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シャ・ノワール  作者:
8/12

8.




 *




 その翌週日曜日。ローカル線の電車に揺られ、わたしたちの住む町から二時間ほどで、会場の公園に着いた。その会場は昔海を埋め立てしてつくった島のような場所で、広大なその敷地では、たまにスポーツのイベントなんかもやってくる。今日は潮風が強いものの、空には雲ひとつなく、まさにピーカンということばのとおりの天気だった。音楽フェスティバルにはもってこいの日和だ。


「べたべたするね」

「うん。すごい風だ」


 わたしたちが会場に到着したころには、もうオープニング・アクトが終わったあとだった。わたしはすこしがっかりした。むかしから、お祭りごとには始めから終わりまで参加しないと気がすまないタチなのだ。


「もっとはやく家出ればよかったね」

「家を出たのは十分な時間だったよ。チエさんが途中で道草を食うから悪いんだ。電車を一本乗り過ごせば、田舎の路線なんだからそうそうつぎが来るわけがないでしょ」

「じゃあそう言ってくれたらよかったのよ。それならわたしだってインスタントコーヒーで我慢したのに」


 久賀くんは片眉を下げて、やれやれといった顔をした。まるで、聞き分けの悪い娘だか年の離れた妹だかを相手しているような表情だった。

 屋外のイベントにはこれがはじめての参加だった。

 まずは拠点の確保から。わたしたちは持参したシートを片手に、休憩にちょうどいいスペースをさがした。すぐにみつかった。さすがに広い公園だった。すこしステージからは離れてはいたものの、久賀くんいわく、「どうせ座っておとなしく鑑賞しにきたわけじゃないんだから」、ということらしいので。


「つぎはなにをするの?」

「そうだな」と久賀くんは考えるような顔をしたあと、「つぎはビールだ」と言った。

「フェスにはビールが必需品なんだ」


 すばらしい持論だと思ったので、もちろんわたしはそれを支持する。




 *




 コロナは一本五百円もした。スーパーか酒屋で買えば、その半額ほどの値段だというのに。わたしたちはとりあえず二本ずつ購入して、家から持ってきたエビとれんこんのバケットサンドをふたつずつ食べた。バジルが効いていてとてもおいしいと、久賀くんはほめてくれた。よかった。早起きのし甲斐があったというものだ。

 それからのんびりと青い空とステージを交互にながめながら、ライムをたっぷり搾ったビールをちびちびすすったり、すこし気になるアーティストの出番になると(ほとんどしらないひとたちばっかりだったので、主に久賀くんのすすめるところだったのだけど)、ステージ前まで移動し、アルコールと気温で高揚しきった人々の波間でもみくちゃにされたりして、その場の雰囲気を十二分に堪能した。


「これが屋外フェスのたのしみかただ!」と彼は叫んで、まわりの人々とおなじ風に器用にステップを踏み、からだを揺らした。わたしも真似してみる。自分としては、うまくリズムに乗っているつもりだったのだけど、思い切り久賀くんに笑われてしまった。「ちょっと変!」

 わたしにはリズム感とかそういった音楽的センスが、からっきしないみたいである。


 空気がだんだんと黄色く色づきはじめた。時計を見ると、もう午後三時を過ぎたころだった。わたしはもうすっかりバテきっていた。なのに久賀くんは元気だ。十歳差うぃ実感する瞬間だった。わたしは自分のからだの衰えに失望し、そして若さのすばらしさについて、感心した。

 ビールはもはや何本めなのかわからなかった。メインステージは場面切替および機器調節中につき、ただいまはサブステージのほうで行われているライブの音声が離れたこの場所まで聞こえてくる。古典的ロックンロール。めずらしくも女の子のボーカル・バンドみたいだった。


「あのさ」、ととつぜん久賀くんが言った。

「僕、引っ越すかも」


 え?


「寝耳に水なんだけど」、わたしはとまどいながら答えた。いきなりなんだと。


「どこに?」

「そんな遠くではないよ」

「ふうん」

「うん」


「どこ?」とわたしがたずねると、めずらしく久賀くんは口ごもった。そして、「そんなに遠いところじゃないよ」と、まったく答えにならない答えを繰り返してお茶を濁し、そのまま黙りこんでしまった。

 わたしもそれ以上はとくに追求もせず、彼に合わすようにして黙っていた。久賀くんの言うことなんだもの。彼が「そんなに遠い場所ではない」と言い張るのだし、久賀くんにも仕事があるのだから、やっぱりそう遠い場所ではないのだろう。どうせ同棲しているいまの部屋をもうすこし広い部屋に替えるとか、そんなところなんだろう。

 しばらくのだんまりのあと、わたしは久賀くんに聞きたいことがあったのを思い出した。


「久賀くんさあ」

「うん」

「こないだ、ヒロトになんの話をしたの?」


 久賀くんは、しばらくひとしきりの考慮をめぐらすみたいに宙を見ながら黙っていた。


「こないだのイベントでさ。僕の彼氏わかった?」

「わたしがいま聞きたいことからはかなりかけ離れてしまった質問のように聞こえるけれど」


「わかった?」と、久賀くんはしつこい。わたしはため息をついた。わかるにきまってるじゃないか、と思う。

「わかるに決まってるじゃない」とわたしは言った。


「あんなにガン見しててさ」わからないはずがない。

 久賀くんはうれしそうに笑った。「いい男だったでしょ」と。そんな風に聞かれてうなずく以外、いったいどんな風に答えればいいというのだろう?


