雨やどり(短編 27)
今日は夏祭り。
お母さんがユカタを着つけてくれた。赤い鼻緒のゲタも出してくれた。
「先に行っとくからね」
奈津美は待ち切れずに、家族のみんなよりひと足先に家を出た。お母さんは、お父さんが仕事から帰ったら、いっしょに来ることになっている。
六時前だというのに、低くたれこめた黒い雲のせいで、空はすでにうっすら暗かった。
カラカラとゲタを鳴らしながら、奈津美はお寺へと続く通りの入り口までやってきた。
昔のままの家並みを残した通りに入ると、そこから急に明るくなった。明かりの灯ったいくつものちょうちんが、道の両側に一定の間隔をおいて吊り下げられているのだ。
夏祭りの間。
この通りにはいくつもの露店が並び、それらは奥にあるお寺まで続く。それら露店のひとつひとつを、奈津美はゆっくりと見物しながら歩き進んだ。
もうすぐお寺というときだった。
雷が鳴り始めるやいなや、同時にどしゃぶりの雨が降り始めた。
奈津美はあわてて、近くの屋根瓦のついた土塀のもとへとかけこんだ。
雨はバチバチとアスファルトの道路に白いしぶきを上げ、集まった雨水が路上を流れ始めた。
雨だけならがまんできる。けれど光ったとたん、ゴロゴロと鳴る雷には身のちぢむ思いがする。
奈津美は両手で耳をふさぎ、雷から身を隠すように土塀にくっついていた。
雨と雷はいっこうにやみそうにない。
むしろはげしくなっていく。
そのうち地響きするほどの大きな音がして、あたりが一瞬にして真っ暗になった。近くの電信柱に雷が落ち、どうやら停電したようだ。
すべての灯りが消え、通りは暗闇の世界へと変わっていた。
聞こえるのは雨の音だけ。
通り全体が深い海の底に沈んだようだった。
十分ほどたって、それまでの激しい雨が小降りになってきた。
路上を流れていた雨水も少しずつ減り始めた。
夕立が通り過ぎた。
通りに明かりが灯ると、雨やどりをしていた人たちが空を見上げながら軒下から出てくる。
商店は取りこんでいた商品を店先に並べ直した。
露店を出していた者たちは、またもとの簡易な売り場を作りあげた。
人々は右に左に曲がり、寺に行く、家に帰る、はたまた露店に並ぶ。それぞれが気のおもむくままに移動を始めた。
そんななか、ただ一人。
奈津美だけは茫然と立ちつくしていた。
土塀に寄りかかるようにして、目の前に広がる奇妙な光景を見ていた。
――こんなことって?。
同じ言葉が繰り返し漏れた。
目の前の道路がいつしか土の道に変わっている。明かりに浮きあがる人々の姿は、まるでテレビの時代劇を見ているようである。
その奇妙な光景は、それからも奈津美の目の前で繰り広げられた。
足は根がはえたように少しも動かない。
そして幾度となく気が遠くなりそうになる。
「ワラジだよ!」
威勢のいい呼び声で、そのたびに奈津美はハッと我に返るのだった。
「ワラジだよ! じょうぶなワラジだよ」
声の主は露店のおじさんで、店にはワラジとミノカサが山のように積み上げられている。
――いつのまに?
夕立の前、こんな露店は見なかった。
――あの雷だわ。だって、あれからだもの。
今いる場所は夕立の前と同じ場所。けれど、同じ場所であって同じ場所でない。
時空を飛び越えて、ここは遠い過去の同じ場所らしいのだ。
ワラジ売りの露店の前を、色とりどりのユカタ姿の女の子たちが通り過ぎていく。
――なんで?
だれもが目もくれない。そこに奈津美がいることさえ気づかないように。
――そうか、わたしもユカタを着てたっけ。それでなんだわ。
奈津美はユカタ姿であることに気がついた。
ところがそのとき。
またしても思いもよらぬことが起きた。なんと女の子のうちの一人が引き返してきて、なれなれしく奈津美に声をかけてきたのだ。
「なっちゃん、さっきお母さんが探してたよ」
その女の子は、まるで奈津美のことを知ってるかのようにしゃべった。
「……」
奈津美がとまどっていると、
「またね」
女の子はくるりと背を向け、仲間のあとを追って走り去っていった。
女の子は「なっちゃん」と呼んだ。
それは自分そっくりの者が、それもなっちゃんという女の子がほかにいるということなのだ。
――その子に会えばわかるかも?
