4.
あまりに驚いてなんのリアクションを取れずにいたわたしに、笑って「軽蔑した?」と、久賀くんは言った。
わたしはさらにびっくりして聞き返した。「どうして?」
「最近すこしは同性愛者について理解されるようにはなってきたけど、まだまだ偏見とか差別とか多いから」
「うーん」
差別? 軽蔑?
わたしはただ驚いただけだったんだけどな。と、正直に言った。
「びっくりはしたけど、軽蔑はしなかった、と思うよ」
「めずらしいよ、そういうの」
「そうかしら」
「でも淋しくない?」とわたしはたずねた。「だって結婚とかできないし」
そこで、記念すべき第一回めの「チエさんはなんにもわかってないな」がでたのだった。
「結婚なんか、便宜上だけのものでしょう。書類とハンコと連帯保証人さえいればだれだって簡単にできる。たとえ愛がなかったとしても」
「ゲイはできないけどね」と、冗談めいて彼は言った。
「そうじゃない。そんな表面的なことじゃないんだよ、恋愛の本質は。お互いがお互いの心の深層でつながり合えれば、たとえ身分が違ったって種族が違ったって同性愛者だって、ほんとうの恋人になれる」
ふうん、となるべく普通をよそおってわたしは相槌を打ってみたけれど、ほんとうはとてもうらやましかった。そんな風に考えられる久賀くんが。
付き合いはじめた当初から、夫にわたしと結婚する意志がないことは明白だった。けれどわたしはぜったいにこのひとと結婚するつもりだった。出会ってものの一ヶ月で、わたしは彼に百パーセント溺れていて、彼なしでは呼吸ひとつもままならない状態にまで仕上げられていた。
彼にはたくさんのガールフレンドがいて、わたしはそれがじだんだを踏みたくなるほども気に入らなかった。どうにかして彼をわたしだけのものにしたかった。そして、わたしは嘘をついたのだった。わたしは彼を愛するあまり、つまらない嘘をついて強引に籍を入れさせたのだ。結婚さえしてしまえば、もうだれにも邪魔されなくなると、わたしだけの彼になると、本気で信じていたのだ。若気の至りだ。まったく。
「つらいと思ったことは?」と、わたしは気をとりなおして久賀くんに質問する。彼はすぐさま、きっぱりと「ないね」と言った。
「恋人とはもう付き合って三年になるけど、喧嘩ひとつしたことない。でも、ゲイだとカミングアウトしたことで、たくさんの友人を失ったかな」
「そっか」
すこししんみりとしてしまったので(わたしが)場を明るくしようと、「久賀くんはわたしのことが好きなのかと思ってた」と冗談めいて、わたしは言ってみた。
わたしのことばを聞いて、あまりの的はずれ加減にか、久賀くんは大笑いした。抱腹絶倒。両手でお腹を抱え、みごとな大笑いっぷりだった。声を高らかにあげてひとしきり笑い、まだ片手をお腹にあてたまま、ひいひい言いながら「大丈夫」と言った。
「大丈夫。ほんとうに、僕ぜんぜん、女のひとに興味はないから」
そっかあ。そうだよね。それが聞けてホッとしたよ――あはははと、笑ってわたしはごく軽いかんじで言ったけれど、じつはちょっぴりがっかりもしたのだった。
*
画面のなかでは、新しい家の庭でなぞの生き物×2(小トトロ、中トトロ)を発見したメイが憐れな彼らを追い回している。久賀くんが立ちあがった。スーツの上着はすでに脇に抱えられていて、いつでも帰れますのポーズだ。
「帰るの?」久賀くんの膝のうえでずっとおとなしくしていたヒロトが、途端に飼い主に裏切られた犬のような顔をした。「あ」うっかりしていたわたしも声をあげてしまう。
「仕事なの。今から」
「そうだったね。夕飯を準備しかけちゃった」また戻ってくる?