「よくわかったね」

「ひどかった。ずっと恋人だけを見つめてるんだもの」

「そうだった?」

「ぴくりともしないのよ。前のひとたちのときにはがんがん躍ってたのに」

「ははは」


『ははは』じゃないわよ、とわたしは内心毒づいたけれど、彼のことがまったく理解できないわけではなかった。

 むしろ痛いくらいに理解できた。それが『恋』だ。恋というものは、まるで鋼の鎖で羽交い締めにされるようなものだ、とわたしは思う。まったく身動きがとれなくなる。意識とからだがばらばらになる。選択肢、なんてものはないのだ。拘束され、からだから自分の意志を抜き取られ、問答無用に底なしの沼にゆっくりと沈められていくような(ずぶずぶと)、そういうものだ、とわたしは思っている。

 あのとき、久賀くんには目を逸らすことなんてできるはずもなかったのだ。きっと。できっこなかったのだ。きっと。

 それはあまりにも巨大な力で漠然と久賀くんを拘束しているのだ。その鎖は、ひとの目にはまるですがたを現さない。一見するとまったくの自由の身みたいに見える。逃げることだって論理的にはできないことじゃない。なのに、逃げられない。思考がぷつりと途切れる。しばらくのあいだ、すべての動作がフリーズしてしまうことになる。

 重ねて言うけれど、それはあまりにも大きな力なのだ。

 たとえば非常に凶悪で暴力的な巨大な竜巻に巻き込まれ、それからなんとか逃げだそうとすることとおんなじだ。どう考えてみたって無理な話だ。ひとたび捕まってしまえばわたしたちはいとも簡単に自由を奪われ、空高く巻き上げられてしまうだろう。なんとか阻止しようと近くの木の幹や民家の柵なんかにすがろうとする。けれど結局はそれごと吹き飛ばされてしまうのだ。なにもかもを巻き込んでいく。まったくの不可抗力だ。


 まったくの不可抗力。

 あるいは遠くに竜巻を発見する。わたしたちはあわててそれから遠ざかろうとするだろう。けれど、それは無情にわたしたちのからだをからめ取る。逃げられっこない。そういうものなのだ。恋とは。


「あのさ」と久賀くんは言った。わたしは我にかえる。竜巻に気を取られすぎていた。『恋はハリケーン』。なんてありきたりな比喩なんだろう。


「僕はほんとうに彼のことを愛してるんだ」

「わかってるよ」わかりたくもないのに。

「ほんとうに彼は特別なひとなんだ。僕にとって」


 わたしは黙ってうなずいた。



「それまで僕は不信感を抱きながら――なんて言えばいいかな、わからないんだけど、とにかくそれは形容しがたい不信感なんだ――、ぎこちない毎日をぼんやりとやりすごしていたんだ。濁りきった泥水のなかで、視界は狭く閉ざされていた。なにが正しくてなにが間違ったことなのか、それどころか僕自信が一体どんな人間なのかさえ把握できちゃいなかった。まるで地獄みたいな日々だった。いま思えばね。彼は僕を、そんなどろどろとしたところから連れだしてくれたんだよ。きれいに澄みきった水のなかに。そこではじめて世界の広さをしった。そして僕がほんとうはどんな人間だったのかも」


 なぜだか、久賀くんの顔を直視できなかった。それでも盗み見るようにしてこっそり彼の横顔に視線をやってみた。空はだんだんと黄色から赤にシフトしはじめていた。久賀くんの長いまつげも赤く縁取られている。夕日にむらなく染められて、彼はちょっとびっくりするくらい美しかった。


「彼は僕の恩人だ。僕は蛙で、汚い井戸の底から救いだしてくれた。海の広さを教えてくれた。たくさんのものを失ったけれど、同時にほんとうに大切なものだけを見極める力みたいなものを身につけたんだ」

「……。」

「ねえ、チエさん。僕はゲイで、いままで女の子に興味を持ったことなんてさっぱりなかったんだ。それどころかおぞましくさえ思っていた。見られたり触られたり、できるものなら口だってききたくないって思っていた。でもね」


 そこで久賀くんは口をつぐんでしまった。わたしは無意識に彼のほうを見た。久賀くんは大まじめな顔をしてじっとわたしの目を見つめていた。急激に心臓が収縮する。


「でも、チエさんだけは別なんだ」



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