黒衣の男
自宅の隣に住む聾唖の高齢男性が、両方が補聴器になったのを見た私。
嫌な予感は的中してしまう、そう、テレビの音声が恐ろしいほど大きくて、
早朝5時から壁が離れているにも関わらず、ドコドコ、どんどんとものすごく
気持ち悪い低周波というのだろうか、私の耳に、脳に、頭に響く感じの悪い
音が三ヶ月ほど続き、我慢ができなくなり、マンスリーマンションを契約して
逃げ出した。
私は離婚して一人娘と住んでいるが、娘が就職して東京へ赴任すると
実質は私は一人暮らしなのである。離婚したときに結構な金額をもぎ取り、
同時期に母が亡くなり、遺産も入ったこともあり、この家はもう捨てようと
思っていた。
しかし、今までなんともなかったはずなのに
なぜ急にテレビの音をこんなにも大きくかける必要があるのだろう。
聾唖の上に高齢で耳が聞こえないのならば、字幕を使うとか、高性能の
イヤホンやヘッドホンがあるのに。
息子が確か、二人いたと思うが、この隣人は変わり者なのだろうか、
盆や正月にも息子の姿など見たこともない。
村野という老人は隣に引っ越してきたときに、妻が病死していた。
それから27年が経過してしまって心が壊れてしまったのだろうか。
あるとき、黒衣の若い男性が、隣を訪問するのを、たまたま自宅に帰った私は
見てしまった。抜けるように色が白く、細身の男性は村野の息子ではない。
次男は長男よりも先に家を出て行ったし、長男は結婚が遅くて、頭が薄かったので
どんな顔だったのかは良く覚えているし、年齢が合わない。
少し薄気味悪いので、私はそそくさと自宅に入って用事を済ませると、また
マンションへと帰った。
「だれなんだろう」
マンションで一人、味気ない食事をする間にずっと考えていた。
もつれる思考がどんどん黒い渦になっていく……。
数日後に宅配便が届くメールがあり、自宅に赴いた私の目の前には
まるでテレビで見たような光景が広がっていた。隣家の周りに止まりきれないほどの
パトカーが止まっていて、テレビの中継車や、近所の人でごったがえしている。
制服の警察官に隣のものですと言い出せずに私はその場を立ち去ろうとしたときに、
お向かいの糸川さんの奥さんに腕を掴まれて喧噪の中から、少し離れたところへ、連れ出された。
「奥さん、まずいわ。今は家に近寄らない方がいい」
「何がありました?」
「私は隣のじいさんが耳悪いし、テレビの音がうるさいから、頭がおかしくなりそうで
マンションに行くって聞いていたから、それとなく見てたわけよ」
「はい、なんか、ありました?」
「耳が悪いのは、間違いないんだけど、例の彼女。ばあさんいたでしょ?」
「はあ、数年前に同じ時間に二人で並んで歩いていた眼鏡の」
「どうやら、その人、旦那がいた見たいでさ」
「え? 旦那がいるのに、このじじいと?」
「そうよ、それで、じじい同士のバトルになって」
「え?」
「やっちゃった、みたい」
私は鳥肌が出た腕を糸川さんに見せた。
糸川さんは、ちらっと見て両手を組んだ。
「なんかね、大きな音はカモフラージュで、ばあさんと一緒になって、床下に
隠していたらしいのよ」
「きゃー、やめてください。その先は、聴きたくない」
「ごめん、ごめん。でも、ほんとだから。事故物件になってしまったね」
「まさか、バラバラ?」
「うん、少しバラしたらしいわ」
では、あの黒衣の男は?
私が見た黒衣の男は遺体の損壊を手伝いに来ていたということか。
テレビの音を大きく出していたのは、何かしていても私にそれを
気がつかれることを妨げるために。吐き気がこみ上げるがなんとか我慢する。
この恐ろしい地獄のような自宅を売却することは諦めて、他に
なにか、活用できるようになるまでは、マンスリーマンションから分譲マンションに
先に引っ越しして、そのあとのことはそのとき考えようと思った。
実際、老人の一人暮らしほど怖いことはない。
しかし、私も娘が東京で結婚したら、同じことになる。
でも、こんな血なまぐさいことにはならないと誰が保証できるだろうか。
隣人は選べないが、老婆心ながらなんてもう言えない。
老人が老人でなくなり、暴走し始めた。
了