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帝都の夜、禁欲の異能中尉は、闇の花嫁に口付けを  作者: じょーもん


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第一話 黒曜会の夜に、陽は差す ― 異能中尉、救出す ―

 ――ここは、どこ……


 熱気を帯びた室内で、千景(ちかげ)は目を覚ました。


 ちらちらと光を返すシャンデリア。

 壁には天鵞絨(ビロード)の幕が幾重にも垂らされ、燭台の蝋燭(ろうそく)が揺らめいている。


 ――確か私……今日から、新しい奉公先に雇われて……


 薄目で様子をうかがえば、そこは怪しげな儀式の会場だった。


 テーブルの上には、大きな水晶玉と銀の魔具が鎮座し、黄金の香炉からはくすんだ乳色の煙がたなびいていた。

 鼻をつく香水の混じり合った匂いと、頭の芯を痺れさせる甘く苦い芳香が、部屋いっぱいに満ちている。


 知らない光、知らない香り、どれもこれもが、千景の知る世界とは全く異質であった。


 重いまぶたをゆっくりと開け、あたりを見回すと――

 十数人の女たちに取り囲まれていた。

 髪を美しく結い上げ、レースやシルクをふんだんに使った白いドレスを纏っている。

 彼女たちの首元を飾るのは、ダイヤモンドや真珠ばかり。光だけがそこにあり、色はどこにもなかった。


 そして何より異様なのは、全員が白い仮面を被っていたことだった。

 女たちは白い洋扇の影で、ひそやかにささめき合っている。


 一瞬の静寂が降りる――燭台の蝋が、ひとつ、音を立てて落ちた。


 白い扇が一斉に止まる。視線が千景へ揃う。


 ――なに……これ……?

 誰、あの人たち。どうして……私、こんな……。


 霞の中に沈んでいた千景の意識が、その異様な光景に一気に覚めた。

 身をよじろうとしたが、身体が動かない。


 彼女は、肘掛けに手首を、椅子の脚に足首を、そして胸と腰にも丁寧に縄を回され、椅子の背に括りつけられていた。


 服は、見覚えのない純白のシルクのドレスだった。

 飾りひとつないのに、胸元だけが大きく開いている。

 これほど肌をさらす衣を着たことのない千景は、羞恥と恐怖に身を震わせた。


 ――本当に一体、なんなのよっ。


 力いっぱいもがきながら、叫び声を上げようとした。


「――――っっっ」


 不思議なことに、喉はヒューヒューとかすれた音を鳴らすだけで――

 叫びは、どこにも届かなかった。


 ――その時、背後から男の声が落ちた。


「――敬虔なる淑女の皆々様……」


 千景は身をよじってその正体を見ようとしたが、椅子の背は高く、それはかなわない。


 絨毯を踏みしめるたび、軽い衣擦れの音がした。やがて男は千景の真横に立つ。


「今宵は、黒曜会の秘術の集いへお集まりいただき、誠にありがとうございます。」


 深々と優雅に一礼したその男は、燕尾服の上に漆黒のマントを羽織り、艶やかな黒の仮面で顔を覆っていた。

 ざわめいていた淑女たちは、皆ぴたりとおしゃべりをやめ、その男へと視線を向けた。


「この度、皆様にご提供いたしますのは、数百年前、偉大なる魔女であり、かの有名な伯爵夫人も愛用したという、美と若さを保つ秘術――

 乙女の生き血による、至高の調薬でございます。」


 男の声に、常連と思しき淑女たちが、大きくうなずいたり、仮面の下で微笑んだりする気配がした。


「今宵ご参加の皆々様は、まことに運がよろしい。

本日ご用意いたしましたのは、とびきりの若さと才を宿した乙女にございます。」


 そう言うと、男は卓の上に載っていた銀製の箱をうやうやしく開け、中から黄色い液体の入った小瓶を取り出す。

 それから、男は液体を白いハンケチに垂らし、それで千景の鼻と口を覆った。


「さあ、大きく息を吸って――畏れることはない。

 これは君を心地よくしてくれる薬だ。吸えば、どんな痛みも苦しみも、甘美な夢へと変わる。」


 耳もとで囁かれた声は、絹のように柔らかかった。


――そんな薬、絶対まともなヤツじゃない!


