2.
1日、1話ずつ投稿予定です。
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のんびりといつもの散歩コースをぐるりとまわって(しかし目的はあくまで買い物なのだけれど)、汗をかきかき家に戻ると十一時前だった。
ハンカチタオルで首すじと額の汗をぬぐい、薄手のパーカーのポケットを探る――あ、携帯がない。キッチンのテーブルのうえにふと目をやると、真っ白いボディーのそれがちょこんと載っているのが見えた。ため息をつく。わたしは携帯を携えて出かけるのを、いつも忘れてしまう。ほんとうにいつもいつも。あーあと思い、携帯を開く。『不在着信一件』の文字をみて、もう一度あーあとつぶやいた。
不在着信のアイコンを選択する。やっぱり『久賀くん』だった。留守伝言がのこっているみたいなので、聞いてみる。留守番電話サービスに接続します。機械的な女の人の声。まったく関係のないところだけど、わたしはいつもこの声を聞くたび、かんじの良い、四十がらみのからだつきが豊かな女性を思い浮かべる。彼女には歳上の夫がいて、三人の子どもたちの育児に追われている。長女は来年高校受験を控えている。末っ子の次男(小四)は最近宿題をしないので困っている……そんなことを考えている間に、メッセージが再生される。
――久賀です。
抑揚のない声。久賀くんの声だ。わたしは目を閉じる。
――次の営業まで時間があいたんだ。適当に映画借りて今からそっちに行く。
がちゃり。
「いまから……」部屋中をぐるりと見渡す。今日はまだ掃除機をかけていない。わたしは慌てて廊下のクローゼットに掃除機を取りに走る。
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「なに借りてきたの?」
「グレムリン」
「またグレムリン」
「久しぶりにギズモが見たかったんだ」
「久しぶり、ねえ」とわたしは言った。つい二週間前に観たばっかりなのに。
久賀くんを一言で言い表すのはとても難しい。変わったひと、だとしか言いようがない。突拍子はないし脈絡もない。そして気まぐれ。これはひどい。猫のようにその日気分で態度がころころ変わる……というほどでもないのだけれど、食べ物の好みが日ごところころ変わるのだ。以前この食材・味付けのものは食べたからと油断していると、「これは好きじゃない」などと言いだしたりする。困ったものだ。猫だってもうすこしマシだ。「こないだは食べたじゃない」と指摘しても、しれっと「そうだっけ」ととぼけるのだから。
突拍子はないし脈絡もない。猫以上に気まぐれで、それに自由だ。それらをミックスジュースのようにミキサーにかけ、味をととのえ、久賀くんはできている。ひとと合わせることが苦手で、言いたいことがあればなんでもはっきりと言ってしまう。取り繕わない。周りをぶんぶん振り回す。気を遣わない。けれど、不思議と嫌じゃない。不思議と憎めない。
不思議でユニークなひと。それが久賀くんなのだ。「変なひと」、それがいちばんぴったりかもしれない。「変なひと」。わたしには彼の思考回路をまったく掴むことができない。
「めずらしいね」まだ午前中よ。
「今日は午前の営業があと二件あったんだけど、どっちもキャンセルになったんだ」
「次の営業は四時からだよ」と言って、久賀くんがコロナのプルタブをはずす。「あと五時間もある。なのに家には帰れない」
そりゃあ、仕事中だもの。反論を咎めるのがこわくて、小さな声で言う。久賀くんはジロリと切れ長のうつくしい目でこちらを一瞥したものの、なにも言い返してはこない。
自分で供しておいてなんなのだが、ハタチをやっと過ぎたくらいの青年がこんな昼間から、ビールを飲みながら映画なんか観ていていいのだろうかと思う(これがわが家を訪れた久賀くんの、いつものスタイルである)。しかも映画のタイトルは『グレムリン』。ぜんぜん爽やかじゃない。
けれど、彼はなにをしていても絵になる。たとえビール片手にソファーにねっころがって一杯やっていたとしても、まだ太陽が東の空にある時間帯だったとしても、映画のタイトルが『グレムリン』だったとしても。
数秒久賀くんをながめてから、ソファーに寝そべる彼の足元に座る。これがわたしたちのいつもの「かたち」である。
彼はこの映画を月に二度は借りてくる。あの不気味なギズモが大好きなのだ。わたしは久賀くんのそういうところが、かわいらしくてとてもいいと思う。
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わたしの家に久賀くんがはじめて訪ねてきたのは、いまから四ヶ月くらいまえの話だ。
まだ冬だった。真冬のとくに寒い日で、わたしはカーディガンを二枚重ねにして羽織り、オイルヒーターをソファーの真横に置いてヒロトのズボンのゴムを替えているところだった。
チャイムの音がしたので玄関の扉を開けると、なんとも無愛想なスーツ姿の青年が、プラスチックでできた緑の箱を持って立っていた。
「置き薬屋です」と、彼はぶすりとして言った。「ただ置いておくだけでもいいんです」と。
「使わなくてもいいし、もし使ってしまったらニ、三ヶ月ごとに点検しに来ますから、そのときにお代金をいただきます」
変わったひとっぽいな。それが第一印象だった。どこか偏屈そうにも見えた。だって、すこしも表情を変えたりしないのだ。口の端をちょっとでも持ち上げることさえしない。こんなに無愛想な営業マンは正直見たことがなかった。
しかし外見はとても魅力的だった。まず背が高かった(一八一センチ)。目は綺麗だったし、髪の毛はみじかめにカットされていて(わたしは肩より長い髪の男性はあまり好みでない)、黒髪だった。清潔感があり、うつくしい顔だちをしていた。もし歯を見せてにっこり笑うことがあれば、半径三メートル以内にいた女の子たちはみんな、顔を真っ赤にしてシビレてしまうだろう。そんな容姿をしていた。
「お子さんいます? 男の子ですか。ちょっとした怪我のときでも消毒液や絆創膏なんかあれば結構役に立ちますし、熱とか腹痛とか、深夜にとつぜんなにがあるかわからないですから」
わたしは若い男の子になんか興味はなかったし(夫はわたしより十歳以上年上だ)、いままでの恋愛でも、外見に惹かれて恋に落ちたりすることなんてまずなかった。
にもかかわらず、わたしは彼を好意的に思った。こんなに愛想のない男の子をどうして営業にまわしたりしたんだろうと、彼の会社のほうにまで興味が沸いたくらいだった。
「置いてみようかしら」とわたしは言った。使う予定も意思もなかったけれど。つまりは、また彼に会いたかったのだ。
商談が成立したというのに、久賀くんの反応はあっさりしたものだった。「あ、そうですか」と。「ご主人さまの了承もなく勝手に決めてもよかったんですかね」とまで言った。
「いいわよ」とわたしはむっとして答えた。夫は長期の単身赴任中で、ここ二年ほどまったく帰ってこない。
彼は表情ひとつも動かさず、「じゃあ、ありがとうございます」と冷たく言って、鞄のなかから契約書を取り出した。「記入お願いしてもいいですか」
なんて営業マンだろう。まだ新卒の、一年目とかそんなそこらの社員なのだろう。おそらく長くは続くまい。そんなことを考えながらわたしがその用紙を受け取るあいだ、その数秒間こちらをじっと見つめていたと思えば、あたかもこれはお世辞ですよとでも言わんばかりに彼は言ったのだった。
「奥さん髪型かわいいですよね」
と。自分の頭を指しながら、まさに取って付けた風に。『ザ・お世辞』だった。
なのに、なぜだかよくわからないけれど、そのことばがやけにわたしの心をざわつかせたのだった。




