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シャ・ノワール  作者:
7/12

7.




 *




 それから妹はまったく家に寄り付かなくなった。

 久賀くんも、ここ二週間くらい一度もたずねて来ない。そのために、「どうしたのかな?」とヒロトが毎日毎日そわそわしている。父親をしらない彼にとって、久賀くんこそが彼のほんとうの父親みたいな存在なのだ。

 わたしもここのところまったく気力がない。

 あんなにうとましかった梅雨が明けたのに、歩くことが大好きなわたしが散歩に行く気にもならない。必要最低限ぎりぎりほどにしか買い物にすら行かない。化粧だってしていない。本も読まないし、食欲すらない。急激な気温の変化のせいでからだが茹だってしまったのかもしれない。今年も、夏が訪れていた。




 久賀くんが久しぶりに我が家を訪れたのは、もう七月も半分を過ぎたころだった。

 一ヶ月近くもなんの連絡もよこさなかったくせに、まるで昨日も会っていたようなさりげなさで、久賀くんはドアの前に立っていた。「久しぶりに観たくなったんだ」と言って『グレムリン』を持って。


「あんまりにも来ないから、どうしたんだろうねって、ヒロとふたりで心配していたのよ」


 久賀くんがやってきたのは、もう夕食も終わって、お風呂も洗い物もすべて終わった夜八時過ぎだった。なので、今日はヒロトとわたしと久賀くんの三人で映画鑑賞会だ。


「ちょっといろいろとばたばたしててさ」と、苦く笑いながら久賀くんは言った。ヒロトはもう二度と離してたまるものかとでも言わんばかりに、彼にべったりと張り付いている。わたしはいつものように、彼の足元あたりの地べたに座っている。

「もう来ないかと思った」とわたしはつぶやいた。だってあのあとからとつぜん、ぴたりと来なくなったんだもの。

 久賀くんは笑って首を振った。「まさか」と。


「わたしたちのこと、忘れちゃったのかと思ったわ」

「そんなわけないじゃん。どうして僕がこんなにかわいい親子のことを忘れなくちゃいけないのさ」


「だって心配したんだよ!」とヒロトも口を尖らせた。久賀くんはとても幸せそうな顔をして、彼の頭をなでて言った。


「暇がある限り僕は毎日だって来るよ。できないときもあるけどね。でも、どれだけここに来れない日がつづいたとしても、チエさんたちのことを考えない日なんて絶対ないんだから」

 わたしは笑った。「なんだか恋人に言う台詞みたいよ」

「そうだよ」と、久賀くんは冗談めく。「ヒロトもチエさんも、僕の恋人も、僕はみんなおんなじくらいに愛しているからね」

「もう」


 わたしが笑って彼の膝あたりを叩くと、ヒロトも喜んで「もう!」とわたしの真似をした。


「あ、そうだ、ヒロ」

「なあにー」

「あとでね、お話があるんだ」

「お話?」とヒロト。

「お話?」とわたし。


「だめ、チエさんには内緒なんだ」

「なにそれ。意味がわからない」

「ヒロ、これは男どうしの約束だからね」


 久賀くんはおどけた風に言ったけれど、声は大まじめだった。




 *




「そろそろ帰るよ」と久賀くんが言ったのは、いつもよりもずいぶん遅い、夜十一時ごろだった。

 ヒロトの就寝はそれの一時間前だった。久賀くんが寝かしつけをしてくれた。その三十分前には、なんとお風呂まで入れてくれたのだった。はじめてのこと……ではないが、とてもめずらしいことだった。


「長居してごめんね」

「ねえ、久賀くん」


「さっき、ヒロとなんの話をしていたの?」話がある、と言って、自分の食事が終わってすぐに彼はヒロトを連れて、別室まで移動してしまった。それから十分くらいで帰ってきたのだけど、戻ってきたあとのヒロトのテンションが、尋常じゃないくらいに低かったのだった。すくなくとも普段の彼なら、久賀くんの訪問中にあんな顔はしない。歯をきゅっとくいしばって、なにか報われない思いを抱いた青年が、自分の不遇を呪っているような顔つきだった。四歳児のするような表情ではない。


「気になる?」と、久賀くんはにやり。

「当たり前じゃない。母親なんだから」。わたしはむっとする。もったいぶって焦らされるのはわたしの好みでない。


「でも内緒だよ」

「ええ?」

「これは、僕とヒロの、男どうしの大事な約束だからね」

「意味がわからない」


 あきれて、かえって笑ってしまう。「ママには内緒」と固く約束をしたらしく、あんな状態になっても、わたしがどんなにしつこくたずねても、ヒロトはかたくなに口を割ろうとはしなかった。


「あの子、ほんとうに久賀くんの言うことならなんでも聞こうとするの」

「うれしいね」

「ほんとうの父親をしらないからね。久賀くんのことを自分の父親だと思っているんだと思う」

「……。」


 久賀くんは首だけでうなずくと、黙って大きな黒い革靴に片方ずつ足を通した。

 ふ、と思った。

 ――久賀くんとは、これっきり会えないのじゃないだろうか――と。


「ねえ」


 わたしはあわててその背中に声を掛けた。華奢な久賀くん。けれどその背中は意外と広い。


 もう会えないの。


「もう――」

「あ、そうだ」

「え?」


 なに?


「なに?」

「来週の日曜日さ、暇?」


 わたしはすこし困惑気味にうなずいた。

「暇だけど……」なんという脈絡のなさだ。


「夏だから」

「うん」

「夏、といえばフェスだ」

「うん……え?」

「行こう」


 わたしは曖昧にうなずくしなかったのだった。すくなくとも、今日で会えなくなる、というようなことはなさそうだ。



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