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銃殺夢

作者: 瀬田 桂



 世界はきっと存在しない。





 蝶が、飛んでいる。


 限りなく濃い暗闇に蝶が一匹。ひらひら、ひらひらと戸惑うようにどこへともなく羽ばたいていた。

 僕はまるで引き寄せられるようにその姿を目で追っていた。周りは光に乏しいというのに、なぜか蝶だけはいやにくっきりと視界に映った。

 やがて蝶は細長い棒の先に止まる。棒は黒光りしていて、先端は真っ直ぐ僕の方を向いていた。

 真ん中に丸く穴が開いている。それを見て、僕にはすぐにその正体が知れた。

 銃。指先一つで十全な人間の命を貫く殺害道具。

 本来ならば本能的に忌避すべき存在である銃を愛する者は多い。時にはその形状を、時にはその金属独特の感触を、時には個々のそれが有する歴史を。

褒め称える名目はいくらでもあるだろう。

 でも、僕は思う。

 銃はどこまでいっても道具だ。そして道具が放つ魅力というものは、結局のところその役割に収束するのではないか。

 言い換えれば、銃は《殺す道具》であるからこそ、形容しがたい魅力を湛えるのではないか。その危険な、現実離れした、味気ないほど実用的な、《殺す道具》だからこそ愛されるのではないか。

 そして、それは今まさに僕の眉間を撃ち抜かんとしている。

 引き金は誰が握っているのか。手だけが銃と一体化したかのように存在し、当然それから伸びているはずの腕、そして肩から首、顔の方は定かではなかった。男か女なのかさえ判らない。

 不意。銃に力がこもったような気配。穴の奥の深淵が急激に深まっていく。

 僕はこの銃に、この手に、撃ち殺されるのだろうか。

 嫌だった。訳が分からない。世界の訳が分からないまま、ただ何も出来ずに死んでいくのは嫌だった。

 汗がしたたり落ちる。その時はじめて、僕は自分の身体を意識した。生きている、定かでない世界だけれど、僕はまだ生きているんだ!

 そんな漲る生気を無視するように、銃から発される殺気はどんどんと濃さを増してゆく。逃げられない。僕はこのまま……。


 その時だった。


 蝶が、羽ばたいた。

 拡散する殺気。萎えたように銃は頭を下げた。

 助かったのだろうか? 僕はまだ、この世界で生きていて良いのだろうか?

 いや、違う。自分が生きることなんて、誰かに許しを乞うて得なければならない権利などではない。

 僕が生きる、僕が生き続ける!

 そう決めていれば、僕はきっとまだこの世界に存在し続けられるのだ!


 銃はまだ、僕の目の前に在り続けていた。





 昔、こんな夢を見た。


 放課後。僕は何でもない一日の大半を終え、ある種の脱力感を覚えながら家への帰路に就こうとしていた。

 無心のまま下駄箱を開けて学校指定の白くて味気ないシューズを取り出すと、その中に小さく折り畳まれた紙片が入っていた。

 これは、いわゆる恋文というやつではないか!?

