第十一話 狂わされた神
「禍神って、神様ですか!?」
「ああ、恨みや穢れ、その他の理由で歪んで災いをもたらす神の事だ。
あんな巨大な神、こんな町場からは、明治の初めに駆逐されたと思っていたのに――」
清晴は言いながら、刀を持っていない左手を真上にかかげ、火球を信号弾として繰り出した。
「救援を要請した。とりあえず、中野学舎の教官連中がやって来るまで、二人で引き留めるぞ!」
「引き留めるって、倒さないんですか!?
二人でって――私も!?」
「当たり前だろ! あんなデカい神、全盛期の両親ならともかく、俺ひとりじゃ無理だ!
さっき散々練習しただろ、陰の気が心配なら、あとで整えてやるから!!」
清晴はそう叫ぶなり、禍神へと駆け出した。
「あーっ、もうっ!」
彼の背に遅れること一瞬、千景も破れかぶれで駆け出した。
「これで力を示せば、士官への道が一気に開くぞ! 心してかかれっ!」
清晴は叫ぶと同時に跳躍し、連続して火球を放つ。
火の弾は夜空を裂き、轟音とともに禍神の胴へと直撃した。
神まではおよそ二百メートル――すべて命中。
巨体の動きが一瞬止まり、禍神の意識が清晴へと集中する。
清晴は間髪を入れず、神威を数条――鎖のように編み上げ、禍神へと放った。
光の鎖はうなりを上げて神体に絡みつき、その動きを縛める。
『ウ……ウォォォォォォォォォ――ッ!』
巨体がぶんと身をよじり、ブチブチと鎖がはじけ飛んだ。
火花のような破片が夜空に散る。
「チッ、やはり俺程度ではダメか……!
千景、何をしている――おまえも戦え!
あいつを闇魔法で引き留めろっ!」
「あぁぁぁっ、神様となんて――っ!」
千景は悲鳴を上げながら、先ほどようやく成功した“闇の刃”――
空間そのものを圧縮して生じる時空の歪み――を、無数に繰り出した。
ひとつひとつは小さくとも、神の肌を切り裂き、黒い血のような瘴気を散らす。
禍神はわずかに身をのけぞらせ、動きを鈍らせた。
その間にも二人は神へと迫り、その距離はすでに五十メートルほどに迫っていた。
「よしっ、効いてるぞ! 神といえど空間に存在する以上、攻撃は通る!
いや――むしろ、他の異能より効くかもしれんな!」
明らかに自分の炎よりも禍神を怯ませている様子に、清晴の声には喜色がにじんだ。
「罰が当たりませんかぁぁっ!?」
千景は足をガクガクと震わせながらも、攻撃の手を止めない。
「罰なんか当たるもんか! よし、もう一度神威を編む――俺と連携しろっ!」
清晴は再び神威をみなぎらせ、先ほどよりも多くの鎖を編み上げた。
「はいぃっ! 重力増加でいいですかっ!」
「そうだ、行くぞっ!」
蒼白に輝く神威の鎖が、唸りを上げて禍神へと殺到する。
同時に、千景は両の掌を突き出し、闇の異能を展開した。
圧が変わる。空気そのものが沈み込み、禍神の巨体がズンッと地を揺らして臥した。
「……神も、物質でできているのだな。――重力が効いている」
今度は神も、清晴の鎖をはじく余力を失い、
不気味な叫び声を上げながら、無様にもがきのたうった。
「効いてるって言っても――岩みたいにはいきませんよぉっ!
元が軽いからっ!」
千景の身体には、紫電のようにまたたく異能の光と、
ぼんやりと暗い紫に輝く“陰の気”がまとわりつく。
夕闇の中、その姿は幽鬼のように浮かび上がっていた。
額には汗が玉のように浮かび、瞳は異能に照らされて炯々と光を放つ。
「頑張れっ、力を緩めるな! もうすぐ援軍が来るぞっ!」
清晴の身体もまた、神威の光に包まれていた。
――もう……限界……。
手がしびれ、脚から力が抜けていく。
その時――。
禍神の周囲に、金色に輝く長方形の牌が浮かび上がり、ぐるりと取り囲んだ。
「はっ!」
背後から鋭い掛け声。
直後、牌の列から光の刃が放たれ、禍神の身体を一斉に貫く。
「よーし、とどめたっ!!」
別の軽快な声が上がり、黒い人影が躍り出る。
抜き放った日本刀に神威を纏わせ、禍神へと跳躍――一閃。
眩い閃光とともに、神の首が宙を舞った。
――グシャリ。
鈍い音を立てて、巨体の骨が崩れ落ちた。
禍神の気配が、ゆっくりと薄れていく。
「やった……」
千景の顔に、安堵の笑みがふっと広がった。
「卜部副校長! それに、海野特務中将!」
清晴の呼び声に、二人が手をあげて応じる。
その背後からは、教官や神威持ちの候補生たちが次々と現れ、
あたりは一気に騒然となった。
清晴は膝から崩れ落ち、今にも地面に倒れ込もうとする千景を抱きとめた。
「大丈夫かっ!?」
「……ええ……でも、限界――」
彼の腕の中でがっくりと脱力した千景に、清晴の顔から血の気が引く。
あたりを伺う間もなく、彼は素早く彼女の唇を奪った。
口づけ越しに、戦闘で滞った陽の気を送り込み、代わりに彼女の陰の気を吸い上げる。
「君たちだね、よくやってくれた――って……お取込み中かい」
金の牌を放った卜部副校長が、重なり合う二人の気に気づき、苦笑した。
「もっ、申し訳ありませんっ! 部下の陰陽の気が乱れまして、その、処置を……!」
「ああ、君は――斎部中尉か。……斎部家の男なら、事情は理解できるよ。続けたまえ」
「いえ……あとは、肌の接触でもなんとかなります……」
よいと言われても、さすがに上官である卜部の前で口づけを続けるわけにもいかず、
清晴は決まり悪げに千景の手を握った。
「しかしなぁ、俺も驚いた……。
駆けつけたときは、まさかこんな大物とは思わなかった。
海野中将が偶然来校していて助かったよ。
よく、我々の到着まで持ちこたえてくれたな」
「いえ、援軍要請の信号に気づいてくださると信じておりました。
あれは――いったい何だったのですか? 空が裂けて現れたように見えましたが……」
清晴の問いに、卜部はしばし考え、言葉を選びながら答えた。
「牛鬼に姿は近いが……鬼やあやかしなどといった階級のものではないのは、わかっているだろう?