 本能が警鐘を鳴らす。

 肺が焼ける。息がもたない。


 千景はしばらく吸うまいと必死にこらえたが、男は辛抱強く待った。

 やがて息が続かなくなり、思わず薬香を吸い込んでしまう。


 一度吸ってしまうと、不思議と抵抗が利かず、彼の言葉に導かれるまま、胸の奥深くまで吸い込んでいった。

 甘い香りが肺の奥を満たすと、頭の中で何かが弾ける。

 光が波のように揺れ、部屋の輪郭が遠のいていく。

 まるで夢の底に沈むように、千景の意識はゆっくりと溶けていった。


「この乙女の出自は? 卑しい者の血を取り込むのは、抵抗があるのですけれど」


 一人の淑女が手を上げる。

 千景の口をハンケチで覆ったまま、男が答えた。


「ご安心ください。こちらの令嬢は、つい先般まで女学校に通っておりました。

 諸般の事情で女中に身を落としましたが、血筋は確かにございます。」


 ――いつの間に、私の出自など握られたのだろう……


 意識はもう、たゆたうようにおぼろげなのに、男の声や女たちの声だけは、容赦なく鼓膜に突き刺さった。


 ぐったりと千景が弛緩したのを確かめると、男はハンケチを卓上の皿に置き、

 再び銀の箱の中から、今度は装飾の施されたガラス瓶を取り出した。

 その中には淡い桃色の液体が入っており、男が瓶を軽く揺らすたびに、キラキラと光る粒子がゆらめく。


「こちらの薬が――我らが黒曜会の誇る、舶来の魔法薬“アストラル”です。

 この薬で乙女の生命力のすべてを活性化させ、その血液を霊薬へと変化させます。」

 ポンと小気味よい音を立てて栓が抜かれ、その口が千景の唇に押し当てられた。


「――さあ、飲むのだ。」


 千景は男の命令に逆らえず、こくりと喉を鳴らし、怪しい液体を飲み干してしまう。


 変化は、すぐに訪れた。


 ――あぁ……ああ……。


 押さえきれない衝動に、叫び声を上げたくて、天井を仰ぎ口を開く。

 だが、喉からは何の音も漏れなかった。


「あら、この子は静かなのね?」


 淑女の一人が、ひそやかに笑いを含ませてつぶやく。


「ええ。薬と魔法で、声帯を封じております。

 淑女の皆様に聞き苦しい声をお聞かせするのも無粋かと――本日より、このように試みてみました。」


「あら残念。乙女のあられもない嬌声も、若さの秘訣でございますのに」


 べつの淑女が、ねっとりとした声で言った。

 くすくすという笑いが、部屋を満たしていく。


 しかしもう、そんな声は千景の耳には届いていなかった。

 身体の奥底から込み上げるような熱い奔流に、縛られた身体をくねらせる。

 血管の中、骨の芯を駆け巡る熱。


――熱い、苦しい、抑えきれない、何かが……あふれる……


 声にならない叫びを上げつづけ、見開いた目から涙がこぼれた。


 やがて魔力が彼女の身体から、目に見えるほどに溢れ出す。

 その色は深い紫。稲妻のように全身を走り抜けていく。


「おや? これはこれは――もしや惜しいことをしたやもしれませんね。

 まさか異能をお持ちとは……」


 ガタガタと椅子を揺らし、痙攣する千景を見下ろして男が言った。


「とは申しますが、淑女の皆様の期待を裏切るわけにも参りません――残念ですが、予定どおり参りましょう」


 男は千景の肌がすっかり桃色に染まっているのを確かめると、銀の箱から短剣を取り出し、すらりと抜き放つ。

 刃は鋭く研ぎ澄まされ、暗い室内で冷たく煌めいた。


 千景はもはや無抵抗で喉を晒し、その瞳孔は開き切って虚空を見ていた。


「さあ皆様、杯のご用意はよろしいですか。

 私がこの喉を断ちましたら、速やかに生き血を授かってください。もたもたしていると、最後の方は間に合わなくなりますよ」


 いよいよ刃が、千景の細い首へと迫る――


 その時だった。



「おまえたちっ、そこを動くな!」


 轟音と共に扉が壁ごと吹き飛び、陸軍の軍服に身を包んだ一人の将校が、軍刀を振りかざして室内へと踊り込んだ。


「っ、嗅ぎつけられたかっ」


 短剣を握っていた男は舌打ちをし、刃を床へと投げ捨て逃亡を図る。