 急ぎもたつきながら紙を開くが、そこに書いてある文字を一目見てテンションが正常に戻った。

 綺麗だが、まるで一画一画を定規で引いたかのようなカクカクと直線的な文字。


『大事な話がある。すぐ屋上に来て欲しい。

         まだ観測されていない私より』


 その文字の持ち主は、僕の片想いの相手だった。


 屋上は夕焼け色に染まっていた。

 遠くに響くカラスの鳴き声がいやに虚しく聞こえる。

『彼女』はどうやって上ったのか、高さ五メートルはあるだろう給水タンクの上に足をぶらつかせて座っていた。


「私、考えてるんだ」


 彼女は何の前置きもなしにそう言った。まるで独り言のように、どこか遠くの空を向きながら。艶のある長髪に所々隠されたその瞳は、なぜか潤んでいるように見えた。


「何をだい」

「この世界はすべて私達が見ている夢なんじゃないかって」


 僕は呆れたように首を振った。彼女はこのような、空想を現実的な仮定として思索するのを趣味としていた。趣味は自由だが、何故だか僕はいつもそれに付き合わされている。


「唐突だね」

「そうかな」


 彼女は給水タンクから飛び降りた。足踏みもなく綺麗な着地だった。

 そして間髪入れず再び口を開く。


「量子論って知ってる」

「唐突だね」

「そうでもないよ」


 なぜか今度はそう言い切って、ふらふらと定まらぬ身体を赴くままに動かしやがて木の葉が地面に定着するように、屋上の淵でぴたりと止まった。


「量子というのは、この世界での最小単位。つまり、あらゆる物がそれで出来ている。にも関わらず、それそのものは波でもあり粒でもあるという不安定な形態を持っている。しかもその形は観測されなければ確定されないというおかしな性質も備えているんだ。こんな信頼できない物質が、私達の生きている世界を形作っているっておかしいと思わない」

「おかしい……とすれば、どうなるんだ?」

「こんな世界はすべて嘘っぱちってことだよ。幻であり、虚構であり、ドラマであり……それらをすべて内包した概念――そう、夢なんだよ」


 荒唐無稽だ。まったくもって理解できない、突拍子がなさすぎる発言。質が悪いのは、結論として導かれた『この世界はすべて夢』という主張を僕が否定できないということだ。

 どう答えるべきか迷っていると、彼女はくるりと振り返って僕と向かい合わせになった。

 見つめ合う。端正な顔立ちに燦然と輝く二つの瞳がまともに僕の心を射る。

 思わず照れてしまった。


「な、なんだよ」


 彼女はさっきまでの口調をガラリと変えて、意を決したように強く言葉を吐き出した。


「この世界の外に出るんだ。夢なんかじゃなく本物、リアルな世界をこの目で見てみたいんだ。そうしないと、本当に生きているなんて言えないだろう」


 戸惑う僕。それを意に介さず彼女は続けた。


「『題名のない物語』を私たちは読まされているにすぎないんだ。誰かによって書かれた、意味の無い感情を引き起こすだけのつまらない物語さ」

「読まされてるって……矛盾してないか? さっき君は、『この世界は夢にすぎない』って言っただろう。誰かに夢を見させられるなんていうのか?」

「しかたないさ。それが真実なのだから」


 そして彼女は制服のポケットに手を突っ込んだ。

 取り出したのは拳銃だった。躊躇わずに撃鉄を起こし、僕に向けて差し出す素振りを見せた。


「……これは?」

「弾は二つ入ってる。君ならば、この意味が解るだろう?」


 為す術もなく銃を彼女の手から受け取った。ほのかに硝煙の匂いを嗅いだ気がした。

 彼女はもう何も言わなかった。ふたたび身体を翻して、はるかなる中空に身を晒す。

 殺せというのか。『外の世界』とやらへと行くために、僕にその手を汚せというのだ。

 さらに弾丸は二発。彼女の言うとおり、僕にはその意味が痛いほど解った。


 これは彼女なりの告白なのだ。


 僕は銃を見つめる。彼女がどうやってこれを手に入れたのか、そんなことは想像すらできない。けれど、ここが夢だというならあり得るのだろう。むしろこの事実をもって、彼女は世界が夢であるのを証明したのか?

 だとすれば僕も……。

 彼女の元に歩を進める。強い風を感じた。吹き飛ばされそうになり、足を懸命に踏ん張り彼女の背中を目指す。決して銃を取り落とさないように。

 屋上の淵から彼女と一緒に下界を眺める。何もない運動場が見える。当然人影一つ存在しない。

 銃口を彼女の後頭部にくっつける。彼女は小さく息を漏らした。

 僕はトリガーに指を掛けた。

 じわじわと力を少しずつ込めていく。

 どこだ、どこまで行けば彼女は――。

 手に汗を感じる。震えに気づく。

 彼女を殺すことに恐れている自分を見出す。

 そして自分を殺すことに恐れている自分も。

 彼女の横顔を見る。

 微笑み。虚空を見つめて。


「ダメだ!」


 僕は叫んでいた。無我夢中で銃口を彼女から逸らし、自分のこめかみに向ける。


 引き金。


 カチッという乾いた音。弾は飛び出さず僕もそのままだった。

 不発……?