や、今日は予定があって。という久賀くんの返事に、ヒロトは泣き出す寸前だ(それは夕飯を一緒にしようがしまいが、いつもおなじことなのだけれど)。
「いやだ! まだ一緒にいるっ」
久賀くんはそんな駄々っ子ヒロトをいとおしそうな目でしばらくながめ、「また明日来てやるよ」と言って帰っていった。
予定、としか言わなかったがあの様子じゃおそらく恋人だな。ドアが閉まったあとですねてしまったヒロトをなだめながら、わたしは無意味に勘繰ってみたりする。
*
「お姉ちゃん家の味付けってさあ、いつもちょっと薄いんだよね」
「うるさいわね」
じゃあ食べにこなけりゃいいのに。
久賀くんが帰ったのと入れ違えるように、短大に通う妹がやってきた。わたしとはひとまわり近くも離れている彼女は、遊びかたや見た目こそ大人びてはきたものの、考えかたにしても味覚にしても、まだまだお子様だ。
「この味付けが『和』なの。和の心なの」
「てかさーあ、なんで和食なの? あたしが来るときは洋食か中華にしてっていっつも言ってんじゃん」
は、はあ?
「なんのアポもなしにとつぜんやってきたのはあんたじゃないの!」
「けどさ――そこは身内の勘っていうか。そういう第六感を働かせなよ」
やれやれと思った。だれかと話していて疲れると思ったのはほんとう久しぶりのことだ。もっとも若いころは、ずっとこの理不尽な妹と生活していたわけなので、学校や放課後会う友人たちと一緒にいるときに、彼女たちとならいくらたくさんの会話をしてもまったく疲れないという当たり前の事実に気づいたときには、愕然としたものだった。
「だんなさん、いつ帰ってくんの? あ、まだ連絡ないか」
「ホント、デリカシーのかけらもない」
若さゆえの無礼とも言えるのだろうか。彼女の語彙にはデリカシーの「デ」の字もないかもしれない。さらに非常識な彼女は、まったくなんでもなさそうに「もう別れちゃえばいいんじゃない?」とまで言った。さらりと。
「……。」わたしは呆れきって、ことばを失ってしまった。
「離婚しないの? まだ好きなの?」
「あのね、ミエ。世の中にはこんな諺があるのよ。『親しき仲にも礼儀あり』ってね」
「ホント姉ちゃんってカタいことばっか」
「わかってないな」と、ミエ。わたしがなにをわかっていないのだと言いたい。久賀くんに言われるぶんには一度も腹を立てたりすることなんてないのに。こんなに無礼なうえに非常識な妹にわかっていてわたしにわからないことがあるなら教えてほしいものである。ふつふつとわたしは思ったが、でも反論するのも面倒になって、黙っていた。
「姉妹だからこそ言ってんじゃん。帰ってこないんでしょ? だんなさん。結婚してる意味なくね?」
「『なくね?』とか言わないの。はしたない」
「でもさあ、ちゃんと生活費なんかは毎月くれてるんだもんね。こんな大きな家にも住めてるし」
「そんなに大きくはないよ。ハイツだし」
「お姉ちゃんってわりとちゃっかり者だよね」
「……。」
べつにお金のためだけに、このどうしようもない関係でいるわけではないが、それがこの愚かなるお子様に理解できるとも思えないのでなにも言わない。ただ、彼がもう二度と、わたしたちと一緒に生活するつもりがないのはわかっていた。単身赴任なんて、百パーセント彼の都合だ。東京の本社に異動が決まったとき、わたしたちを連れて行くことだってできたはずなのだ。なのに夫はわたしたちを置いて、単身上京することをえらんだ。赴任が決まったのは、ヒロトが生まれたその翌年。たった一歳の、まだ物心もつかない子どもから離れるなんてと、もちろんわたしは不満に思った。けれども彼の仕事なのだ。その仕事のおかげで、今日もわたしたちは生活することができる。わたしが口をはさむべきではない。




