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シャ・ノワール  作者:
12/12

12.


「彼が単身赴任しちゃって、家にも寄り付かなくなって、連絡さえなくなって。そんなときに若くてすてきなひとがうまい具合に現れちゃって。やすやすと恋に落ちちゃう簡単な自分を認めるのが嫌だったのかもしれないわね。ばかみたいよ、そういうの。そんなのばかみたい。いかにも結婚してる女っぽくって」

「なによ。主婦にもロマンスのひとつやふたつあって、なにが悪いのよ」

「おばさんくさいじゃない」

「あんただってすでにおばさんよ」

「ち、ちがうわよ!」

「アラサーよ」

「時代は変わったのよ! いまの時代、三十五まではお姉さんなの!」そしてわたしはまだ三十二である。

「三十五なんてもうおばあちゃんだわよ」

「しっ、失礼なっ」


 わたしは思わず椅子から立ち上がって抗議した。母のこんなしょうもない攻撃をまともにくらってしまうなんて。わたしもそんな年齢なんだと実感してしまうと、いたく自分が老けたように思えだした。胸が痛い。思いのほかダメージを受けているわたしを見かねたのか、母は「冗談よ、冗談」と、ぺらっぺらのフォローをした。


「あんたはまだ若い。これからいくらだって道はあるわ」


「なによ、道って」、立ち上がってまで熱くなった自分がはずかしくなり、ちいさくなって腰を下ろしながらわたしはつぶやいた。マイペースな母はつづける。


「行ってきなさいよ、東京に」


「え」とわたしは顔を引きつらせて声をもらした。

「まさか、別れ話をしてこいって言うの?」殺生な。このおばさん、わたしの話の一体なにを聞いていたのだろう?


「ちがうわよ。別れ話とは言ってない。でも話をしないといけないわね。ちゃんと、会って話をするべきだわ」


 わたしは思いきりかぶりを振った。ぶんぶんと。「そんなこわいこと」。なにを目の当たりにするか、想像できたもんじゃない。


「それにそういうの、男のひとって絶対嫌がるじゃない」とわたしは弱々しく言った。

 だからこそわたしはこの二年もの間、堪えてきたのに。彼が帰ってこなくなって、わたしはストレスで一時、食欲不振に陥ったこともあった。それが原因でひどい胃炎を起こすこともたびたびあったし、いまでも定期的に睡眠薬を処方してもらっている。それでもいままで、苦しみながらもずっと堪えてきたのに。

 必死に我慢してきた。

 仕事なんだから。わたしのわがままで、彼を困らせるのは間違っていると。

 なのに、母は会いに行けという。会いに行くべきだと。だったら、いままでの苦悩はいったいなんだったのだろう。散々苦労して、ようやくいまの暮らしに慣れてきたというのに――それは間違いだったということなんだろうか。


「べつにいますぐにってわけじゃないし」、からっぽになったグラスを見つめながら黙りこくってしまったわたしに、母はため息まじりに言った。「それに、最後に決めるのはあんたよ。いくら周りにとやかく言われようが、これはあくまであんたの問題なんだから」

「わかんないわよ」とわたしは言った。そんなこと言われたって。

 母はもういちど深くため息をついた。そして、ぱんと膝を軽く叩くと、「よし」と言った。

「よし。それなら母さんがさっき言ったこと、忘れてくれたってかまわないわ」

「は?」

「さ、忘れなさい」


 母はさも簡単なことのようにさらりと言ってのけた。


「え、え、じゃあわたしはどうしたらいいの」と、わたしはうろたえる。

「それはあんたが考えなさい」と、母はきっぱり。


「そんなばかな」

「ばかなことなんかあるもんですか。これはあんたの問題でしょうが」

「……。」

「さて、母さん寝るわ」


「カフェインが眠気を覚ますなんてまったくの嘘ね」と言うと、マイペースな彼女はさっさと立ち上がり、リビングを出ていってしまった。

 必然的に、わたしはひとりぽつんとリビングに取りのこされるかたちになった。

 混乱していた。狼狽し、困惑していた。わたしがいままで正しいと思い進んできた一本の道に、母のことばであっさりと分岐点ができてしまった。

 どちらに進むのが正しいのだろう? いまのわたしにはわからなかった。

 けれど、と頭の片隅でわたしの一部がつぶやいた。

 けれど。いまの暮らしを続けていくなかで、このさきに劇的な変化が訪れるとは考えにくい。


 もう、待っていてもしかたがないのだ。


 深夜のリビングで、わたしはしずかに顔を覆った。ごうごうというエアコンの音だけが世界に充満していた。

 考えるんだ。とわたしは思った。泣いていたってしょうがない。もうわたしは若くない。母が言うように、じきにおばさんになるのだ。泣いて、指をくわえているだけしかできない時期は過ぎた。さあ、行動するんだ。いまがそのときだった。

 だけど、わたしは顔を覆ったまま動けずにいる。

 久賀くんを失って、わたしはいまから愛する夫、さらにいまの生活さえ失おうとしていた。


 わたしはひとりぼっちになろうとしている。

 そう思うと一ミリも動けなかった。

 エアコンのうなりの片隅で、わたしは震えていた。そしてしずかに絶望し、泣いていた。




 *




 わたしが絶望しているところで、世界はまわる。かならず明日はやってくるし、あさってだってやってくる。

 火曜日の午前八時半。ゴミを捨てるために家を出た。ハイツのゴミ置場までは、わたしたちの棟を出て中庭を横切り、駐車場を抜けたさきにある。管理人のおじいちゃんが物置につかっているちいさなプレハブが目印だ。