 世界は静まりかえっていた。僕の荒い息だけが二人の間の背景音となっていた。

 彼女はゆっくりと振り返る。その眼には光るものが……。

 微笑み。今度のそれは自嘲めいていて。

 小さな声で呟いた。


「いくじなし」


 ふらり、彼女の身体が後ろへと傾いだ。

 あ、と声が出る。

 反射的に手を伸ばす。銃が汗で飛び出した。

 届かない。

 彼女の身体が空へと投げ出された。それを追うように、僕の手から離れた銃も一緒に落ちていく。

 落ちていく――落ちていく――落ちていく――。

 どんどんと小さくなっていき、いつしか黒点となって、そして。

 そして――。

 地面へと彼女は「やっと気づいたのね――





――バカトオル!」

 鼓膜を揺るがす凄まじき声によって僕は目覚めざるを得ない。その声は、あまりにも耳の近くで発されたために限界まで増幅された彼女のものだった。

 ……彼女? どうして僕の部屋に!


「なんてね。エヴァの真似だよ。主人公の幼なじみであるところの美少女が家に上がり込み、まだベッドで眠っている彼を叩き起こす。今のシチュエーションがまったくそのままだから、ついね。おはよう、トオル」


 僕はため息をついた。さっきの夢のせいか、まだ胸がドキドキしている。どんな夢だったのか、記憶はもう薄れてしまって思い出せないけれど。


「迷惑もいいところの物真似だな……。それに、そんな状況なんていろいろなアニメやドラマにあるベタなやつじゃないか」


 彼女はきょとんという顔をした。意味が解らないというように。


「……。いや、なんでもない。それより今何時だ……」


 まだ、もやもやとした意識のまま、傍らに置いてあるスマホの画面を光らせた。

 遅刻確定。

 一瞬にして沸騰する意識。やばい、早く行かなければ!

 と、思いかけたところで今度は心がみるみるうちに萎えてゆく。

 まあ、いいか。今日一日休んだところで、大勢に影響はないだろう。


「悪い、今日は諦める。だから君も――」

「許さないよ」


 思わぬ厳しい口調に、閉じかけていた目を開く。

 僕の身体の上に馬乗りになっていた彼女は、今までに見たことがないほど冷たい目をしていた。

 そして手に持つのは銃。銃口が僕の眉間に当てられて冷たい。


「許さないよ」


 彼女は躊躇わずに引き金を――。





 気がつくと、僕はまた暗闇の世界にて何者かに拳銃を突きつけられていた。


 過去と現在、現実と夢が混同している意味不明な感覚だった。まるでバラバラになった

複数の小説のページをシャッフルし、上から順に読まされるような気分である。

 そしてこの場面に戻ってきた。ここは現在進行形なのか回想なのか、真実なのか妄想なのか僕にはもはやその判別がつかなかった。

 どこかへと飛んでいったはずの蝶がふたたび視界に戻ってきた。銃の周りを、じらすように絶妙な距離感で周っている。


「お前は誰だ」


 僕は尋ねるというよりも、呟くように言った。答えが返ってくるとは期待していなかった。

 だが、意外にも闇の奥にいる何者かは見えない口を開いた。


「まだ逃げる気か」


 男か女か、声でも判らない。ボイスチェンジャーを通したような、独特な声質だった。


「逃げるって、どこから」

「リアルからさ」

「こんな真っ暗で何も見えない世界が、リアルだと言うのか」

「ここはリアルじゃない。しかし、リアルの隠喩ではある」


 蝶がまた銃の上に止まった。

 声は続く。


「見たまえ。一見自由に世界を飛び回っているように見える蝶も、そもそも世界の体積が狭ければ、いつかは元の位置に戻らざるを得ない。君も同じだ。自由が見せかけであることに気づかなければ、本当の自由は決して見えない」

「……でも、その自由はつまり死、なんだろ?」

「果たしてそうかな。お前にはまだ何も見えてこないようだ。いいさ。好きにするといい」


 その時、硬いはずの銃が歪んで見えた。まるで目眩のように、その形が確かでなくなってくる。


 そして僕は、ふたたび解放された。

 




