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帝都の夜、禁欲の異能中尉は、闇の花嫁に口付けを  作者: じょーもん


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第十六話 揺らがぬ陽、乱れる心

「クソッ! しっかりしろ千景! 口を布で覆えっ」


 鍵穴から噴き出すガスが、ただの煙ではないと瞬時に悟った清晴は、呆けた千景の肩を揺らしてから、

 袖で口元を覆って鍵穴へと駆け寄ってゆく。


 ガスはなおも噴き出していたが、とりあえず掌で押さえ込むと、流れがいくぶん弱まる。


「き……きよはるしゃん、このガス、知っておりまふ……こりぇ、ぎしきで――」


 千景も口を覆ったまましゃべろうとするが、既にろれつが回っていない。


「……チクショウ、やっぱり“同じガス”でも、二度目は作用が違うのかっ!?」


 清晴も、この匂いには覚えがあった。


 黒曜会の捜査中、押収品として嗅いだ薬品――その作用は端的に言えば、媚薬。


 市井に出回るまがい物ではない。

 嗅いだ者の理性を確実に奪う、本物の“淫薬”だった。


 ――危険な代物だから、香りだけでも覚えておけ

 そう言われ、ほんの少量を嗅がされたときは、軽い酩酊感と動悸を覚えた程度だった。


 ……だが、今、漂っている濃度は――明らかに、その比ではない。


「はぁ……はぁ……」


 どさり、と音を立てて、千景が椅子から転げ落ちた。

 床に両手をつき、荒い息を吐いている。


「大丈夫かっ!」


 清晴は駆け寄ろうとしたが――鍵穴から手を離せない。


「クソッ……!」


 何度目かもわからない罵声が漏れ、唇を強く噛む。


 それでも手のひらに感じる圧が、次第に弱まっていくのがわかった。

 ガスの流れは――ぴたりと止まる。


 ――よし。何とか、こらえた


 清晴の胸に、かすかな希望の光がさす。


 そっと手を浮かせ、ガスの漏れがないことを確かめてから、ゆっくりと離した。

 千景のもとに行こうとして、ふと思い立つ。


 ――この向こうに、まだ“誰か”がいるかもしれない。


 不意に、心の隙を衝かれたような感覚が走る。

 思わず清晴は、鍵穴を覗こうと顔を近づけた。


 その刹那――。


 高濃度のガスが鍵穴から噴き出し、真正面から彼の顔を打った。


「んがっ――!」


 思わず息を呑んだ瞬間、多量のガスを吸い込んでしまう。

 のけぞるように倒れ込み、激しく咳き込んだ。


 とたんに、頭がぐらぐらと揺れた。

 意識は朦朧としているのに、心臓の鼓動だけが――やけに大きく耳元で鳴っている。


 身に覚えのある高ぶりが、脊髄を駆け上がって脳を焼く。

 身体が、不随意にびくりと跳ねた。


「きよはるしゃん……あちゅい……こわい……でも……そばに……」


 いつの間にか、千景が床を這って清晴の傍らまで来ていた。


 彼女の頬は上気し、額には玉の汗。

 苦痛にうるんだ瞳と、赤く艶めく唇が、異様なほど生々しい。


「ちかげ……だめだ……おれも、ガスをまともにくらってしまった……」


 上体を起こした清晴も、荒い息をつきながらどうにか声を絞り出す。

 滴る汗が、ぽたりと床に落ちた。


 千景は制止も聞かず、清晴の膝の上へと身を投げ出す。

 震える腕で、彼の腰にしがみついた。


「はぁぁ……」


 安堵の吐息が、熱を帯びた清晴の腹をくすぐる。

 千景は軍服越しの固い体に、頬をすり寄せた。


「チクショウ、チクショウ、チクショウ……!」


 清晴は何度も呪いのように吐き捨てた。

 次の瞬間、千景を抱き上げると、抱きつぶさんばかりにその身を強く抱きしめた。


 苦しいはずなのに――千景はどこか嬉しそうに、恍惚とした面差しでその抱擁を受け入れていた。


 しばらくそのままじっとしていると、

 千景が吐息とともに、彼の耳元で囁いた。


「きよはるしゃん……くちじゅけ、くだしゃい……くち……じゅ……け……」


 普段の彼女からは考えられない、幼く舌足らずな声。

 その響きが、かえって清晴の理性を呼び覚ました。


「だっ……だめだ……こんな状態で、そんなことをしたら――君が、絶対に後悔する……!」


 清晴は、彼女の背を撫で上げそうになった手に力を込め、

 そのまま一層強く、彼女を抱きしめた。


 荒れ狂う本能を、ただひたすらに抑え、抗い、己を律する。


「きよはるしゃん……きよはるしゃん……きよはるしゃん……」


 千景は、泣き声のような声音で、壊れた人形のように彼の名を繰り返す。


 やがて清晴は、獣のように暴れる肉体と、理性に縛られた心が、

 乖離していくのを感じた。


 ――あれ……何か、おかしい。

