第十二話 八つの鐘の夜に
「どうだね、コウ。君の目から見て、斎部の小僧は――」
「そうですね……奴が禍神と本格的に戦うのは、初めて見ましたが……総帥の足元にも及ばないのでは?」
中野学舎の演習場。その外縁のさらに遠く、小高い丘の上に、二つの影が立っていた。
一つは、背広をきちんと着こなし、顔を黒い薄布で覆った壮年の男――黒曜会総帥・来栖宗真。
もう一つは、コウと呼ばれた陸軍将校の外套を羽織る青年で、双眼鏡をのぞき込んでいる。
彼もまた軍帽の下に黒い薄布を垂らし、双眼鏡を外しても、その表情は窺えなかった。
丘の下では、防戦が続いていた。
時おり、神威や異能が可視化し、夕闇の中でピカッ、ピカッと閃光がまたたく。
「まあ――最初に援軍要請の信号を上げたのは、さすがですね。
奴は自分の力量をよく把握している。」
「女の方はどうだ。深山……千景、だったか?」
「善戦しています。今のところ神威の発動は無し。
闇の異能のみで禍神を釘づけにしています。
――あ、援軍到着しました。思ったより早いな……え? 神威持ちが二人? チッ、予定外の来校者がいたか……」
コウは双眼鏡を覗いたまま、舌打ちした。
「ふむ……それは残念だ。
もっと彼らを痛めつければ、より早く“和合”へと導けると思っていたが――」
来栖は、口ぶりの割に、あまり残念そうではない声音で言う。
コウは双眼鏡を外して、来栖へと向き直った。
「前々からお聞きしたかったのですが――闇の娘と斎部の和合が成ってしまってからでは、手遅れではないのですか?」
いぶかしげなコウに、来栖は薄布の内側でもニヤニヤと笑みを浮かべているのがわかる。
「斎部家の夫婦神――その神威の依りどころが最も不安定になるのは、
当代から次代へと引き継がれる、まさにその“あわい”の時なのだよ。
依り代にふさわしい乙女が現れれば、夫神の依り代たる斎部の男は陽の気に苛まれ、
その肌を求めずにはいられなくなる。
その瞬間から、遷座は始まり、婚儀の前に肌を重ねれば重ねるほど、
その所在は不安定に揺らぐのだ……」
「……では、あなた様は、その不安定さを狙っていると?」
コウが首をかしげた。
その時、ひときわ大きな咆哮が空気を震わせる。
禍神が、倒れたのだ。
「そうだ。そしてその時を狙って、
私が妻神の依り代となった“闇の乙女”と、
斎部の夫神の神威を奪い、依り代の座に就く。
そうすれば、私はこの国を統べる現人神にすら抗し得る――」
来栖はゆっくりと両手を広げ、薄布の奥で笑った。
「――新しい王朝の始まりだよ。」
その言葉を聞き、コウは一瞬、息を呑む。
陽はすでに山の向こうに沈み、あたりは夕闇に包まれていた。
「――なるほど、腑に落ちました。
そのためにも、これから尽力してまいります。
総帥がこの国を統べることこそ、
異能者の、異能者による、異能者のための統治となりましょう。」
コウは左手を胸に当て、静かに背筋を伸ばした。
不意に風が強く吹いて、コウの外套がはためく。
その首元に輝く徽章は――、異能特務局の五芒星だった。
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カチ、カチと秒針の音が響き、やがて鐘が八つを告げた。
泥のようなまどろみの底から、意識がゆっくりと浮かび上がっていく。
まぶたを開けると、見慣れぬ天井。
あたりを見回すと、そこは畳敷きの和室で、千景は敷かれた布団の上に寝かされていた。
身を起こしてぼんやりしていると、不意に足音が近づき、襖が開かれる。
「起きたか、千景。」
入ってきたのは、夕餉を載せた膳を片手に持った清晴だった。
「……おはようございます。」
まだ覚醒しきらない彼女は、呆けたように清晴を見上げる。
「そろそろ腹がすくころかと思って、持ってきたぞ。」
清晴は襖を後ろ手に閉め、どっかりと千景の脇に腰を下ろした。
「中尉は――?」
彼が持ってきた膳には、一人分の食事しかない。
それを見て、千景は首をかしげた。
「俺は先に摂らせてもらった。
ここは中野の実家だ。今夜はここに泊まる。」
「無断外泊……には、ならないのですか?」
千景は、先日静香から言い渡された“軍人としての心得”を思い出しながら尋ねる。
「安心しろ。
呪符と禍神の残骸を特務局へ届けに行った連中に、報告は済ませてある。」
「そうですか……」
安堵した千景の横で、清晴は汁椀の蓋を取り、カタリと上向きに置く。
少し考えてやがて意を決すると、茶碗の中身が粥であるのを確かめてから、匙を取った。
清晴は粥をすくい、ふう、と軽く息を吹きかけてから、千景の口元へ差し出す。
「さあ、食べろ。」
まだぼんやりしていた彼女は、反射的に口を開けて、その匙を受け入れた。
清晴は匙を静かに引き抜き、
その頬がわずかに動くのを満足げに眺めると、
次のひと匙をすくい、再び息を吹きかけて冷ましはじめた。
粥をしばらく咀嚼して、ごくりと飲み込んだ千景は、いぶかしげな目を清晴に向けた。