 淑女たちは一斉に悲鳴を上げ、仮面が床に散り、ハイヒールの音が乱れ飛んだ。


 指揮官らしき若い将校は軍刀を振りかざし、逃げ遅れた淑女の一人に切っ先を突きつけた。


 やがて本隊も追いつき、兵士たちが現場を押さえようとなだれ込む。


 兵士たちは迅速に淑女たちを制止し、仮面を剥ぎ取って手錠をかける者、祭具を押収する者に分かれて動く。

 指揮官は短く報告を受けながらも、千景の方へと足を向けた。


「……おい、大丈夫か?」


 千景は椅子に縛られたまま、恍惚とした表情で天を仰いでいる。

 将校がその肩に手を掛けると、彼女の身体がびくりと揺れた。


「……かわいそうに。薬がすっかり回っているな……」


 彼はそう言いながら、軍刀の刃先で器用に彼女の縄を切った。

 ぐらりと身体が傾き、床へと倒れ込みそうになったのを、慌てて抱きとめる。


斎部(いんべ)中尉、首謀者の今泉はこっちで確保したよ。そっちも上々?」


 扉の方から、女の声が響いた。


「八代中尉、こちらも制圧完了。被害者を一名確保した」


 千景を抱きとめていた将校――斎部清晴(きよはる)が返事をした。

 部屋に入ってきたのは、若い女の将校――八代静香だった。

 女にしては上背があり、男の将校と変わらぬ軍服を着ている。


「その子?……助かった、みたいね?」


「ああ。踏み込んだ時点で、すでに儀式は最終行程だったらしい。

 おかげで、薬が完全に回っている……」


「……まあ、一般人でしょうから、“アストラル”を使われたところで依存に陥る――なんてことはないと思うけど……。

 とりあえず、異能特務局の救護班に回すわよ?」


 静香は心配そうに、清晴の肩越しに覗きながら言った。


「あ゛……あ゛あ゛……」


 急に千景が発作的に身体をのけぞらせ、もがき始める。

 かすかに、失われていた声が戻りつつあった。


 彼女の全身から、先ほどのように魔力が噴き出し、紫の光がほとばしる。


「えっ……ええっ、その子本当に一般人なの?!

 どう見ても異能が暴走しているようにしか――」


 彼女を必死に押さえる清晴に、静香も顔色を変えて手を伸ばした。


「ダメだ、触るな、静香っ! これは――“陰の気”だ!

 お前が触れたら、陰陽の均衡が乱れるぞ!」


 清晴は瞬時に判断し、手袋を脱ぎ捨てると、直接千景の頬に触れた。


「くっ……!」


 肌が触れ合った瞬間、清晴の体内から気が引きずり出され、彼女へと吸い取られていくのを感じた。


「ちょっと、清晴! あなた、大丈夫!?」


「ああ……俺は斎部の男だ。陽の気は――有り余ってる。

 ……が、これでは埒が明かないな」


 清晴は忌々しげに吐き出すと、やがて何かを決意したように静香に向かって宣言する。


「陰陽の気の調整は、粘膜や経口の直接接触が最も効果的だ。

 よって、これから行うことは――医療行為である」


 それから、ひとつ深呼吸をして、清晴はそっと千景の顎を支え、その唇に口づけた。

 触れた瞬間、熱が奔流となって流れ込む。


 やがて、紫の光は次第に淡くなり、彼女の呼吸が静かに整っていった。


「安定した……ひと安心だ」


 呼吸を確かめて、ほっと息をついたところで、背後に静香が立っていることを思い出す。


「……医療行為、だ。他意はない」


「――はいはい、わかってますよ。

 報告書には“蘇生処置”とでも書いとけばいいかしら?

 で、その子、どうするの? 私が連れて行ってもいいけど――」


「いや、俺が連れて行く。

 まだ陽の気が必要やもしれんからな」


 清晴は伸ばされかけた静香の手を避け、千景を抱いたまま立ち上がる。

 静香は一瞬顔を曇らせたが、感情を押さえて目を伏せる。


「……了解」


「……また、こんな儀式で命を落とすところだったか。」


 つぶやいてから彼女を抱いて去ってゆく清晴の背を、静香は意味深な表情で見送ったのだった。

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