 霧濃く立ちこめる深夜のロンドンにて、トール・マカージア巡査は湿気を多分に含んだ粘っこい空気を掻き分けながら必死で駆けていた。

 大粒の汗が身体中から吹き出す感覚。幾度となく思い返されるのはわずか数分前の取り返しつかぬ失態。



※※※



 トールが先輩刑事のフルトンとともにスコットランドヤードから与えられた使命は、すでに五人もの婦女子を殺害したと目される稀代の殺人鬼、通称『切り裂きジャック』の逮捕だった。

 といっても、二人が何か特命を受けたというわけではなく、単に深夜の警備をいつものように命じられたに過ぎない――あの光景に出くわすまでは。

 


 それは悪夢のような光景だった。


 警邏の最中、何気なく路地の奥へと目をやった時があった。その瞬間、目に飛び込んできたのは地面にしみつく二つの影だった。

 最初は鼠が交尾でもしているのかと空目した。いや、トールの内心に潜む抗いがたい恐怖こそが彼自身の目に錯覚を起こしめたのかもしれない。そもそもサイズが明らかに違ったのだ。

 トールは恐る恐るランプをその方角に向け――

 突如、影の片方が弾かれるように動いた。こちらに向かって駆けてくる。

 情けなく悲鳴を上げるトール。慌てて後ろのポケットに手をやる。思ったのと違う、冷たい鉄の感覚。構わず強く握りしめて影に向けて振り上げる。いまだ正体定かでないが、トールはその影こそがジャックであると確信した。もう一つの影はジャックにやられた不運な犠牲者であるとも。

 双眸が異様な光を帯びていた。尋常ではない視線にトールは思わず身を引く。体重が掛らない一撃は、虚しくジャックの身体を掠めるだけだった。ぶつかるまでもなく、形容しがたい威圧感を受けトールは尻を地面へしたたかぶつける。

 痛がる暇もなく、ジャックの方を見やる。前傾姿勢になった男は凄まじい勢いで疾走し、今トールがやって来たT字路を左へと曲がった。


 トールはもう一つの影へと駆け寄った。

 案の定、そこに倒れ伏しているのは半裸の若い娘だった。身体を仰向けにすると真紅のドレスの真ん中に空いた穴からどろりと粘着質のものが流れ出る。


「くそ!」


 おそらく生前は、周りの目を惹いたであろう美しい娘の身体を地面に置くと、小さく首を振ってから立ち上がり先ほどジャックが消えた通りへと目をやった――



※※※



 トールはもはや幻想であったかのように消え去ったジャックを追い走っていた。巡査となってから、何千時間もパトロールを続けてきたロンドンの地形は完全に頭に入っている。


 左手にはランプを、そして右手にはポケットから取り出した『物』。普段ならそこに入っているのは警棒なのだが、今握っている『物』は――拳銃だった。

 普段ならばトールのような平巡査には、銃などといった大層な武器を持つことは許されていない。

 ただ、現在は非常事態――人間離れした悪意と殺人術を有する切り裂きジャックが跋扈する闇を警邏するには、警棒では何の役にも立たないと判断した上の人間が、半ば強権を発揮した形で銃の携帯を認めたのだった。

 しかし、そのある種の特権こそが今のトールを焦らせている要素の一つでもあった。


『必要ならば撃ち殺しても構わない。奴はそれに値する悪人なのだから』


 手の平で憎らしいほど冷たく響くウェブリー・リボルバー。殺せ殺せと黙示的に迫ってくるような焦燥感。

 トールは汗を拭った。次ジャックが視界に入るということは、すなわちこの銃が奴の命を奪うということだ。俺にそれが出来るのか?

