ギムレットは鍼の味
ジメジメとした生ぬるい風が通りを流れる6月の頃。
今日もフォギーのポーチライトが灯された。
開店して間も無く扉がギィーっと音を鳴らし、1人の初老の男が来店した。
オーダーメイドであろう紺色のスーツをビシッと着こなし、立派な顎髭をたくわえ、赤いチェックのハットを被ったこの男には紳士という言葉がピッタリであろう。
「やぁマスター。」
「矢吹さん、こんばんは。」
及川と軽い挨拶を交わすと矢吹はスタスタとカウンターの一番奥に座った。
「マスター、いつものちょうだい。」
「かしこまりました。」
二人の間柄では、注文などこれで十分だった。
及川はシェイカーの中に着々と材料を入れていく。冷凍庫でキリッと冷えたタンカレー。緑色をしたボトルが印象的なジンだ。
そこに、搾りたてのライムジュースを少量。最後に粉砂糖を少々。
材料を入れ終えたら、シェイカーに氷を入れてシェイクをする。
シャカシャカと小気味のいい音が店内に響き、間も無くして霜のついたシェイカーの中でキンキンに冷えたであろうカクテルがグラスに注がれるのを待っていた。
予め冷凍庫の中で冷やしておいたカクテルグラスにゆっくりと注ぐ。ゴポゴポと液体の中で小さな気泡が弾ける様な音をさせながら、シェイカーの中のカクテルをグラスに注ぎ切る。
「お待たせしました。ギムレットです。」
Fogy's recipe
ギムレット
タンカレー 50ml
フレッシュライムジュース 10ml
てんさい糖 1tsp
「ありがとう、マスター。僕の一杯目はやっぱりギムレットなんだ。」矢吹が嬉しそうにグラスに口を付ける。
ジンのキリッと鋭い味わいの中にライムの酸味が立ち、ほのかに甘みも感じる。お酒、酸味、甘味。シンプルな3つの構成要素が全て絶妙なバランスでお互いを高め合っている。そんなギムレットである。
「マスターにとってギムレットってどんなカクテルなの?」
矢吹が尋ねた。
「うーん、そうだなぁ。僕にとってギムレットは『鍼』なんです。」
及川が答える。
「はり?」
「そうです。はりって言っても鍼灸師さんが使う鍼。見た目は尖っていて鋭い。だけど、それを飲むことで心の凝りを和らげてくれるような、シャープさの中にほのかな甘さを感じれる。そんなギムレットでありたいとずっと思っています。」
そう言って及川は微笑んだ。
「そうか、鍼か。確かにこのギムレットは最初は凄くドライで爽やかなんだけど、舌先を超えて舌全体で味わった時に何とも言えない優しい甘さを感じるだよね。何か使ってる砂糖も秘密があるのかい?」
「うちでは『てんさい糖』を使ってるんですよ。」
「てんさい糖?」
「はい。てんさい糖は主に北海道で作られてる砂糖で優しい甘さが特徴なんです。ショートカクテルの甘さの表現は人それぞれですけど、やっぱり私のギムレットにはてんさい糖の優しい甘さがよく合うんです。」
「なるほどね。一口にギムレットって言っても色々考えてるんだなぁ。バーテンダーによっても全然味わいとかも変わってくるよね。でもやっぱり僕には、フォギーのギムレットが1番だ。これを飲むと、あぁ今日も1日が終わったんだって思える。今日1日の疲れた凝りをほぐしてくれる本当に鍼みたいなカクテルだね。」
矢吹がニコッと微笑んだ。
「喜んでもらえて何よりです。そういえば矢吹さんはギムレットの歴史はご存じですか?」
「ギムレットの歴史?そういえば考えたことはなかったな。そもそもなんでギムレットっていう名前なんだろう。」
「カクテルの名前の由来には諸説あるんですが、ギムレットというカクテルの名前の由来とされる説は主に2つあります。1つはギムレットが『錐』という意味で、そこから錐の様に鋭く尖った味わいを比喩してギムレットになったという説。」