通りの先に大きなお寺がある。
奈津美はそのお寺に向かって、自分に似ている女の子を探しながら歩いた。
ゲタをはいているうえ泥道なので、ひどく歩きにくかった。そのうえ多くの人で混み合っていて、何度も見物客や店先にぶつかりそうになる。
お寺に着いた。
女の子は見つけられなかった。
奈津美は境内に入り、なっちゃんという自分に似た女の子を探し続けた。しかしいくら探しても、それらしき女の子は見つからなった。
――そんな子、はじめからいないのかも。
そんな思いがしてきて、ついに奈津美は探すことをあきらめたのだった。
奈津美は通りを引き返していた。
足どりはフラフラとおぼつかなく、視線は宙をさまいうつろになっていた。ときおり行きかう人とぶつかるが、それにもまったく気づかない。
「あっ!」
奈津美はしりもちをつき、このときになってやっと我に返った。
「おい、だいじょうぶか?」
助け起こしてくれたのは先ほどのワラジ売りのおじさんで、奈津美はいつのまにか雨やどりをしていた場所までもどっていた。
「鼻緒が切れちまってるじゃないか。それでは歩けんだろ。ワシがなおしてやろう」
おじさんは奈津美のゲタを手に取った。
さっそくゲタの修理を始める。
白い手ぬぐいを裂き、クルクルとよってヒモを作ると、切れた鼻緒とゲタを器用に結びつけた。
「ほら、できたぞ」
おじさんはほほえんでから、修理したゲタを奈津美の足にはかせてくれた。
「ひとりで来たんか?」
「うん」
奈津美はこくりとうなずいた。
「じゃあ、もうそろそろ帰らんとなあ。家のもんが心配してるやろう」
「うん」
うん、としか返事ができない。
帰りたくても、奈津美には帰る場所がない。帰る場所は、今いる世界には存在しないのだ。
「そういえば夕立のときも、おじょうちゃんは一人でいたよのう。あんとき、あそこにいただろう」
おじさんが土塀を指さす。
夕立の前。
奈津美はこのおじさんのことは知らなかった。かたやおじさんはここで自分を見ている。
――そうだとしたら……。
おじさんが見たのは、なっちゃんという女の子ということになる。
奈津美は思いきってたずねてみた。
「それって、ほんとにわたしだった?」
「向かいの軒下から見えていたからのう。でっかい雷のあと、こっちを向いて立ってただろ」
おじさんの話を聞いて……。
ふと、奈津美はおかしなことに気がついた。
あの夕立のとき、雷がこわくて土塀に向かって立っていた。それが落雷のあと、いつかしら通りの方を向いて立っていたのだ。
それはまるで、両面鏡の表から入って反対側の表に出たように……。
――そうだわ!
奈津美は土塀にかけ寄り、雨やどりをしていた場所の前に立った。
あのときの雷のせいで時空にひずみができ、そのひずみを通り抜けてしまったにちがいない。
奈津美は取りすがるように何度も土塀をなでたり押したりを繰り返した。
それは……。
それはいきなりで、しかも一瞬のことだった。
手から腕、続いて胸と、奈津美は土塀に吸いこまれるようにして消えた。
雨のやんだ暗い夜空を、奈津美はぼんやり見上げていた。
「奈津美、そんな所にいたのか」
お父さんがかけ寄ってくる。
「ずいぶん探したのよ」
お母さんもいっしょだ。
「ここで雨やどりしてたの」
奈津美はなにも覚えていなかった。
記憶を土塀の向こうに、すっかり置き忘れてきたかのように……。
「あら、だれがなおしてくれたの?」
お母さんが奈津美の足もとを指さした。
そこには赤い鼻緒のゲタがあった。
白いひもで修理されたゲタがあった。