第十四話 報告書の余白に
清晴たちと別れ、薄暗い廊下を静香の靴音だけが響いていた。
――昨日は、ほとんど眠っていない……。
それは事実だった。
中野で襲われた清晴のために、夜を徹して分析と情報収集に没頭していたのだ。
――この、胸のざわつきは……寝不足のせいかしら……。
「情けない」と小さく呟き、静香は眉をしかめてこめかみを揉んだ。
「よぉ、八代。今朝は早いな!」
向かいから徳井が手を上げる。
「……こっちは泊まり込みよ。寝不足の頭に、その声はきついわ。」
「ははは、そりゃ悪ぃな。」
静香の冷たい視線をものともせず、徳井は距離を詰めてきた。
「なぁ、斎部に会ってきたんだろ? どうだった?
あいつ、ご執心の可愛い部下と――午前様だったんだって?」
耳元で囁かれた声には、確かにからかいの色があった。
静香は露骨に眉をひそめ、徳井を睨み上げる。
「……徳井。いくら士官学校の同期でも、言い方ってものがあるでしょ。
千景さんは訓練中に倒れたの。その介抱だって聞いているわ。」
中野の事件がどこまで共有されているのか――彼女にはわからない。
だから、静香はあたりさわりのない嘘を混ぜた。
「介抱……ねぇ。
あいつ、最近ずっとそれだ。“医療行為”だの“介抱”だのって言葉でごまかしてるが、
やってることは、口づけに乳繰り合い――恋人のそれ、そのものじゃないか。」
「だから、何? 自立した大人同士なんだから、別に問題ないじゃない。」
静香がきっぱりと言い放つと、徳井は鼻で笑った。
「いや――おまえは、それでいいのかなって。」
「……は?」
「だっておまえ、斎部のカメラートだろ?
水属性の異能持ちってことで、誰もが“おまえが嫁になる”って思ってた。
順当に行けば、そろそろ結納――そんな段じゃなかったのか?」
「……事実無根よ。私と清晴の間で、そんな取り決めは一切ないし、話題にすらなっていないわ。」
静香はツンと顎をそらした。
それでも徳井は話をやめない。
「へぇ、意外だな。俺はてっきり、おまえたちは一線を越えてる関係だと思ってたんだが……
もしかして、口づけすらまだ?」
「まだも何も――そんな関係じゃないって言っているでしょ?
それ以上言うと、殴るわよ。」
殺気を纏った静香に、徳井は「怖い怖い」と笑いながら、一歩、身を引いた。
「――素直になったほうがいいんじゃねぇの?
俺は、おまえたちを士官学校時代から見てきたんだ。
これでも、心配してるんだぜ。」
「ふん、余計なお世話よ。」
静香は今度こそ徳井に顔を背け、足早にその場を去った。
けれど、去り際――ぎゅっと拳を握りしめた彼女の手を、
徳井は目ざとく見逃してはいなかった。
+++++
清晴と千景は、静香と別れたあと、局長室へ帰営の報告に向かった。
局長の室井も、昨夜の事件を受けて急遽泊まり込みとなったらしく、
軍服の肩口は、わずかにくたびれて見えた。
「斎部清晴、深山千景、ただいま帰営いたしました。
昨夜は突然の外泊、申し訳ありません。」
清晴が敬礼すると、室井はあくびをかみ殺しながら椅子の背にもたれる。
「ご苦労。昨日は災難だったな。活躍は聞いている。」
そう言って煙草に火をつけ、一口吸って、うまそうに煙を吐いた。
清晴と千景は、その様子を黙して見守る。
室井は眠そうに目をこすったあと、ゆっくりと身を起こし、机の上から一枚の書類を取った。
「海野中将から報告は受けたが――にわかには信じがたい。
報告書が正しければ、俺たちの若い頃はおろか、特務局発足のころに対峙したような、強大な禍神だ。
……いや、疑っているわけじゃない。
よくぞ二人で食い止めた。」
「実際、あれは何者だったのですか? いったい、どこから――」
清晴が問うと、室井は煙草を咥えたまま、机の上の布包みを手に取った。
