10.
手を繋いだまま思わず彼を見た。急激に指先が冷えはじめた。とつぜん後頭部を金づちで思いっきり叩かれたような、そんな気分だった。
「待って」とわたしは、なんとかそれだけ言った。一瞬で口内が渇いてからからになった。うまく舌がまわらない。
「え……っ、イギリス……?」
「うん。いまのバンド抜けるんだって。ロンドンに同業者の知り合いがいて、前々からこっちで一緒に音楽しないかって言われてたみたい。いいよね、UK。ロックの本場だ。彼はロックじゃないけどね」
久賀くんの言い方はとても淡々としていて、「聞いてないよ!」とわたしは狼狽しきって言った。
「今言ったでしょう」と久賀くんはしれっと言った。そのとおりではある。そのとおりではあるが。わたしははじめて久賀くんにたいして腹をたてる。
だがなんと言って怒ればいいのかわからず、
「けどそんなに遠くはないって言ったし」。だって、いちばん腹がたつのはなんといっても……わたしは「そんなこと」呼ばわりをして彼の大事な話を脱線させてしまった自分を激しく呪いたい気分だった。「それに、だって、仕事とか」
「辞めたよ」
「はっ……!?」わたしの勘ははからずとも当たってしまった。まッたくうれしくない。
「向こうでのことは心配しなけてもいいらしい。来てくれたら僕の仕事も工面するって言ってくれてるんだって」
わたしは繋がれた手をはなした。というか指先が冷えきってしまい、うまく力がはいらなくなってしまったのだ。あまりの脱力感。いまにもわたしは地面にへたり込みそうだった。
「なにそれ」とわたしは力なく言った。「わたしとヒロトはどうなるの」
久賀くんは黙っていた。
「言ったじゃない、久賀くん。さっき」
恋人とおんなじくらい、わたしとヒロトが大事だって。
「どうして? 海外なんてそんなとおいところ……もう会えないじゃない」
「会えるさ。いつでも。わりと近いよ。半日あれば行けるらしい」
「簡単に言わないでっ」
ぼろぼろと涙がこぼれる。久賀くんはかんたんに「片道十二時間しかかからない」なんて言うけれど、往復一日もかかるようなところに、「いつでも」会いに行けるはずもない。
納得いかなかった。途方もなく悔しくなってうつむいた。土のうえにぽたぽたと、大粒のしずくが落ちた。
どうして。
どうして。頭上で、久賀くんが困ったように笑った。「まいったな」と。
「本当に、まいった」
わたしは顔をあげた。泣いたまま。ぼろぼろ涙を流したままだ。久賀くんも、いまにも泣きだしそうな顔をしていた。それを見たとたん胸に刃物で切られたような痛みがはしり、さらに息がしづらくなった。
「ずっと思ってたんだ。チエさんとは……もっとはやくに出会いたかった」
いつもは余裕げにわたしを見下ろす目が揺れている。泣くまいとしているのだろうか。久賀くんは笑おうと、口の端を持ち上げてみせた。けれどそれは数秒しかもたなかった。いつもは凛々しくクールな唇。それはまたすぐにまた歪み、そして無言になった。
見ていられなくなってわたしは彼から目を逸らし、前を向いた。
列はずいぶんすすんでいたけれど、わたしたちがずっと喋って立ち止まったまま前に詰めていこうとしなかったので、どんどん抜かされてふたたび最後尾になっていた。わたしたちを追い越して行くひとたちの振り返り際の不思議そうな、そして冷たい目。「そんな目で見るな」とわたしはいちいち飛びかかりたいくらいだった。けれど、そんな気力もない。
「でもだめなんだ」と久賀くんがしずかに言った。わたしは黙っていた。
「彼に、出会ってしまった」