 答えの出ぬ、底なし沼のような自問自答。考えれば考えるほど、先ほどの失敗が胸を刺す。あの時ジャックを取り押さえることができていれば、ここまで追い込まれることもなかったというのに。


 左に右に細い路地を折れ曲がりながら通り過ぎる。

 表には他管轄の巡査も見回りをしているはずだ。奴の嗅覚ならばそれを見抜き、まだこの路地のどこかにいるに違いない。

 踏ん切りのつかぬまま、ついにジャックの足がさっと目の前を横切るのが見えた。

 こうなったら絶対にジャックを捕まえなければならない。警備のルートは厳密に定められている。少し上の連中が調べれば、トールがジャックを取り逃す失態をしでかしたことはバレてしまうだろう。


 しかしあの怪物を俺は捕まえられるのだろうか……?


 お世辞にも運動神経が良いとは言いがたい。筋力も並だし、体格も頼りにするべくはない。

 だとすれば、俺に出来るのはこれしかない。

 トールは自分の右手をちらりと見た。

 殺すのだ。殺人鬼を、この手で。

 決意してしまうと動きは早かった。拳銃を自分の身体のまえに持ってくる。両手で構え、地面にだらりと腕を垂らす。そして今まさに奴が姿を消したT字路の角へと――。

 すぐに視界に人影が映った。

 銃を構える!

 そして引き金に指を掛け――。

 その時、トールの目に信じられない姿が飛び込んできた。

《切り裂きジャック》じゃない! 

 そこに居たのは先輩刑事のフルトンだった。突然銃を向けられ、驚きに両目を見開かせている。


 しまった、指が!


 角を曲がった瞬間に構えていた指が止まらない。

 目の前にはフルトン。微動だにせずトールを見つめているばかり。

 時間が緩やかに進むような感覚。

 銃口を下げることもできないまま、ついに指がその地点に達したのをトールは悟る。それはあまりにも絶望的な《殺し》の確信だった。


 深い霧を突き破り、意図せぬ銃声が深夜のロンドンに響き渡った。

 


7 



「ふう、やっと落ち着きました」


 透が感慨とともにそう呟くと、そばに立っていた林野がふりかえって言った。


「馬鹿。これからが本番だぞ。まだ始まってもないってのにそれじゃあこれからが思いやられる」


 厳しい口調だった。が、すぐに柔和な笑みを浮かべて、

「なんてな。初めての時は俺もお前と同じ感想を抱いたよ。とりあえず休んでていいから、俺たちの準備する手際をよーく目に焼き付けとけ。明日からはお前にもやってもらうからな」

「はい、ありがとうございます」


 透と林野、そして数人の男達は、今水深3500メートル――深海世界を調査するための潜水艦に乗り込んでいた。


※※※


 透は昨年大学院を卒業したばかりで、今回が初めての乗艦である。

 潜水艦は数時間かけてゆっくりと水深を下げていく。潜水はデジタル制御によるオート運転となっていて、海中に何か異常がないかを目視で確認するしかすることがない。とはいえそれも、潜水艦に装備されているレーダーやソナーが自動探知してくれているのでほぼ必要はないのだが。

 そのいささか手持ちぶさたな時間を、透は幾分か不安な心地で過ごしていた。

 潜水艦の構造は院生時代、そして今の研究所に入ってからも徹底的に叩き込まれていた。理論上危険性はゼロに等しく、数値だけで見れば自動車や飛行機などよりもはるかに安全な乗り物である。


 それは解っているのに、なんだろう、この漠然とした恐怖は。

 圧迫感があるのは確かだ。莫大な水圧を耐えるため、窓一つない艦内はたまらないほど閉塞的で、断続して聞こえてくるごおお、という低い唸り声のような水を掻き分ける音は、否が応でも自分が頼るところのない深海に居ることを思い起こさせられた。

 黙って席に座り震えていると、業務に忙しいはずの林野が透のところにやって来た。「横座るぞ」と断って透の隣に腰掛けると、強ばっていた身体をほぐすように大きく背伸びする。


「怖いか」


 強がってみようかと思ったが、ここは素直に答えることにする。


「……思ってたよりも結構キツいですね」

「車や船に乗るのとはワケが違うからな。飛行機に似てるっちゃ似てるが、正直あれよりもこっちの方が怖いだろう」


 透は院の卒業旅行の際に乗った初飛行機を思い出した。一回だけ乱気流に突っ込んだときがあり、たしかにその時の振動やアナウンスには緊張感を覚えたが、今のようにずっと恐怖を感じるようなことはなかった。