 週二回、可燃ゴミの日があるのだけれど、たかだか大人ひとりこどもひとりしかいないというのに、わが家は毎回ゴミがかさばる。なぜだろう。うんうんうなりながら、今日もわたしは無事ここの場所までぱんぱんになった四五リットルの袋ひとつを運び終えた。


 ふと、プレハブの脇にある茂みのしたに目をやると、ちいさな黒いかたまりが目に入った。

 黒猫だった。あ、とわたしは思った。いつかヒロトとトンデモ現場に遭遇してしまったときの、例の黒猫かもしれない。その節はどうも、と内心つぶやくと、わたしは口端で微笑みその場をあとにしようとした。

 と、黒猫のお腹あたりにもぞもぞするものが見えた。あれっ、とわたしは声をあげそうになった。

 子猫だ。

 いつか見たあの黒猫は、たしかオスだったような気がする。もう一匹のうえにかぶさっていたもの。とすれば、この黒猫は例の黒猫とは別人(別猫?)だということになる。


 わたしとその黒猫との距離は、だいたい一.五メートルほど。その距離を保つようにしてわたしは車道にはみ出して茂みの真ん前までそろそろと移動した。

 彼女はもちろん、変な動きをする不振な人間・わたしの存在にはとっくに気づいてはいたが、とにかく分が悪かった。授乳中だったのだから。逃げるにしても、こどもたちはまだまだ生まれて間もないくらいの大きさだ。

 シャア、と、母親猫は蛇のような声でわたしを威嚇した。わたしは一瞬怯んだものの、子猫たちの顔が一目見たかった。なので、これ以上彼女を刺激しないように配慮しながらも、しずかにその場にしゃがみ込んだ。車道、というのがすこし落ち着かないものの、この道にはほとんど車の通りはないから大丈夫だ。

 茂みの陰にいるのでよく見えないけれど、子猫は全部で三匹のようだ。三組のちっちゃな足に、ぴん、とか細い三本の尻尾(まるでネズミの尻尾みたいだ)がもぞもぞしている。ときどき、ぴい、とも、みい、ともつかないちいさな鳴き声が聞こえた。かわいいなあ、とわたしは顔をほころばせた。母親猫は、じっとわたしを睨みつづけていたけれど、これ以上距離もつめてこないわたしに、こいつは無害だと判断してくれたのか、ぷいっと目を逸らし、いとしくてたまらないと言った風に、かよわきものたちを見守っていた。


 八月になった。まだ朝もはやいというのに、日差しは痛いくらいに強く、そういえばまだ日焼け止めを塗ってないことに気づいたわたしは顔が青くなったけれど、ほのぼのとした雰囲気の彼女たちを見ていると、あわてて腰をあげるのにも気が引けた。

 美しい。とわたしは思った。命は美しい。そして、家族はもっと美しい。


「おまえはいいね」、とささやく声でわたしは母親猫に話しかけた。

「おまえはいいね。家族がいて」と。


「わたしはひとりぼっちになっちゃうよ」と言いかけて、やめた。

 違う。ひとりぼっちではないじゃないか。わたしにはヒロトがいるものね。ぐっと、喉元になにか熱いものが込み上げてきて、わたしはそれをあわてて飲み込んだ。ぐっと飲み込んだ。それからやさしく微笑んで、「いいね、家族って」と言った。


 ふと、猫を飼うのはどうだろうと思った。

 わたしもヒロトも、わたしの身内にも、たしか猫アレルギーの人間はいなかったはずだし、昔実家で猫を飼っていたこともあった。そうだ、どうぶつを飼おう。やっぱり猫がいいな。今日中にも実家に行ってゲージと猫用トイレなんかをいろいろともらってこよう。わたしの頭のなかでは、突如思い付いた『猫を飼おう計画』がむくむくとふくらみはじめていた。

 そうだ、とわたしはさらに思い付いた。「この子猫たちのなかから一匹貰っちゃうのはどうだろう」と。いや。さすがにまずいか。でも三匹もいるのだし、一匹ぐらいいいんじゃないか、と。

 わたしの不穏なたくらみにも気づかず、母親猫は百パーセントの愛情をもって息子と娘たちを見守っていた。野良だというのに、とても上品な猫だった。毛並みは定期的に風呂に入っている飼い猫のようにつやつやと光っていたし、仕草もおおらかで美しかった。

 まるで久賀くんみたいだ、とわたしは思った。品のある仕草、美しい毛並み。彼女はメス猫だったけれど、こないだのオスの黒猫よりも、むしろこちらの黒猫のほうが久賀くんっぽかった。なんとなく。


 よし、とわたしはつぶやいた。

 決めた。今日から君の名前は「久賀くん」だ。

『猫を飼おう』計画でいっぱいになった脳みその片隅で、もし東京に行くとすれば、猫を飼いだすまえに行かなくちゃな。と、半分無意識にわたしは考えている。






 シャ・ノワール/終




最後までお読みいただき、ありがとうございました!


【新連載のお知らせ】

近日、長編の新連載を開始します。ケータイ小説はじめての作品をリメイクしたものです。高校生のバンドの話。楽器はピアノしかしたことがない作者がギターがどうとか、やっていけるのか心配ですが、ぜひそちらもおたのしみいただければと思います!(お願いします!)




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