「それは僕が生まれたときからすでにそうなるように仕組まれていたことなんだと思う。僕、運命を信じてしまうタチだから。チエさんと僕は、恋をしたらきっとうまくいくよ。そんな気がするんだよね。結婚して、チエさんのために真面目になって働くよ。愛想よくなろうと努力もするだろう。子供もつくる。最低でもあと三人はほしいな。女と男がふたりずつってのがいちばん理想なんだ」
だけど、と言ったあと、久賀くんはすこしことばに詰まった。短い沈黙が流れる。
「だけど、だめなんだ。だめなんだよ。彼と出会ってしまった。僕は思う。これは宿命なんだって。それにさ、ほんとうは順序とかそういうのって、あんまり関係ないんだ。おそらくね。もしもチエさんとの出会いが先だったとしても、僕はきっと彼をえらぶような気がする。宿命なんだよ。そういった星まわりに、僕らは生まれてしまったから」
わたしはやっぱり黙っていた。いつの間にか、もう涙は出なくなっていた。あきらめたのだと思う。
あきらめたのだと思う。理解したのだ。彼の言う意味を。
とても悲しいことだ。わたしも、久賀くんと三人、絶対いい家族になるだろうと思う。久賀くんはいいパパになる。平日は毎日ヒロトをお風呂に入れてもらうのだ。そして週末は、家族三人で仲良くお風呂に入ろう。晴れた日曜日には、お弁当を持って広い公園へ行こう。もちろんビールもたくさん持参しよう。久賀くんとヒロトはキャッチボールやサッカー、テニスなどをする。わたしはシートに座って、それをにこにこしながら見ているのだ。わたしたち三人、きっといろんなところに出掛けるだろう。わたしもヒロトも久賀くんも、アウトドアが大好きだから。あたたく親密な風の吹く春のなかを、今日みたいな強い日差しがたっぷりと注ぐ夏のなかを、気温がすこしずつ落ち着きはじめ、赤や黄色に彩られた秋のなかを、きびしい寒さに美しくしずまりかえった冬のなかを……。
とても悲しいことだ。
「いい加減ビール買おうよ」と冗談めいて久賀くんは笑ったけれど、わたしは無言でかすかに頷いただけだった。
*
メインステージでは、トリのアクトが演奏している。すっかり疲れきっているわたしは、もうステージ前の荒れ狂う人波のなかに突っ込んでいくような体力なんて当然なかった。いっぽうの若い久賀くんは、かわいそうな年寄り(わたし)など放置して、ひとりでその荒波のなかに踊りに行ってしまった。今回のイベントのなかでいちばん期待していたアーティストだったとか。
街からはバスで30分、離れ小島みたいな土地なので、辺りに灯かりらしい灯かりはない。そのため、ステージは異様にぎらぎらと眩しく輝いていて、ぼんやりしていると、自分がいったいいまどこにいるのかわからなくなってしまいそうだった。
ぼんやり。昼間の汗一滴までのこらず搾り取られそうな暑さはどこへやら、いまはちょっとびっくりするくらいの寒さだった。紫外線対策にと、パーカを羽織ってきてほんとうに大正解だったな、とわたしは思った。
と、大群集のなかからこちらに向かって駆けてくる人影が見えた。
久賀くんだった。
よほど大急ぎで走ってきたようで、シートの隣に座ったとき、彼は肩で激しく息をしていた。驚くことに。
「どうしたの」とわたしは目をまるくしてたずねた。
彼はぬるまったコロナをがぶがぶと飲み、一息つく間もなく答えた。「花火」と。
「毎年、トリが終わると、花火、あがるんだ」
全速力にちかい速さで駆けてきて、そして息つぎもせずにビールをがぶ飲みしたものだから、彼のことばはとぎれとぎれになっている。わたしは思わず吹きだしてしまった。「そんなにあわてなくても」
「でもホント、超きれいだから」
「だってまだライブも終わってないのに」
「もう終わるよ」
久賀くんがそう言うよりもはやく、ステージ上から『つぎが最後の曲』ということばが聞こえてきた。すごい。