「どうしてなんでしょう。潜水艦も飛行機も、どっちも壊れたら一巻の終わりには違いな

いってのに」


 すると林野は暫しの間小さく唸り声を上げ、何かを考えているように見えた。ただでさえ強面なのが、眉を潜めることにより凄みを利かせるヤクザのように見えてしまう。


「やっぱりそれは、世界の狭さからなんだろうな」

「世界の狭さ?」


 普段、仕事以外では女か酒かスポーツの話しかしない林野から、そのような観念的な台

詞が出て来たことに透は驚いた。


「俺達は普段陸の上では自由に歩き回ることができる。ここで言う『自由』ってのは気持ちの問題でな。やろうと思えば海を越えて違う国にも行けるし、曲り間違えばロケットに乗って宇宙に行くなんてのも、思うだけならできる。

 だが、この深海に居る俺達はどうだ。可能性が閉じているだろう。潜水艦から一歩出れば、いや、ほんの少しの亀裂が入っただけで、問答無用で死だ。飛行機の場合は、飛んでいるのが大空ってのがポイントだな。ほら、なんとなく開放感があるだろ。気持ちの問題なのさ」

「気持ちの問題……そうですね」

「ま、すぐ慣れるさ」


 ポンと軽く透の背中を叩いて林野は去っていた。

 結論がふんわりとなるところはあの人らしいな、と少し気が楽になった透だった。



※※※



「そうだ、お前に一つ言っておかなけりゃいけないことがあった」


 一通りの準備を終え、シフトで運転手を割り当てられている男を除いて皆がサロンに集まっていた。


「なんですか林野さん」


 軽い気持ちでそう返すと、不意に透を取り囲むメンバーの空気が引き締まるのを感じた。

 林野は近くの男に何かを命じると、その男はすぐに潜水艦の端に設けられている小さな物置き場に入っていった。戻ってきた男の手には――。


「え、そ、それ、拳銃ですか」

「そうだ」


 男達が囲んでいる机の上に置かれると、透は姿勢を低くしてそれをまじまじと観察した。


「な、なんだ、モデルガンですよね。こんなので驚かせようなんて人が悪いなー」


 しかし林野は即答した。


「本物だ。弾は入っていないが、操縦室にある」

「そ、そんな……なんでそんなものがここに」


 林野はじっくりと間を取ってから話を始めた。


「お前、こんな話を聞いたことはないか? 昔、俺たちのような潜水艦員は深海に潜る際、艦内に酒を持ち込んでいたって」

「……初耳です」

「昔の潜水艦は今と違って安全性に乏しかった。今では事故なんてほとんど考えられないが、当時は愛する家族に遺書を書くほどの旅路だったらしい。今でいうと宇宙に行くのと同じぐらいかもしれない。

 酒を持ち込むのは、潜水艦事故――つまり死、だ――への恐怖を紛らわせるためだ。どうせ死ぬなら酔って前後不覚になり、訳がわからぬまま死んでしまいたいと思ったんだろう」

