第十八話 白の間の男神
気がつくと、清晴はどこか見覚えのない空間に立っていた。
一面どこまでも、白い空と白い地平が続いている。
明るすぎもせず、暗すぎもしない。だが、光源と呼べるものはどこにもなかった。
昼でも夜でもない、無時間の白。
その傍らに、千景がいた。
彼女は空中に、仰向けに静かに寝そべっていた。
まるで透明な寝台がそこにあるかのように、重力の概念から切り離された姿勢のまま、ふわりと浮いている。
いつもはまとめられている髪が、今は艶やかに広がり、
その一房ごとが淡い紫の光を宿していた。
『やあ、禁欲くん。——君は実に面白いねぇ……』
不意に、背中のすぐ後ろから声がした。
清晴は反射的に振り返った。
すると、いつの間にかすぐ傍に、一人の男が立っていた。
装束は平安の雅男を思わせる古式ゆかしいもの。
だというのに、髪は黄金色に輝き、瞳は抜けるような天色を帯びている。
「……」
清晴は、ただ無言で男を見据えた。
『君はね、一生、僕のところへやって来ないかもしれない……と、
少しだけ心配していたんだよ。
もし本当にそうなったらどうしようか――その“対処”を考え始めたところだったんだ』
男は楽しげな口調のまま、ゆっくりと歩き出した。
そして千景の傍らに立つと、彼女の髪をひと房すくい上げる。
指先で弄ぶように揺らし、スン、と静かに香りを嗅いだ。
『でも——ちゃんと自分で“伴侶”を選んだじゃないか。
それも、身体を繋がずに、一足飛びに“内定”させてしまうなんて……。
いやあ、これは僕ですら思いつかなかったよ』
男が手を離すと、千景の髪は弾むように空中で揺れ、
そのまま、見えない寝台の上でふわふわと漂い続けた。
清晴は——すでに相手の正体に心当たりがあった。
だが、たとえ“それ”であったとしても、
千景に触れられるという事実が、どうしようもなく不愉快だった。
容赦なく睨みつけると、男は愉しげに目尻を細めた。
『自分の乙女を“我が妻神の依り代”と確定させる方法は、性行為。
本来は——それ一つしか手段がないはずなんだ。
どうしてだと思う?』
男はニヤニヤと、いやらしいほど嬉しそうに振り返った。
「……いや——」
『陰陽の気は、体液にこそ濃く宿る。
殊に、男の精には格別に——女の陰もまた然りだ。』
男は再びゆっくりと、清晴の方へと近づいてくる。
『自らの乙女を“妻神の依り代”として覚醒させる唯一の方法。
それは、お互いの丹田にある気を、相手の気で満たし合うこと。
すなわち“夫婦神の和合”。
だからこそ、性行為がいちばん手っ取り早い。
本来は——それ以外に近道なんて存在しない』
彼は、ぴたりと清晴の横で立ち止まった。
『でも——君は、男女の交接もないまま、彼女を自分のものにしてしまった。
いやはや……さすが “禁欲くん” の名に恥じない、規格外の出来事だよ』
「……どうしてそんなことが?」
清晴が問うと、男はすっと手を伸ばし、
清晴のはだけた胸元へ——人差し指をひたりと添えた。
『偶然の条件が重なったんだ。いろいろとね。
たとえば——その胸に刻まれた呪符。
こいつが君の丹田へ“直通の道”を作ってしまった』
男の指が、つつ、と清晴の胸をなぞり、
へそのあたりでふと離れた。
『それから——君が選んだこの子も、特別だった。
陰の気の“量”は凡庸……しかし、その“質”と“器”が、実に非凡だったんだ。
この子はね、本能で理解したんだよ。
どうすれば君を救えるのかを。
嗅ぎ取った、と言ってもいい。
そして——呪符を経由して、君の丹田と自分の丹田を繋ぎ、
一瞬で“交換”を行った』
男は、愛おしげに目を細めながら千景を見下ろした。
その表情には、どこか“創造主”めいた甘さすら宿っている。
だが、次の瞬間には微笑をすっと引き取り、
清晴へと向き直ると、厳しい面持ちで問いかけた。
『僕はね、自分の依り代と、その候補のことは、最初から全部“視えて”いるんだよ……。
君は——この先、この子を愛する覚悟がある?』
「っ――」
『心を受け入れるだけじゃないよ。
彼女の身体も、君が“欲する覚悟”があるのかと聞いている』
「……そんなことまで、おまえに指図されるいわれはない」
不機嫌を隠そうともしない声音に、
男も不満げに鼻を鳴らした。
『君のまわりは、いつも不穏だから……こういう“大事な話”、本当は先にしておくべきなんだけどねぇ。
まあ、いいや。まずは——彼女を囲い込みなよ。
君、まだちゃんと“思い”を伝えていないんだろう?
