“完全に一致”した。
ここまで揃えば……徳井が黒曜会の手先だったと考えるほかない。」
重々しい室井の言葉に、清晴は俯き、膝の上でこぶしを固く握りしめた。
「……チクショウ……あいつが……敵だったなんて……
俺を、特務局を……みんなを裏切っていたなんて……」
絞り出すような声に、わずかに震えが混じる。
室井はそんな清晴をしばらく黙って見つめ、それから清至の肩を軽く叩き、ゆっくりと立ち上がった。
「後で聴取には協力してもらうが……まあ、今はもう少し休みたまえ。」
そう言い残して、室井は清至と時子を伴い、静かに救護室を後にした。
救護室には、清晴と千景が残された。
千景はさっきまで清至が座っていた席へと腰かけると、険しい表情を浮かべたままの清晴を見やった。
「あの……清晴さん……」
静まり返った救護室に、千景の遠慮がちな声が落ちる。
その響きに、清晴はハッと顔を上げ、彼女の方を振り向いた。
「千景……っ、君は……身体の方は、もういいのか?」
「ええ。もう、すっかり……」
「……そうか……」
安堵の気配が、清晴の肩からふっと抜ける。
それでも彼はすぐに視線を膝の上へ落とし、固く握った手を見つめた。
「千景……ありがとう。そして……すまない。
君のおかげで、俺は助かった。けれど……」
そこで言葉が途切れた。
清晴の喉がかすかに震え、息だけが漏れる。
そんな清晴を、千景は黙って、辛抱強く見つめていた。
やがて、清晴は観念したように、重い口を開いた。
「……母さんから聞いたと思うけれど。
君は――斎部家の“妻神の依り代”に、内定してしまった……。
それは、つまり……“俺の伴侶に内定した”というのと、同じ意味なんだ。
本来ならば……君の意志を確かめて、お互いの意思に基づいて進められるべきことなのに……」
清晴の顔は、見る間に俯いていった。
それでも千景は、彼の口から続く言葉をただ黙って待っていた。
「……最初から、わかっていたんだ。
君は――俺にとって、唯一の“特別な女性”なんだと。
出会った、あの夜から……ずっと。
だけど、鈍い俺は、その直感を正しく理解できなかった。
ただ、君がそばにいてくれるだけで嬉しくて……心が躍って……。
そして……卑怯な俺は、立場と、君の置かれた状況をためらいなく利用して……
君を“囲い込んで”しまったんだ……」
二人の間に、深い沈黙が落ちた。
清晴の言葉を、千景はひとつひとつ噛みしめるように胸の内で反芻し、ゆっくりと呑み込んでいった。
まず胸を満たしたのは――戸惑い。
自分を庇護してくれた将校が、自分を“特別な女性”だと言い切った事実が、あまりにも重かった。
そしてそのぬくもりを確かめるように、次に押し寄せてきたのは、
名前の付けようのない、熱くてあふれそうな気持ちだった。
「……っ」
千景が言葉を紡ごうと息を吸った、その瞬間――
清晴も、堰を切ったように口を開いた。
「千景……。
俺には、お前が必要だ。ゆくゆくは――伴侶になってほしい。
だが、それとは別に……
俺の、かけがえのない人になってほしい。
“恋人”として、俺のそばにいてほしい。
妻神の依り代だとか、定められた伴侶とか……
そんなものは関係ない。」
「……え……」
気がつくと、清晴は顔を上げ、まっすぐに千景を見つめていた。
「君の……天真爛漫さが、好きだ。
ひたむきなところも、好きだ。
君といると――俺は、俺でいられる。
だから……そばにいてくれ。」
「……私、なんかでいいんですか?」
千景は、耳まで真っ赤にしながらも、まっすぐ清晴を見返して問う。
「ああ。
君を……独占したい。」
言い切った瞬間、清晴自身もその言葉の危うさに気づき、頬が赤く染まる。
だが、咳払いひとつして気持ちを立て直すと、ぶっきらぼうに続けた。
「俺の見立てじゃ……君も、まんざらじゃなかっただろ。
ほら――俺の実家で泊まったとき……君は、唇を許してくれた。」
「……あの時のこと、持ち出すなんて……卑怯ですよ……」
「卑怯でも何でもいい。
俺は、君の“特別な席”に座りたいんだ。
――で、返事は?」
「……いい、ですよ。
よろしくお願いします。」
その瞬間――
清晴の陽の気が、ぶわりと膨れ上がった。
彼はふるりと肩を震わせ、抑えきれない幸福がそのまま表情に滲み出る。
「やだ……清晴さん、陽の気が!」
千景が慌てて身を乗り出した刹那、
清晴も反射的に動き、彼女の頬へそっと手を伸ばした。
そのまま、引き寄せる。
触れ合った唇は、喜びに震えているようだった。
「……ん――」
千景は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに彼へ応じ、そっと目を閉じた。
舌がかすかに触れ合い、温度が交わる。
彼のあふれ出した陽の気を、千景は静かに受け取り、
かわりに、自らの陰の気をそっと流し込んでゆく。
「千景……。
気とかそういうのは、もう二の次でいいのだが――」
「そうもいかないでしょ……」
唇がゆっくり離れ、二人の視線がふっと絡む。
しばし見つめ合ったまま、
結局、堪えきれずに同時に噴き出した。
それから千景は、時子から渡されていた清晴の軍服の替えを取り出し、
着替えるよう促した。
清晴の体調もほぼ戻り、救護室を出る算段がついていた。
「時子中将閣下が……今度、神威の使い方を教えてくださるっておっしゃったんです。
本当は“水の異能”の技も伝授できれば良かったのに、と悔しがっておられました。」
「母さんが……? 大丈夫かな。あの人、自分にも厳しいけど、他人にもかなり厳しいから……」
千景が振り向くと、清晴は軍服の上衣を羽織るところだった。
「大丈夫です。時子さんにも認めていただかないと……その……清晴さんの“伴侶”にはなれませんし。
……だから、私、頑張ります。」
千景は、ボタンを留めていく清晴の手元をじっと見つめた。
長い指先が器用に動いて、あっという間に並んだ金ボタンが軽やかな音を立てて止められていく。
そして――詰襟のホックに指を伸ばした、その一瞬。
千景の目が“そこで”止まった。
――あ……どこかで見たと思ったら……そこだったのね。
思うや否や、千景は清晴の首元へ手を伸ばした。
「待ってっ、清晴さんっ!」
「なっ……なんだ?!」
清晴は驚き、動きを止める。
千景は構わず、上から二つ目のボタンまで外して詰襟の裏側を覗き込んだ。
「……ほら、やっぱり! 清晴さん、これ! あれですよ!」
「おっ、おいっ――!」
清晴が目を白黒させている間に、
千景はボタンを全部外し、ついには上衣まで脱がせてしまっていた。
「清晴さん、落ち着いて聞いてください。
この襟元の徽章の裏に付けられている“陽の気の暴走を抑える護符”……これ、
中野で使われた呪符に、似てませんか?」
「……は?」
清晴は信じられないというように、千景の手元をのぞき込んだ。
のぞき込んだ――
その瞬間、彼の顔色が、みるみるうちに青ざめていく。
詰襟の裏に貼り付けられていた護符は――
間違いなく――
中野で神を“禍神”へ堕とした、あの呪符と。
素材も、形式も、符の編み方までも。
信じられないほど、酷似していた。




