14-9
メーアは、これ以上なく狼狽していた。
目の前では、主と宝石眼が己の所為で火花を散らしている。
まるで物語の主人公のような状況に、彼女は全く悦べなかった。
一方は、怒髪天を突く顔色をし、もう一方は、不敵に笑んでいる。
双方の高貴な地位を考慮すれば、これほど恐ろしい事態はない。
でも、今回は主に分が悪い。
(だって、サファイアの宝石眼様は、私をお守りくださっただけなのに……)
サファイアは先手を打った。
「まぁ、シュタオエン侯爵様。ごきげんよう。先ほど会場で踊った方と同一人物とは思えないその慌てよう。驚きましたわ」
面白がるような笑いに、彼は相手が宝石眼であることを忘却して、睨みつける。
完全に我を忘れた、ただの男。
(こんなに熱い方だったのね)
サファイアは客観的に彼を分析していた。
この状況で危機感がない、と誰かに咎められそうだが、彼はサファイアに暴力は振るわない。
そう、確信していた。
(だって、こんなに大切な女性がいるんだもの)
「――彼女をなぜ啼かせた?」
彼の怒りを抑えつけたその声に、今度こそ恩人を守るために彼女は前へ出た。
「お止め下さい、アインザー様!」
「「!?」」
二人が、突然の彼女の行動に面食らった。
守られていた女性が二人の間に。
サファイアの盾となったからだ――。
広げた手、その指先が震えていた。
アインザーは、理解できなかった。
今まで一度だって、彼女に自分の行動を否定されたことはなかった。
あの事故が起きた日でさえ――。
なのに。
アインザーは、目の前にいる宝石眼を恐ろしげに見つめた。
彼女が、変えた?
なにをした?
「メーア……」
「申し訳ございません!――違うのです。サファイアの宝石眼様は、私をお助け下さったのです」
「――えっ?」
アインザーは、ますます混乱してしまった。
しかし、己の怒りが見当違いだったことだけは、瞬間的に察知した。
それ以上、なにも告げ口しない彼女の崇高な行動に、代わりにサファイアが管理者である彼へ忠告する。
「シュタオエン侯爵様。失礼を承知で申し上げますが、ご自分の屋敷で働く者は一からきちんと再教育することをお勧め致しますわ。――そうすれば、彼女のような優秀な方が、憂き目に遭うこともないでしょうから」
「――!」
侯爵は息を呑んだ。
総てに合点がいった。
また、彼女を守ったのは己ではない別の人間。
下を向き、唇を噛み締めた。
しかも、相手はつい先刻、己が蔑ろにした女性。
重ね重ね、圧倒的に己の敗北を痛感した。
『敗者は、勝者に道を譲らねばならない』
己の父親の詞が蘇る。
どうして、そんなにあっさり引き下がれるんだ、とあの時尊敬する父を訝しんだ自分を。
今、心の底から殴りつけたい。
親子で同じ女性に敗北してしまった。
いや、両親の方が潔い分、己は地を這う蚯蚓ぐらいに踏みつぶされた気分だ。
ただ、一言告げた。
「――その者たちの顔を覚えているでしょうか?」
「……三人とも、清掃侍女の格好をされておりました。年も彼女より若く、新人のように見えました。あちらへ去って行かれましたので、その塔側の担当だと思います」
そこで、一旦詞を区切った。
サファイアは、一度彼女を窺った。
メーアは、静かに頷いた。
「――彼女なら、名前もわかるのでしょうが、罰は彼女自身が望む形で、すでに与えました。私たちの望みは、犯人の少女たちがこの屋敷で再教育され、彼女のような立派な侍女に成長することです」
サファイアは、言い終えた瞬間の侯爵の顔を観察した。
その顔は、苦虫を潰したような、遺恨を残した表情だった。
(一体、どんな罰を与えるつもりだったのかしら?)