 抗いがたい衝動なのに……何かが、決定的に足りない……。


 妙に冷静になった心が、異変を察知していた。


 彼が“禁欲中尉”などと揶揄されていても、生理的な衝動がまるで無かったわけではない。

 そして、その際に必ず伴った“ある感覚”があった。

 むしろ、それこそが衝動を誘発していたと言っていい。


 ――これだけ本能が暴走しているのに……陽の気が、ほとんど揺らいでいない。


 その一点に気づいた瞬間、胸の奥に氷が落ちたように、心の芯が冷えていく。


 ――だが、陽の気も異能も暴走していないなら……まだ、耐えられる。


 清晴は、わずかな理性を頼りに、千景を抱きしめていた腕をほどき、

 彼女の身体を引きはがした。


「きよはるしゃん……」


 くたりと脱力し、嬉しげに笑う千景の肩を掴み、強く揺さぶる。


「しっかりしろっ! 自我を保てっ!

 この薬は、神経“だけ”に作用しているっ。

 こんなところで欲に負けたら、絶対に後悔するぞ!

 だから――!」


「あ……」


 彼の言葉が届いたのか、千景の瞳に、かすかに理性の光が戻った。

 身体の制御までは取り戻せないものの――衝動だけは、確かに鎮まっていた。


 ++++++


 ――やっぱり、このガスだけじゃダメかぁ……。

 陽の気まで活性化させなきゃ、異能者は一筋縄ではいかんね。


 会議室の鍵穴から内部をうかがっていた徳井は、

 低く、小さく舌打ちした。


 隙をついて高濃度のガスを清晴に浴びせるところまでは、上出来。

 だが、この薬は“神経だけ”に作用する。


 ――長年の禁欲で鋼鉄みたいに鍛えられたあいつには、

 からくりを看破されてしまえば――

 根性で乗り越えられる。


「……まったく。化け物みたいな奴だな、ほんと」


 忌々しげに吐き捨てると、徳井は鍵穴から離れ、

 一度だけ深く息を吐いた。

 表情を素早く“同僚の心配顔”に作り替える。


 次の瞬間――防音結界を解き放つ。


「おい、斎部っ! 無事かっ!?」


 さも取り乱したような声で叫びながら、

 激しく扉を叩く。


 中から、弱々しい清晴の声が返ってきた。


「とく……い、か?」


「ああ、俺だ!! どうしたっ」


「ガスを……例の、精神を刺激するガスを吸わされた……」


 ――“精神”ねぇ。

 くく……性欲とか、催淫とか、好きな女の前じゃ、どうしても言いたくないわけだ。

 可愛い奴め。


 徳井は、思わず吹き出しそうになるのを必死にこらえた。


「鍵、開けられるかっ!?」


「……いや、身体が言うこと聞かなくて……」


 ――ほう。運動野にも作用、ね。

 これで陽の気まで誘発できれば……さすがの奴も耐えられまい。

 しかし……面倒なことになった。

 鍵を借りて開けなければ――。


「今、鍵を借りてくるっ! それまで耐えてくれっ!」


 切迫した声を装い、廊下を駆け出す。

 曲がり角まで全力疾走し、そこでようやく速度を緩めた。


 ――あまり悠長にしていると、催淫剤の作用が切れてしまう……。


 徳井は、咎められぬ程度の速さで足を運びながら、事務室へ向かった。


「きゃっ」


「おっと……」


 鍵を借りて戻る途中、出合頭に静香とぶつかった。

 その刹那、徳井の脳裏に、電光のように“すばらしい考え”が閃く。


「八代っ、いいところにいた! 斎部が襲撃されたっ!

 第三会議室で動けなくなってる! おまえが行ってやれっ!」


「えっ? え、えぇっ?!」


 静香の表情が強張る。

 徳井は、腹の底でほくそ笑んだ。


「俺は軍医を呼んでくる!

 ──ほらっ、これが会議室の鍵!

 それから、この護符を斎部の胸に貼ってくれっ!」


「なっ……何? えっ?」


「斎部の陽の気が暴走しそうなんだっ!

 だから、急げっ!」


「わっ、わかった!」


 徳井の切羽詰まった演技に、静香の顔からみるみる冷静さが失われていく。

 押しつけられた鍵と、十センチ角ほどの和紙製の護符を握りしめ、

 静香は第三会議室へ駆け出した。


 その護符の“効能”など真っ赤な嘘だった。

 あれが清晴の身体に触れれば――

 彼の陽の気も異能も、容赦なく暴走する。


 静香の背中を見送りながら、

 徳井はとうとう笑みを抑えきれず、口元を歪めた。


 ――よし、と。

 首尾を見届けられないのは残念だが……潮時だな。

 八代、同期としての“最後のプレゼント”だ。

 しっかり、失望してこい。


 それから徳井は、煙草を一本取り出し、

 その場で火を点けて、うまそうに煙を吸い込んだ。


 白い煙が、まるで別れのようにふわりと揺れた。

 徳井の背中は、一度も振り返らなかった。

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