6.
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ヒロトは実家にお泊りさせた。久賀くんと、なにかのイベントに参加するのはこれが二度めだった。音楽の趣味がそれほど合うわけでもないのだけど。久賀くんはグランジ系のロックなかんじが好きで、わたしは音楽ならなんだって聞く。広い視野で見れば、ニーズはおんなじところにある、ということにならなくもない。と思う。
「もうはじまってる?」
「DJプレイでしょう。まだ」
「そう。よかった」
オープンが午後の六時半。わたしたちがあわててクラブハウスに到着したのは、七時十分前だった。
よかったのかな。ついてきたものの、わたしはさきほどからずっと逡巡している。恋人の出演するようなイベントに、ほかの女(ほかの女?)なんか連れてきても、久賀くんの恋人は怒ったりしないのだろうか。
「よかったの!」普通のトーンの声だと、このすさまじい爆音にかき消されてしまうので、しらず会話が叫び叫びになる。すでにテンション上々の久賀くんは大きな口を開けて笑った。「しらない!」と。しらないって。おいおい。
久賀くんを含め、会場はすでにすごい熱気だった。とうとう今週のあたまあたりから梅雨に突入してしまい、今日も朝からざあざあ降りの雨という、あいにくの天気だった。フロアはびしょびしょだ。それでも“ダンス・ミュージック・ラバーズ(久賀くんがそう呼ぶので)”たちは気でも狂ってしまったようにおかしなダンスを踊りまくっていた。滑って転んだひとの巻き添えだけは食いたくないと、わたしたちはドリンク片手にいそいそとうしろの壁際まで移動する。
わりと広いハコだった。コアなイベントだというので、もっと狭いところで行われるとばかり思っていた。頑張ったら三百人以上は入るだろう。
とつぜん音楽がぴたりと止んだ。だれかが奇声を発し、あたりがどっと湧いた。それもおさまると、しばしの沈黙がすでに暖められている観客たちをつつんだ。それは、彼らをすこしクールダウンさせるというよりも、これから起こることへの期待を燃料にして、さらに会場をヒートアップさせるために綿密な計算のうえに用意されたような、そんなたぐいの沈黙だった。
沈黙。
そして唐突にライトが一斉に点灯した。真っ赤なライトだ。うおお、と吠える観客たちの怒号に、びりびりと鼓膜が震えた。赤い光の洪水で、ステージ上はまるで火の海だ。そしてまた唐突に音楽がはじまる。びりびりと鼓膜。好き好きに踊り狂うオーディエンスたち。
普段の生活のなかでは、ちょっと見られないような、すさまじい光景だった。ライトがつぎつぎに変わる。レーザービーム。赤、緑、青、白と、くるくるくるくる変化する。シンセサイザー、ベースの重低音。観客たちの熱気、振動するフロア……わたしはビールの缶をうっかり落としてしまわないようにしているのがやっとだった。ちらり、ととなりを盗むように見ると、久賀くんもたのしそうにからだを揺らしていた。とても器用に、華麗でチャーミングなステップだった。
観客とステージが一体化する。それは完璧と呼んでもいいくらいに、見事な調和だった。この空間にはアーティストたちがいて、たくさんのダンス・ミュージック・ラバーズがいる。久賀くんがいる。そしてステージの向こう、この建物のどこかに、まだ見ぬ久賀くんの恋人が……。
ふいに、わたしだけ遠い星にいるような気分になった。
もう一度久賀くんを盗み見る。わたしの視線に気づいた彼がこちらを見てにっこりし、「チエさんも」と、ダンスをうながした。わたしは笑って首を振った。この場に居合わせているだけで十分だった。なのにどうしてこんなに心細い気分になるんだろう。
ぼんやりとステージをながめる。ほんの数メートルの距離が、近いようでとても遠かった。やけに冷静な気分だった。冷めているわけではないのに、うまく音楽とシンクロできない。完璧な調和。そのすさまじいエネルギー。この空間にうまく馴染めないわたしは、いまにも外まではじきだされそうだった。
とつぜん、久賀くんの左手がわたしの右手を掴んだ。掴んだ、というより、それはまるで仲のいい恋人どうしが手を繋いでいるようなかたちだった。
びっくりして彼のほうを見た。ステージではちょうど最後の曲が終わったようで、途切れた音楽を追うようにして、ふっ、と光も消えた。
「こうしてほしそうだったから」と耳元でささやき、久賀くんはわたしの顔を覗きこむと、にっこりして言った。わたしは顔を赤くした。
別にそんな。ちいさな声でつぶやいたけれど、ちょうどまた転換作業の場繋ぎにDJさんが音楽を流し、わたしのか細い声はあっさりとかき消されてしまった。でも、音楽が流れなくたってきっと届かなかっただろうけど。むしろ届かなくてよかった。届いてほしくなかった。なんとなく。またちらり、と久賀くんを盗み見る。彼はまっすぐステージをながめていた。青白い横顔。わたしは、とこっそり思った。
わたしは、もしかしたらこのひとと恋に落ちていた可能性だって、あったのかもしれない。彼が、ゲイでさえなかったら、の話だけど。
「女の子にさわっても平気なの」とわたしは言った。彼は自分の母親も含め、女性にほとんど免疫がないらしい。
聞こえなくてもいいと思っていたのに、これは久賀くんにも聞こえてしまったようだ。久賀くんは笑った。
「チエさんは特別!」
――特別。
うれしいな、とわたしは言った。「なに?」と久賀くんは聞きかえしたけれど、わたしはなんにもないと首を振った。そのかわり、繋がれた手をすこしだけぎゅっとつよく握った。
「つぎ、」
「うん」
「僕の恋人なんだ」
「ふうん」、変な風な返事になっていなかったらいいけど。
「とても恰好いいんだ。普段はこの近くのべつのクラブのスタッフをしてるんだけど」
「ふうん」
「とても大事なんだ、彼が」
「うん」
「彼だけが僕の居場所なんだ」
なぜだか急に胸がきゅうっとちぢまって、声がでなくなった。
音楽がやんだ。ようやくチューニングが終わったみたいだ。ふたたび、ステージ上はとつぜんライトの洪水になる。
久賀くんの恋人のバンドは5人編成のインスト・バンドだった。わたしは基本的にインストゥルメンタルも大好きだけど、やっぱりヴォーカルがいるのといないのとでは、ずいぶん満足感が変わってくると思っている。けれども、そんな偏見は、はじめの3秒くらいですっかり払拭されてしまった。すごいボリュームだ。すごい迫力、とてつもない圧倒感だった。久賀くんはからだを揺することもせず、直立不動になって、じっとステージ上の一点を見つめていた。彼はもうなんにも言わなかった。だからわたしにはどれが彼の恋人なのかわかるよしもなかった……のに、わたしにはすぐに、彼の恋人がわかってしまった。
あとから聞いたところ、彼の恋人は、ステージ上を右往左往に跳びはねまくって演奏していたベースのうしろで、淡々とキーボードを弾いていた彼だった。目深に白いキャップをかぶり、しかも終始うつむいたままだったのに、わたしにはなんとなく「彼だ」とわかったのだった。
わかってしまったのだった。




