人間交差点
1995年からずっと花をたむけられていた交差点がありました。
わたしが気づいたのが1995年というだけ、そのはじまりが正確にいつだったのかは、今となってはわかりません。
小さな交差点。ガードレールのわき。
ただし手前の信号と連動していて、車ではただ通りすぎることの方が多い交差点。
境界杭、というのだそうですね。私有地と道路などの土地の境界を示す杭。そこにあふれんばかりに置かれていた、花束を見つけたのが最初。
過去にそこで何かがあったのでしょう。たぶん交通事故。お年よりなのか、小学生なのか、車同士なのか、単独か。
花はこぢんまりとしたときもあれば、咲きみだれるようなときもあり。後者のさいは、月命日なのかな、などと想像をして。
認めてから以降だけを数えてもわたしは6度も引っ越しをしており、たまさか同じ町に戻ってきたらまだ、そこには花束がそなえられてた。およそ30年近く、あるいはそれ以上ものあいだ連綿と続けられてきた行為。
それがどうも、終わりをつげたようなのです。サッと通りすぎるときに、あるはずのものがみつけられない。
夏から以降は一度も。
ずっと気にかけていたのではないのでいつからかはわからないけれど、今日もきのうも、たぶん明日もあさってもない。
たむけていた方の身に、なにかが起こったのでしょう。だからある日突然やんだ。
おそらくは、かつてあそこで命が絶たれ、それを悼ましいと最も感じていた方も去った。
たったふたつの生命がなくなった。ただそれだけのことがどうして、こんなにもわたしを震わせるのでしょう。赤の他人の、名前もしらない。
不謹慎にもふと覚えてしまったのは、『物語が始まったのかも』、ということ。物語の冒頭に、あるいは結末に使えるのではと。
このわたしの本性、もの書きの性は破廉恥だ、いや、そう感じるのは潔癖がすぎるのではないか。
いいえ、そもそも。
植物をはじめとして、魚類や他の哺乳類の命をいただいて生活している身としては、目の前の命だけに目をむけるのがはなはだ滑稽。たむけられた花束は、茎の途中で無惨にも折られている。
なぜこんなにもわたしたちは矛盾しているのか。
近ければ、なのでしょうね。種類が、距離がより近ければ、気にする。気になる。
なぜ他国での争いには目をそむけ、絵空事に涙するのか。ここに通ずるものかもしれません。ここにもやはり距離が存在します。距離は遠い世界のことであると錯覚させがち。
いつもいつでも気にかけたい。道ばたの花束に。花そのものにも。
事柄に詳しくなくてもいい、ただ身を案じていたい。
たかが絵空事だってめちゃくちゃ大切。
絵空事に涙を流せなくなってしまったとき、人は心をなくす気がするんです。学校や会社を往復するだけ、家の中でぐるぐる家事をするだけの日常だからこそ、絵空事で涙できる練習を積んでおく。
人がいつまでも人であるために。音楽もそう、ペットとたわむれることもそう。文化的であり続けること。
トロッコ問題なんかくそくらえ、答えなんか出せっこない。
大局を見据えた取捨選択など一生できなくっていい。愚かなままでいたい。いつまでも小さな命に、一喜一憂していたい。