ゆっくりと布を開くと、昨日の鉛板の呪符が姿を現す。
清晴は思わず息を呑み、表情をこわばらせた。
室井はその様子に、苦笑を浮かべる。
「大丈夫だ。すでに無効化された抜け殻だ。
――とはいえ、あまり素手で触りたいものでもないがな。」
清晴と千景は、机に恐る恐る近づき、その呪符をのぞき込んだ。
無効化されているとはいえ、そのたたずまいは昨日と変わらず、不気味なまでに静謐だった。
清晴は思わず視線をそらすが、千景はもう一歩進み出て、まじまじと観察する。
「静香には資料をもらいました。
この呪符は――黒曜会のもので間違いありませんか?」
「ああ、間違いない。
呪詛に込められていた異能の力……いや、“魔力”と言ったほうがいいか。
照合の結果、複数の黒曜会幹部の魔力と一致した。」
「複数人……」
「ああ。転移の痕跡を辿ったところ、奥州方面の山地――そこまでしか追えなかった。
あれは確かに、牛頭天王が変容したものだったが……
奥州は、とてもその信仰が盛んな地とは言い難い。
恐らくは、相当の力によって増幅されていたと見るべきだ。」
清晴はもう一度だけ、金属板に視線を落とした。
室井はその横顔をじっと見つめ、煙草をもみ消す。
「ところで――深山君の具合はどうなのだね? 体調はもう万全か?」
問われた千景は、はっとして背筋を伸ばした。
「昨夜、清晴中尉に適切な処置をしていただき、すっかり元気です。」
「それは良かった。清晴、おまえからも報告を聞きたいのだが――」
室井が視線を向けると、清晴は背筋を正し、真剣な面持ちで答えた。
「はっ、千景はすばらしい女性です。」
「……ん?」
大真面目な声に、室井は笑顔のまま固まる。
「保有している陰の気は上質で、彼女さえいれば、私は護符なしでも生活できる――そんな気がいたします。」
「お、おぅ……。せ、戦闘面ではどうなのだ? 士官に登用してもよさそうか?」
「はいっ! もちろんであります。
彼女の使う闇魔法は極めて強力で、今回の戦闘においても寄与の度合いは私以上と存じます。
ぜひ、彼女を士官に。――彼女こそが、特務局……いえ、この国にとっても、無くてはならない人材と確信いたします!」
「……ずいぶん買っているんだな。――ならば、前向きに考えよう。」
「はいっ! ぜひ任官の暁には、引き続きこの私の下に就かせてください!
彼女こそが、私の最上の相棒! 昨日の戦闘で、確信いたしました!」
曇りなき眼で言い切られた室井は、若干引き気味に清晴と千景を見比べた。
「……おまえたち……昨夜は――寝てないのか? いや、“寝た”というのが正しいのか……どこまで進んだんだ……」
「どこまで――と申しますと……相棒になることを承諾してもらいました!
今後はそのように配慮していただけると幸いです! な、千景!」
突然話を振られた千景は、目を白黒させた。
「は、はい?! えぇ……まあ――」
――私、承諾したのかしら?
でも、彼の口づけは受け入れたわよね?
え、あれで承諾って考えていいのかしら?
そもそも、相棒って、口づけし合う仲なのかしら……?
胸の内でぐるぐると思考を巡らせる彼女をよそに、清晴は得意げに胸を張る。
「……うむ。――まあ、君たちの熱意は伝わった。報告は、そこまででよかろう。
一応、今後はそのように配慮する。」
それから、室井は大きな――とても大きなため息を一つ吐いた。
「おまえたちは……特に清晴は、とても……かなーり疲れているようだな。
今日はもう非番でいい。帰って、ゆっくり寝ろ。」
「はっ!」
敬礼をして、清晴と千景は退室していく。
その背を見送りながら、室井はもう一度、大きなため息をつき、
「――まさか、あいつがあんな壊れ方をするとは……。
禁欲も、二十五までこじらせるとロクでもないな。」
と、ぼやいた。