「――中尉殿……私、自分で食べられますよ……」
その言葉の途中で、匙がそっと唇に押し当てられる。
千景は一瞬たじろぎ、しぶしぶ口を開けると、再び差し込まれた。
「君は倒れたんだ――俺が無理をさせた。
……世話くらい、焼かせてくれよ。」
千景の口から匙をそっと引き抜いた清晴は、
感情を読ませない平坦な声でそう言った。
「それでもですね……」
――上官と部下の関係を、超えている。
そう抗議しようとした口に、
再び匙が差し込まれた。
咀嚼しながら清晴を盗み見た千景は、
どうしようもなく真剣な彼のまなざしとぶつかってしまい、
慌てて目をそらした。
頭が冴え、顔に血が上るのを否応なく感じる。
そして清晴の――彼女を何としてでも介抱しようとする、
その強い意志を感じて、
千景は折れた。
「くそ……たまらないな……」
清晴は、自分の声にわずかに驚いた。
それが理性ではなく、感情の底から漏れたと気づいたからだ。
「ん? なにか?」
彼のつぶやきが聞き取れなかった千景が目をしばたたかせる。
「何でもない。」
清晴は煮物の里芋を箸で半分に割ると、彼女の口元へと差し出した。
彼女の赤い唇が、素直にそれを受け入れる。
部屋には、時計の秒針の音と、
ときおりカチャリと鳴る食器の音だけが、しばし響いていた。
「みな、口には出さないが……俺は、斎部の跡取りとしては、
異能も、神威も、弱いんだ。」
食後の番茶をすする千景の横で、清晴がぽつりとつぶやいた。
千景は、何と答えてよいのかわからず、横目で彼を見つめる。
清晴は畳に視線を落としたまま、言葉を続けた。
「今日だって、君がいなかったら……
俺ひとりじゃ、とてもあの禍神を引き留められなかった。
偉そうに上官ぶっているけど、君のほうがずっと強い。」
「――そうでしょうか。……私は、そうは思いませんけど。」
千景もまた、湯呑の水面を見つめながら答える。
「だって今日だって、二人だったから、あの神様を止められた。
それに、儀式の時も中尉殿が助けてくれたでしょう?
八代中尉殿から聞きましたけど――異能者って、一人で職務に当たっちゃいけないんですよね。
おごり高ぶったり、暴走しないように、いつでも二人以上で行動するって。
どっちが強いとか……あまり関係ない気がしますけどね。」
なんだか弱気な上官に、千景までドギマギしてしまう。
「そうかもしれんが……」
清晴は言い淀み、顔を上げた。
恐ろしいほど真剣な表情で、しばらく虚空をまっすぐに見つめる。
それから目を閉じ、深く、深く息を吸い込んで――
ゆっくりと吐き出したあと、何かを決意したように目を開いた。
「二十五年……ずっと一人で戦ってきた。
陽の気を昂らせないように、感情を抑えて。
今日、君と戦って初めて――心が躍った。
“陽の気”が、いまにも目を覚ましそうだ――そう感じた。」
千景は、思わず顔を彼の方へ向けた。
彼はなおも虚空を見つめながら、静かに言葉を続ける。
「静香は大切な“相棒”だった。
だが――あれは友情であって、特別な感情ではなかったと、今ははっきり分かる。
君を導きたい。君と組みたい。
君と――高みを目指したい。
自分がそう欲していることを、今はっきり感じている。」
千景は、息を呑んだ。
――そんな……そんな言い方って、まるで……。
清晴の顔が、ゆっくりと千景の方を向く。
二人の視線が、まっすぐにぶつかり合った。
途端に、彼の全身から熱波のような気が膨れ上がり、
清晴は苦しげにうめいて畳に手をつく。
「ちょっ……! 大丈夫ですかっ?!」
千景が慌てて彼の肩に手を置いた瞬間――
パシッ、と音がするほどの勢いで、清晴がその手を掴んだ。
「学舎から帰る道すがら、必死で抑えていた……
だけど……だめだった……」
苦しげな息の中で、彼は千景の身体を力いっぱい抱きしめた。
「千景……千景……千景……」
清晴は熱に浮かされたように、うわごとのように彼女の名を呼び、
そのまま彼女の身体を布団へと横たえた。
「ちゅ、中尉っ……! 気を確かにっ……あっ、熱いっ!」
千景は慌てて彼の背を叩き、必死にその理性へ訴えかける。
彼の身体は、燃えるように熱い。
けれども清晴は止まらず、溺れる者のように千景へすがりついてくる。
――このままじゃ……一緒に沈んでしまう。
それじゃあ……この人は、きっと後悔する――。
嵐のような清晴に翻弄されぬよう、千景は必死で心を保ち、
事態を打開する方法を探した。
そして、ひらめいた。
「清晴さんっ!」
彼女に名を呼ばれた瞬間、清晴はびくりと身を震わせ、動きを止める。
――彼は私の陰の気があふれたとき、口づけで気を整えてくれた。
私も同じことができれば――。
千景はその隙を逃さず、自分の唇を彼の唇に重ねた。
「ん――っ!」
一瞬、清晴の瞳が見開かれる。
次の瞬間、彼はその意図を悟り、深く、深く口づける。
余剰の陽の気を渡し、千景から陰の気を受け取った。
部屋に残ったのは、二人の荒い呼吸と、刻み続ける時計の秒針だけだった。