「……」

「そしてこの銃は俺たちにとっての酒の代わりだ。今は所持品検査が厳しくなって酒なんて持ち込めないが、銃なら予備の部品に紛れ込ませることができる。同じ金属製だから」

「つまり……事故が起きたときは、それでじ、じさ……」


 林野は頷いた。


「そうだ。酒は酔えるやつとそうでないやつがいるが、頭を撃ち抜いて死なないやつはいない。死への恐怖から逃れるにはうってつけの代物ってわけさ」

「そりゃ、そうかもしれませんが……でも一体、銃なんてどうやって手に入れたんですか」

「俺がここに来る前、海自に居たことは言っただろ。そのときに米軍の兵士と繋がりがあってな。軍の廃棄品を横流ししてもらったのさ」

「そんな! れっきとした犯罪じゃないですか!」


 透がそう叫ぶと、林野はふんと鼻を鳴らした。


「それを言うなら今ここに銃があること自体犯罪に近いだろう。深海はどこの国の法律も適用されないが、調査を終えて上陸するのは日本だ」

「でも……犯罪までしてどうして」

「俺が怖いからに決まってるだろ。もしも上に告げ口したいなら止めはしない。黙るにしても暴露するにしても、お前らには迷惑の掛からないようにするから」


 そして林野は立ち上がり、銃を持って物置場へと向かっていった。

 透以外の者に訪れる弛緩した空気。


「皆さん知っていたんでしょう! 銃を艦内に持ち込むこと、黙認していたんですか!」


 メンバーは皆一様に頷いた。その表情には、死を恐れる臆病さがありありと表れていた。



 夜。外の景色に時間感覚はないが、艦内の時計は夜十二時を指していた。

 透は二段ベッドの下側に寝転がりながら物思いに耽っていた。二人部屋のもう一人は夜間シフトで操縦担当だった。

 考えていたのはもちろん先ほどの銃のことである。

 林野も自分で言っていたが、間違いなく犯罪だ。人として正しいのは上陸したその足で警察に通報するなりして裁いてもらうことだろう。

 だが透自身、そこまで根が真面目な人間でもない。法律に反しているからといって、直ちに告発するのが絶対だとは思わない。それに、林野が言ったとおり万が一の事故の際はあの銃でひと思いにやってもらった方が良い気もする。たとえ事故が起きずとも、深海に居ること自体に起因する恐怖を少しでも和らげてくれるかもと思いもする。

 なんとも言いがたい二者択一だ。俺はどちらの道を進むべきなのか――。


 そのときだった。


 パン、パンと遠くで乾いた音がした。艦内は全体的に防音加工が施されているために聞こえた音は微かだったが、聞き間違いではない。

 ――あれは隣の部屋じゃないぞ……サロンか操縦室じゃないか?

 シフト外の艦員は十時には就寝するのが常である。透はたまたま起きていたが、この時間に起きているのは本来なら操縦者だけのはずだった。

 なにか不審だ――。

 透は身体を起こし、扉を恐る恐るゆっくりと開いて部屋の外を覗き込むようにした。


「ひっ!」


 そこに林野が立っていた。大粒の脂汗をかいていて明らかに尋常ではない様子だった。


「どうしたんですか!」

「小林が……小林が死んでる!」

「なんですって」


 小林は透と同室の男である。

 透は林野に促されるまま操縦室へと向かった。


 操縦室のシートに身をもたれさせるようにして小林は死んでいた。

 左のこめかみから際限なく血が流れ出している。

 間違いなく銃殺だった。


「惨い、誰がこんなことを」


 思わずそう呟いてから、透は気づく。


「そうだ、銃弾! 確か操縦室にしまっていたはずでしょう」


 林野はシートの足下にある引き出しを開けて中を確かめるが、すぐに首を振った。


「抜かれてる」

「まさか、小林さんが自殺したというわけじゃ」

「それはない。見たところ、室内に銃は見つからない。誰かが小林を殺して、いまだ銃を隠し持っているに違いない」

「じゃあ犯人はあの二人のどちらか――」


 そう言って操縦室の外を見やった瞬間、突如後頭部に凄まじい衝撃を感じた。どうすることもできず床に倒れ込む。

 気絶するまでの数秒の間に、透はすべてを悟り、そして自らの愚かさを呪った。


 頭を蹴り飛ばされて透は意識を取り戻した。

 目の前に林野が立っていた。冷酷な目つきで銃をこちらに向けている。


「残りの二人も殺した。後はお前だけだ」

「いったい、どうして……」


 無限の意味を包含する『どうして』だった。林野はその一つに答える。


「どうしてお前を最後に残したかか? 簡単なことさ。最期の会話はお前としたかったからだ。まだ新入りで、この世の理を何にも知らないお前に、なぜ俺がこんなことをしでかしたかを教えてやりたかったんだ」


 そして林野は語り始めた。


「昼間、お前に話しただろう。潜水艦に乗るということは、それ自体が死への恐怖と戦うことだ。一寸先は死。それは俺が海自に居た頃から感じていたことだった。どうせ他国との会戦もなかったしな。