そんな状態で、彼女を作り変えてしまうなんて……それ、卑怯だと思わないか?』
「……」
清晴は、呼吸に合わせてかすかに揺らぐ千景の体を見つめ、
言葉を失った。
男は、清晴の正面へ回り込み、
わずかに俯いたその顔を、のぞき込むようにして囁く。
『みっともなく膝まづいて——愛を乞え。
その隣の席を、君のものにしろ。
……“欲望”を自覚しろ。
話は、それからだ』
男の言葉に呼応するように、清晴の胸の呪符が明滅した。
胸の奥底で——ちりり、と。
小さく、しかし確かに、何かに火が灯ったような感覚が走る。
下腹がじんと熱く、
その奥で、力がとぐろを巻き始める——そんな気配があった。
『これは厄介な代物だからね……。僕がもらっていくよ。
……本当に、身辺には気をつけて。
人を信用しすぎないことだ』
男は右手を清晴の胸へと、静かにかざした。
次の瞬間、呪符はスルスルと皮膚から剥がれ、
薄紙のように形を崩しながら、
男の掌の中へと吸い込まれていった。
すっかり吸い込まれてしまうと、
男はその手をぎゅっと握り込み、
「よし」と満足げに笑った。
『じゃあ……しっかり頑張るんだよ』
そう言い残し、背を向けて歩き出す。
清晴も——自分の足元から光の粒となって崩れ、
この世界から覚醒しつつあることに気づいた。
『そうだ――』
男が何かを思い出したように、ちらりと振り向いた。
『僕が誰だか……わかる?』
清晴はもう胸の辺りまで光となっていたが、
精いっぱい、腹の底から声を絞った。
「我が斎部の男神——戸神名神!」
『ご明察――』
男神の声は、空間そのものを震わせるように響き渡った。
+++++
清晴が目を覚ますと、そこはいつもの救護室だった。
「……起きたか。」
横から聞きなれたぶっきらぼうな声が聞こえた。
「……父さん……。」
ベッド脇に椅子を引き寄せ、腰かけていたのは、
異能特務局の筆頭にして、夫神の依り代でもある斎部家当主——
斎部清至特務中将。
まぎれもなく、清晴の父である。
「今、母さんが深山くんと話している。もうすぐ局長も来るだろう。」
「……そうですか。」
もともと口数の少ない親子だ。
自然と、重い沈黙が落ちた。
しばらくして、隣の処置室から話を終えた千景と、
清至と同じだけの徽章と勲章を胸に飾った女軍人が入ってくる。
彼女こそ、斎部清至の伴侶にして“妻神”の依り代——
そして同じく特務中将の階級を賜る、斎部時子。
清晴の母であった。
「清晴も目を覚ましたのね。……丁度よかったわ。」
時子は千景を伴って清晴のベッドへ歩み寄り、
緊張を押し隠さぬ面持ちで息子を見下ろした。
「深山さんから、ひと通り話は聞いたわ。
――でも、一応あなたの口からも確認しておきたいの。
清晴。
あなた、深山さんに“無体”を働いてはいないのね?」
清晴はゆっくりと母を見上げ、わずかに眉を寄せた。
「はい。俺と千景は……誓って、やましい関係ではありません。」
「清晴、本当なのだな?」
父が静かに問いを挟む。
清晴はベッドの上で姿勢を正し、迷いのない動きで深くうなずいた。
その仕草を見た清至は、信じられないというように額に手をあて、
小さく首を振った。
時子もまた、深刻な面差しで清晴と千景を見比べている。
「……夢で、神と会いました。
戸神名神と、直接話したんです。」
「あの神と……会ったのか。
——どんな姿をしていた?」
清至の声は低かったが、その奥には、
父としての心配と、斎部家当主としての緊張が交じっていた。
「……若い男でした。
髪は金色で、光源もないのに淡く光っていて……
目は深い青色でした。
装束は平安の貴人のようで——
けれど、人間とは思えないほど整っていました。」
清晴は記憶をたどるように、一つずつ慎重に言葉を置いていく。
「その神から教えられました。
俺は、身体のつながりなしに、気の繋がりだけで——
千景を“妻神の依り代の候補”として定めてしまった、と。」
「そうか……」
清至が再び黙り込む。
代わって口を開いたのは、時子だった。
「深山さんにも言ったけれど――
あの“髪の色が変わった”という現象は、彼女が次代の依り代候補になった証よ」
時子は落ち着いた声で続ける。
「彼女の内に“神威”が備わっていることは、すでに確認できたわ。
このまま遷座が進めば……最終的には“婚姻の儀”を経て、
あなたたち二人へ完全に神威が移ることになる」
清晴は「遷座」という言葉に、ぴくりと肩を震わせた。
「まずは――清晴、おめでとう。」
時子は、ふっと口元だけで微笑んだ。
「この年まで浮いた話ひとつなかったから、正直、心配していたのよ。
でも、自分で相手を見つけてきてくれて……本当に良かったわ。
――ただ、ここから先は、いっそう慎重にいきましょう。」
俯いていた清至が、ゆっくりと顔を上げた。
「……例のガスを使われたそうだな。
それと、おまえの“陽の気”を暴走させる呪符も使われたと聞いている。」
声は淡々としていたが、その奥に硬い怒気が潜んでいた。
「現在、呪符使用の容疑で——八代静香中尉が拘束されている。
そして、その八代中尉に呪符を渡したと証言に上がった徳井隼人中尉は……いま、行方不明だ。」
「……静香と、徳井が?」
清晴は愕然と呟いた。