そうなると――素戔嗚尊の面をかぶされた、牛頭天王の姿を借りた土着神、というのが一番しっくりくるが……」
「……すごく複雑な存在ですね……」
清晴が眉をしかめると、卜部もゆるやかに首を振った。
「そうだな。
ただでさえ複雑だった我が国の八百万の神が、廃仏毀釈を経てますます錯綜した――その弊害だな」
「しかし、明治の初めならともかく――。
大正の今になって、これほど強大な禍神が突然現れるなんて……。
中野で、何か異変でも?」
「いや。このあたりにも、かつて牛頭天王を祀っていた神社はいくつかある。
だが、特に問題は報告されていないし、どれもこれほどの力を持つ神ではないはずだ」
卜部が首をかしげる。
やがて、禍神の残骸を検分していた海野中将も作業を終え、清晴たちのもとへ歩み寄った。
「斎部のせがれか! 今回はよく持ちこたえてくれたな。ご苦労!」
海野は清晴の父・清至と旧知の仲で、若い頃から彼とも親しくしていた。
そのため、呼びかけの口調にはどこか親しげな響きがあった。
「卜部さん、ちょっと、これを見てくれ」
海野は卜部のそばまで歩み寄り、手にしていた物を差し出した。
卜部が火の異能で灯りをともすと、その正体がはっきりと浮かび上がる。
それは鉛でできた四角い板だった。
鈍い銀灰色の地に、黒々と細い線で複雑な文様が刻まれている。
「……金属製、という点は珍しいが……これは――呪符の一種、だな」
卜部は一瞬、指先を伸ばしかけたが、
その意味を察すると、慌てて手を引っ込めた。
「……まだ、活きてるのか?」
海野が怪訝そうに眉をひそめると、卜部は慎重に頷いた。
「活きている。だが、水の異能を持つお前なら大丈夫だ。
俺の火の異能や神威とは相性が最悪だが――お前の白山大権現の神威なら、何ということもない」
「さすがだな……よくわかる」
海野が感心して言うと、卜部は肩をすくめた。
「まあな。うちはそういうものの専門だからな。
悪いが、それはお前が特務局に持っていってくれ。
斎部中尉には触れさせるな――あれとは相性が最悪だ」
「了解した。局の処理班に回そう」
海野がそれを胸ポケットへしまおうとした横合いから、清晴がのぞき込む。
「一体、それは何なのですか?」
その問いに答えたのは、卜部だった。
「端的に言うのは難しいが――。
神を狂わせ、禍神へと堕とし、さらに力を増幅させる……そういう効果を持つ呪符だと思ってくれ。
あの牛頭天王の土地神に合わせて調整されており、
火の属性を持つ神に対して特に激しく反応するよう設計されていたようだ」
「……神を――狂わせる?」
言葉を失った清晴に、今度は海野が応じた。
「神ってのはなぁ……強大ではあるが、案外潔癖なんだ。
ほんのわずかな汚染でも、すぐに禍神に堕ちることがある。
まあ、神の種類や来歴、それに依り代の有無にもよるけどな」
「では、あれは――誰かが意図して狂わせたものですか?」
清晴の顔色がさっと変わる。
それを見て、卜部が静かに口を開いた。
「ああ。しかも――『空間を切り裂いて現れた』と言っていたな。
本来、あの神にはそんな能力は備わっていない。
……おそらく、何者かが神を追い立て、追い詰め、
最後の逃げ場として“あの亀裂”に追い込んだ――そう考えるのが自然だ」
「残骸の回収、完了しました!」
教官の一人が声を上げる。
「よし。俺と斎藤中尉は転移の残滓の測定に残る。
ほかの者は引き上げてくれ。
矢部少尉と高田少尉は、海野中将と共に回収物を特務局まで運んでくれたまえ」
思案の表情をぬぐい、卜部は指揮官の顔に戻る。
手早く指示を飛ばすと、自ら指名した斎藤を探した。
「では、もうだいぶ暗い。斎部中尉も、気をつけて帰営してくれたまえ」
軍帽のつばを軽く上げ、敬意の代わりに短い挨拶を残して、卜部は去っていく。
千景は先ほどからずっと、清晴の腕の中で静かな寝息を立てている?
清晴は千景の髪に触れぬよう、そっと息を殺した。
それでも、胸の奥の陽の気が――わずかにざわめいた気がした。
見上げれば、夜空にはいつのまにかいくつもの星が瞬き始めていた。