「あぁ、なるほどね。確かにこの鋭くドライな味わいは錐と表現するのも分からなくないね。どこかさっきの鍼の話とも似ているね。それで、もう一つの説というのは?」矢吹がグラスを傾けながら尋ねた。
「はい。もう一つの説は人の名前だという説です。これは、19世紀終盤にイギリス海軍の軍医だったギムレット卿という人物に由来します。当時のイギリス海軍ではジンが兵士達に支給されていて、そのジンを飲み過ぎるのを防ぐためにライムジュースを混ぜて度数を下げていたと言われています。」
「なんとなく想像出来るね。今のように何でもある時代じゃないからこそ、軍の中での楽しみ特に船の上の楽しみといったら酒だったのかな。だとすれば、飲みすぎてしまう気持ちも分からなくはないね。」
矢吹がクスクスと笑う。
「そうですね。長い航海で不足するビタミンCを補給するのにライムが非常に役立ったそうです。」
「そういう側面もあったのか。でも生の果実なんて船に載せてたらそれこそ長い航海では傷んでしまうんじゃないのかい。」
「矢吹さん鋭いですね。そうなんです。当時の保存技術では長い航海でライムを腐らせずに保存することは出来ませんでした。故に加糖したり、アルコールを添加してみたりと保存性を高める工夫を色々としていました。そんな折に、ラフリン・ローズという人物がそれに目をつけてコーディアルライムジュースを作ったんです。」
「コーディアル?」
「コーディアルというのは、元々はハーブ類を酒に漬け込んだ物を指していたそうなんですが、現在では人工的に甘さをつけたノンアルコール飲料を指す言葉に変化していったそうです。コンクなんて呼ぶ人もいるみたいですね。」
「確かに生のライムよりジュースで加糖する分、保存が効くようになったんだね。」
「元々オーソドックスなギムレットはプリマスというジンとローズ社のコーディアルライムのみで作られるカクテルでした。現在は、どこでもライムが買える時代になりましたから、フレッシュを使うレシピが主流ですね。」
「昔のギムレットは甘口だったのか。時代の流れと共に求められる味も変わっていったということなのかな。」矢吹はもう半分程になったギムレットを見ながらポツリと呟く。
「そうですね。今のギムレットは全体的にドライ指向です。でも一定数、昔の味わいを求めてる方もいるのでほら。」
そういうと及川は冷蔵庫の扉を開きボトルを2つ取り出した。
「こちらがプリマスジン。そして、こっちがローズ社のコーディアルライムです。」
「ちゃんと用意しているんだね。ビックリしたよ。じゃあ2杯目は是非昔のギムレットを頂こう。」
「かしこまりました。」
再び及川がシェイカーを振る。優しく、柔らかく。今の時代では甘すぎると思えるくらいのギムレット。優しく手首を使ってシェイクする事で、くどい甘さを和らげ柔和な甘さを併せ持つギムレットに変化していく。
昔と今。時代は移り変わる。昔の味は、現代からしたら子供っぽく感じるかもしれない。しかし、人生を歩き続けていたら誰しも昔を思い出して懐かしくなる瞬間が来るだろう。
そんな時は、昔ながらのクラシックレシピを頼んでみるのも一興である。
バーカウンターにカクテルが置かれる。
矢吹は一口飲むとポツリと
「このグラスの中には想い出と歴史が詰まってる。たまには昔に戻ってみるのも悪くはないね。つまり、こっちのギムレットは灸だよ。心がジンワリ温かくなるんだ。」
そう言ってニコリと笑った。
「喜んでもらえて何よりです。」
及川もニコリと笑う。
ギムレット。現代と過去。モダンとクラシック。
飲みたい時代を味わえば今宵も素敵な時間が訪れる。
Fogy's recipe
クラシックギムレット
プリマスジン 45ml
ローズ社コーディアルライム 15ml