5.
それでもはじめのうちはよかった。忙しい仕事の合間を縫うようにして、片道二、三時間もかけてわたしたちに会いにきてくれたし、電話は週に一、二度くらいはくれた。それが帰省は三ヶ月に一度になり、電話は一ヶ月一回になり……一年経ったころには、電話も帰省も半年に一回あるかないかになり、一昨年は電話だけになり、去年はとうとう一度も電話すらなかった。こちらからかけたって、いつでも留守電状態。ほんとうに最悪だ。
それでも別れようなんて、考えたこともなかった。どうしようも淋しくなった夜には、留守電に、ヒロトの近況報告と一緒に『会いたいです』の一言を入れた。不満や愚痴をつらつらならべたって効果がないことは、もうとっくの昔からわかっていたからだ。それよりも、けなげな女を演じ、彼の同情を引くほうがずっと効果的だと思った。『からだに気をつけてね』だとか『恋しいです』だとか(太田裕美のうたみたいだ)。まあ結果はご覧のとおり、空振りだったわけですが。
「それより、お母さんたち元気なの?」こうなりゃ話題を変えてやる。
「うん。相変わらず喧嘩ばっかりだけど」
「相変わらずね」
「でもすごいよね。あんだけ毎日毎日喧嘩しといて、来年結婚三十周年だよ」
そうか、真珠婚ね。とわたしはつぶやく。うらやましい。けれどわたしたちの両親は、なかなか子宝に恵まれず、わたしが生まれたのは、母が二九歳のときだった。
「銀婚式のお祝いもできなかったしさ、またなにか考えてあげなくちゃね」
ミエは、意外にもあっさり「うん」とうなずいた。
「けどお父さん、一回も不倫とかしてないもんね。そこはあたし偉いと思うんだ」
不倫……この子はどこまでデリカシーがないのだろう。
「わかんないじゃないの」
「母さんが言ってたもん。女の勘はするどいって言うじゃん。それじゃなくたって、母さん勘するどいし。こないだも外泊の理由が男だってバレちゃってさあ」
「それはわたしでもわかると思う」
不倫していたか、していなかったか。そんなのわからないと思う。
父は昔から、外の付き合いが苦手だった。仕事が終わればこの三十年間ほど毎日、まっすぐ家に帰ったし、毎日家で母の手料理を食べた。会社の同僚と飲みに行くことすらほとんどなかったらしい。忘年会と新年会だけは毎年、しぶしぶ参加していたみたいだけれど。お店で、家の外で食事をするのがどうも落ち着かないのだという。だからわたしたち家族はめったに外食すら行かなかった。
だからといって、その間父が母だけを愛していたのかというと、それはまたべつの話なんじゃないかとわたしは思う。思うけれど、普段大人ぶって偉そうにしている妹が、そうやって彼女なりに両親をちゃんと尊敬しているということは、じつにほほえましいことだった。大人になってしまったわたしには、彼らの夫婦間の問題なんて想像もつかないことだから、もう純粋に両親のことばを鵜呑みになんてできない。
「意外ね」
「なにが?」
「離婚はいいのに、浮気はだめなんだね」
「うん。絶対ゆるせない。あたし不倫なんてホント最低だと思うんだよね」
ふーん。
彼女には彼女なりの哲学があるらしい。
「あたしの友達もさーあ。学生の分際で不倫なんかに手えだしてさ。ニンシンしちゃったんだよ。で、最低なのが、「親にバレるとまずいから、保護者のサインとかなしで中絶できる病院ないかなー」とか平然と言うわけ。ホント最っ低。こどもできて困るんならちゃんと避妊しろっつうの。それができないなら、セックスする資格なんかないと思わない? お前たちサル以外だって言ってやりたい」
「あ、うん。そうね」
「なによ、お姉ちゃん、ヒロトがいんのにそうとは思わないわけ?」
わたしはあわてて首を振った。「いや、違うのよ」と。
「なんと言うか……ちょっとびっくりした」
「なにが?」眉間にシワを寄せ、ミエはタバコに火をつけた(タバコといい彼女の言動といい、教育上あまり好ましくないので、いつも夕飯が終わると、ヒロトをこども部屋に避難させるようにしているのだ)。