 だが、あるとき気づいたんだ。本当はこの深海で俺は死にたかったんだとな」


 言ってることが意味不明だった。林野の言葉はすでに狂気の域に達しているように透には見えた。

 そんな透を見て林野は笑った。


「不可解だろう。だが、それが真実だ。俺は昔から閉所恐怖症でもあった。大の男が狭いところが苦手なんて恥だから誰にも言えなかったがな。職務は常に恐怖を孕んでいた。お前が今日感じていたそれの数倍の恐怖を、俺は常に感じていた。まだ俺は四十手前。あと二十年もこれを繰り返すかと思うと、頭がおかしくなりそうだった」

「……」

「これから解放されるためには一つしかない。死ぬことだ。だが、ただ普通には死にたくなかった。俺はこの深海に殺されたかった。確かな敗北感に包まれながら、惨めに死にたかったんだ。それを実現するためには潜水艦をジャックするしか方法はないってわけさ。俺はお前を殺した後、手動でハッチを開けて水を艦内に招き入れる。外と中の均衡が崩れ、あっという間にペチャンコさ」

「……そんな馬鹿な……」

「だが俺はお前たちに水がどんどん浸食してゆく恐怖を味わって欲しくなかった。それでこの銃だ」


林野は撃鉄を起こした。そして透の眉間に銃口を押しつける。

 先ほどのダメージが尾を引いていて満足に抵抗もできない。


「痛みはない。即死だ」

 そして林野は引き金に指を掛け――。

 




「……」

「これでわかっただろう。決してお前は逃げることができない。起承転結の結は常に銃殺だ。実際に死ぬことはないにしても、それはきっと永劫の拷問で値するに違いない」

「どうしてこんなことに……」

「お前が臆病だからだ。本質から目を逸らし、独りよがりの幸福を選び取ったからだ。偽物であることを知りながら」

「そんなこと知らない! 僕はただ死にたくないだけだ」

「リアルはもはやその域にない。それだけのことだ」


 何者かは撃鉄を起こした。もう何度も聞いているそれは、数十秒後に訪れる偽物の死への前触れ。


「最後のチャンスを与えよう。この銃から飛び出す弾。それがお前の眉間を貫けば、それはそのまま死の暗喩となってお前はこの世界から解放される。でなければ……」


 眉間に冷たい感触。これで何度目だろう。僕はずっとこれから逃げ続けてきた。はるかなる世界を旅し続けていた。でも、結局またここに戻ってきていた。ちょうど、この蝶々のように。

 だとすれば、こいつの言うとおりなのかもしれない。そして、彼女の言うとおりなのかもしれない。死ぬことによって初めて、この世界から脱出できるのかもしれない。


「最後に聞かせてくれ」答えは返ってこない。「君は……誰だ?」


 空白の時間。しばらくの後。


「僕は、私だ」


 引き金。

 そして、銃声。

 




 青空とまるで無であるような真っ白い雲の対照が映える風景を、僕と彼女は走った。両側にせり立つ灰色の塀。延々と続く真っ直ぐなアスファルト舗道。


 時計を見ずとも肌で時間を感じる。急がなければ遅刻だ。

 彼女は僕の前を跳ねるように走っている。

 必死で走るけれど、不思議なことに追いつけない。そこまで本気のようには見えないのに。男と女の脚力の差もあるはずなのに。

 彼女は笑っていた。ついぞ見たことのない、楽しそうな姿だった。難しい議論をしていた頃よりも美しく見えた。何かから吹っ切れたようだった。

 二人は走り続ける。どこへ向かっているのか、僕はもう忘れてしまっていた。ただ、ひたすらに楽しかった。もうこれでいいのかな。悟りの境地に達しかけてもいる。


 けれど。


 僕は立ち止まった。

 気配を感じたのか、彼女もすぐに立ち止まった。そして振り返り、こちらを見つめている。柔らかな瞳。

 息が落ち着くのを待ってから僕は口を開く。


「いつか僕を殺してくれる?」

「いつか、ね」


 そう言って、彼女は妖しく微笑んだ。

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