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シャ・ノワール  作者:
3/12

3.




 *




 さきに誤解をといておこうと思うのだけど、わたしたちのあいだにはまったく「やましい」ものなどない。

 さきほどわたしは「心がざわついた」と言った。けれどもそれは、べつになにも「恋をした」というわけではない。

 人間、毎日生きていればなにかしら新しい側面に出会うわけなのだし、それに心を動かされることだって、決してありえないことではないだろう。

 あのことばを聞いたその瞬間、わたしは無条件に感動してしまったのだ。どういった関連性でそうなったのかはわからないけれど、しらず脳が心が勝手に働いたのだろう。そしてわたしは、彼の内部に潜むなにかと、わたしのなかにあるなにかが通じる部分を、ひそかに見つけたのだと思う。


 ――わたし、もしかするとこのひとと仲良くなれるかもしれない――瞬時にそう感じ取った。

 ただそれだけのこと。




 *




「あっ! また久賀きてるー!」


 三時のお迎えでまた橋のたもとへ行く。玄関のドアを開くなり、久賀くんの大きな革靴を見つけたヒロトが大きな声をあげた。それからあわてて投げ捨てるようにして両足におさまったちいさな靴をひとつずつ雑派に脱いでしまうと、どたばたと騒がしくリビングへと走っていった。「久賀ー!」

 ほどなくしてリビングにたどり着いたヒロトに、久賀くんは片手をすっとあげて微笑んだ。コロナの瓶はまだ左手に握られたままだ。興奮しきった子犬よろしく、久賀くんに飛びつくヒロト。ヒロトは久賀くんが大好きだ。久賀くんも子どもが大好きだ。

 ビールがこぼれてしまうと困るので、あわててわたしは瓶を受け取りに行く。ヒロトはひとたび抱き着きに行ってしまうと、まるでくっつき虫のように、しばらくはわたしがなにを言ったって離れようとはしない。

「将来有望だな」と久賀くんがにやりとして、わたしは複雑な気持ちで苦笑いするほかなかった。


 映画はちょうど終わったところだった。わたしは久賀くんがヒロトにと借りてきてくれた『トトロ』のDVDに交換しに行く。うちの家にはDVDプレイヤーがないので、プレイステーション2で観ている(「DVDが観れないなんて信じられない」と、出会ったころに久賀くんが勝手に置いていったものだ)。『トトロ』も「ヒロトが大好きだから」という理由で、じつに『グレムリン』とおなじ頻度で借りてきてくれる。


「借りて観るのがいいんだよ」


 以前、「そんなに頻繁に借りて観るんだったら、もうDVD購入しちゃえばいいのに」とわたしが言うと、久賀くんはまるで驚いたように目をまるくして言った。「ほんとうにチエさんはなにもわかってないんだね」と。

 彼はたびたび、「チエさんはなにもわかってない」と言った。そのことばをはじめて言われてしまったのは、いつのことだったか……そうだ、思い出した。


 DVDの読み込みが完了する。注意画面が終わり、オープニング曲が流れだした。それに合わせ、ヒロトが大まじめな顔をして合唱をはじめる。




 *




 はじめて久賀くんの笑顔を見たのは、置き薬をはじめて一週間くらい経ったころだった。


「のど飴です。うちの会社の新製品なんですけど、これも置いておいてもいいですか」と。それで再びわが家を訪れたのだった。

 とくに断る理由もなかったので(しかもこんなに早く再会できて嬉しかったし)、わたしはふたつ返事で了承した。「そうですか」と、彼はやっぱり表情をぴくりとも変えることなく、そっけなくそんな風に言って、わたしは内心首をひねりながら薬箱を取りにリビングに戻ったのだった。


 箱を抱えて戻ってきたとき、わたしはリビングのドアを開けっ放しで出てきてしまった。iPodをスピーカーにつないで音楽をながしていたのだけれど、けっこうな大音量だったため、玄関先にまでそれは届いていた。


「奥さん、こんな音楽が好みなんですか?」と箱を受け取りながら久賀くんは目をまるくして言った。以前より1、2トーンも明るい声だった。「ソニック・ユースじゃん!」

 わたしはとても驚いた。この青年は、感情を表にだすことができない人間だとばかり思っていたからだ。

 その日は音楽の話で一時間以上は盛り上がっていたと思う。無口で寡黙だと思っていた青年は、ひとたび興味の話題に触れると、枷がはずれてしまったかのように際限なくしゃべりつづけた。わたしは内心驚きながらも、よろこんで彼の話に耳をかたむけていた。だれかと世間話以外の話題で盛り上がったのは、もうずいぶん久しぶりだったのだ。

 その日を境に、久賀くんは毎日のように家に訪れるようになった。はじめは玄関先で三十分から一時間ほど会話を交わすくらいだったのだけど、そのうち「立ち話もなんだから」と彼を家にあげるようになった。ニルヴァーナのCDは、はじめて彼を部屋のなかに入れた日に持ってきてくれていたものだった(「じゃあさっそく聴いてみよう」と、そうなったわけだ)。


 あまりに頻繁にやってくるものだから、最初久賀くんはわたしに好意があるのかと思っていた。

 けれども、それはすぐにわたしの勘違いであることが判明した。


「こんな風に特定の女の人とたくさん会ったりしゃべったりするのって、僕はじめてだよ」

「えっ?」


 わたしはびっくりした。彼女ができたことがないのかと思ったのだ。「モテそうなのにね」。心底意外だった。こんなに爽やかでイケメンなのに。

「まあモテはするよ」とまったく面白くもなさそうに彼は言った。「ぜんぜん興味ないのに」


 ――興味ない?

 あら、意外と純情なのかしら? わたしの不思議そうな顔を見て、久賀くんは先読みしたように「恋人ならいるよ」と言った。にやりとして。


「やっぱりね」やっぱり。いないわけがない。

「彼氏だけどね」

「えっ?」


 えっ……!?

 わたしは驚きのあまり衝撃のあまり、しばらく口がきけなくなっていた。そのとき液晶画面には卵(さなぎ?)から孵化したグレムリンでいっぱいになっていたのをよく覚えている(はじめてこの映画を観た日でもあったのだ)。


 驚いた。爽やかイケメン・久賀くんは、なんとゲイだった。



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