「あんた、意外とまともなこと考えているのね」
「バカにしないでよ。あたしはただこどもがかわいそうなだけだよ。ホント不倫するほうも不倫するほうだよ。奥さんと子どもがいんのに、嘘ついてまでべつのとこでヤりまくってさ――なんで避妊のひとつやふたつくらいできないんだろ」
「うん。わたしもそう思うよ」
相槌を打ちながら、まったく人事ではないんだよなあ、とわたしは暗くなる。うまく話題を変えたつもりが、みごとに裏目にでた瞬間だった。
*
「……そんなかんじで、彼女も彼女なりにちゃんと成長してるのね、って思ったの」
翌日。久賀くんがやってきたのは午後八時をまわったころだった。今日は五時間も時間が空くなんてことはなく(さすがにね)、むしろ前日の穴埋めでばたばたのうちに終業したらしい。とうに食事を終えていたヒロトも、「前日の穴埋め」だと言わんばかりに、久賀くんの膝上を陣取っている。いくらわたしが「久賀くんが食べにくいでしょ」となだめても、べったり張り付いて聞く耳ももたない。
「不倫ねえ」
「うん。不倫はだめで、離婚ならいいんだって」
「わかる気はするけど」
まあね、とわたしは内心でつぶやく。離婚なんて便宜的なものだし。まったく久賀くんの受け売りだけど。保証人とハンコさえあればできるのだ。逆に、離婚しないことだってできる。届けさえださなかったらいいのだ。
「不仲な両親のあいだで、愛情もあまりなくトゲトゲして生活するよりも、片親だけどたっぷりの愛情をもらってのびのび生活するほうが、子どもにとっても幸せだろうからね」
親の都合で、振り回されるこどもがかわいそうだもの。わたしのことばに、久賀くんは宙を見つめ、考えをめぐらすようにしながら、なにかに気を取られたひとがするような相槌を打った。どことなく空気が抜けたような、相槌。
今日の献立は豆腐ハンバーグと大根のみそ汁、きんぴらごぼう。きんぴらをつつきながら、久賀くんはにやりとして言った。
「これも浮気かな?」
わたしはきょとんとした。
――浮気? なんの話だろう?
「僕、だんなさん不在の家で奥さんの手料理なんか食べちゃってるし」
わたしはすこしオーバー気味に笑った。もう。わたしのことなんか眼中にもないくせに。不覚にもすこし、どきり、としてしまった。
久賀くんはゲイで、女性なんかに興味もないし、わたしのほうにだって、やましいこともやましい気持ちも、ほんとうになにひとつだってないのに。不覚にもどきりとしてしまった。修行が足りないな、とわたしは反省する。いったいなんの修行なのかはわからないけれど。
「あ、そうだ」と、みそ汁を飲み干し、ごちそうさまをした久賀くんが、ふとなにかを思い至ったらしく、椅子を立つとリビングのソファーに向かった。そしてスーツの上着とともに、ソファーの隅にきちんと置かれていたかばんをごそごそしているかと思うと、なにかを取り出し、すぐにこちらに戻ってきた。
「今度さ、市内のクラブでいいイベントがあるらしくて」
「ふうん」
受け取った黄緑色のチケットには、『エレクトロニック・クルージング』と書かれている。エレクトロニック・クルージング……前売り千五百円、当日二千円。1ドリンク制。
「行かない? 来週の金曜日なんだけど」
即答で「行きたい」とわたしは答えた。久賀くんに誘われたのなら、わたしはどこへだって着いていく所存なのだ(彼の言動についてわたしは基本的に支持する考えだから)。
「けど久賀くん、こんなのに興味あるの?」ぜんぜん久賀くんの趣味らしくはない。
「ああ」と、目を細めるようにして印刷されたちいさな活字を読んでいた久賀くん。にっこり微笑むと、なんでもなさそうにさらりと言った。
「恋人が出演するから。見に来ないかって言うんで、二枚もらった」
思わず、「じつはわたしのことからかって面白がってるんじゃないの?」って言いそうになった。