そこは、恐ろしくて問い掛けられないが。
「……ただ、もう一度同じ過ちを繰り返すようなら、対応はそちらで変えて下さい」
――彼女たちにも、そう言ってあります。
サファイアの助言に、侯爵がハッとこちらを見た。
「もちろん、教育が行き届いたクヴェレ公爵家では、そんな心配は杞憂だと存じておりますが」
サファイアの詞に侯爵は、一度息を吐いてから彼女の眼の前で片膝を着いた。
そして、恭しくその右手を取った。
「――総て、承知致しました。このアインザー・ムカイト・シュタオエン侯爵の名に懸けて、サファイアの宝石眼に誓いを」
そう告げて、静かに口づけを施す彼を不思議な面持ちでサファイアは見つめた。
なにもかもが、先ほどの会場とは逆の扱い。
(これは、少しは私の存在を認めてくれたってことかしら?)
サファイアが、なぜ彼にこんな強気な態度が取れるのか。
だって、あの時――。
『悔しい』と思った。
彼に突き放された瞬間、そう思った。
それは、当然でしょう?
女性なら、異性からあんな態度を取られたら、負の感情を抱くものよ、と。
でも、違う。
サファイアが、人から負の感情を抱かれること。
それが、『日常』だった。
それに、いちいち感情を揺り動かしていたらきりがない。
だから、あの時、はっきり悔しさを滲ませた己に驚き。
喜んだ――。
だって、それは私が、確かに変わっている証だもの。
己を卑下しない己が生まれ始めている。
宝石眼として、人から向けられる感情は数えきれないけれど。
それを受け止められる人間になりたい。
それを強く意識できたのだ。
『黒目の忌まわしき娘』と呼ばれ続けた日々。
それを乗り越えようとしている。
あの時、それを噛み締めていた。
(本当はね、侯爵。私は、あなたに感謝しているの)
だから、あなたに認めてもらいたいと強く願う。
そのためには後ろにいるのでは駄目。
横に並ばなければいけないんでしょう?
(だから、私は、あなたにだけは絶対遠慮しない!)
侯爵はスッと立ち上がり、もう一度礼をして彼女たちが逃げた方向へ去っていた。
敗者として、なにも口にせず。
また、二人になった。
メーアは、今度こそお礼を告げなければ、と思案していた。
こんなに遅れては、逆に申し訳ないが。
「あ、あの、ありがとうございました!サファイアの宝石眼様に多大なご迷惑をおかけしましたこと――」
そこまで、言い切った瞬間。
彼女が声を上げた。
「あっ!」
ビクッーー。
彼女は震えた。
なにか気に障ることをしてしまったのかもしれない。
彼女は大きく振り向いた。
「――あの、実は聞きたいことがあるんです……」
サファイアは、一転して深刻な表情で彼女に訊ねた。
(来た――)
メーアは確信した。
自分に訊ねたいこと。
そんなの決まっている。
それは、己の隻眼についてだろう。
どうして、そうなったのか。
人なら、誰だって関心を抱く。
(どうしよう……でも、この方に隠し事はできない。――したくない!)
メーアは、決心して顔を上げた。
しっかり、その黒曜石に蒼き波が漂う瞳と視線を外さずに。
「――はい、なんでございましょうか?」
それに対し、サファイアは、今一番訊きたいことを述べた。
「この場所って私、入っても大丈夫でした!?」
「……」
「……」
「……えっ?」
「や、やっぱり駄目だったんですね!?どうしよう、怒られちゃう!」
メーアの沈黙を別の意味で捉えた彼女は一人慌てふためいていた。
メーアは、はっきり脱力する己を自覚した。
「あ、あの……」
「はい?」
「私にお訊ねしたいこととは、それだけでしょうか?」
「?……そうですけど?」
サファイアの宝石眼が首を傾げる。
その姿に偽りはなくて。
だから、余計に力が抜けた。
なにを自意識過剰になっていたのだろう。
この方には。
国の宝と呼ばれる宝石眼にとって、こんな俗物的な欲求はないのだろう。
自分との違いをまた、痛感した。
そんなことを思うことすら、思い上がりなのかもしれない。
しかし、その存在が囁いた。
「――訊かないですよ」
その詞に驚愕し視線を上げた。
また、慈愛の表情を目の当たりにしてしまった。
自分だけが、こんな贅沢な体験をして良いのだろうか。
神にも嫉妬されそうな、この幸運。
彼女は、静かに告げる。
「あなたの瞳について、私は知りたいという欲求を持っています。でも、それは私の事情であなたの事情とは異なる」
――そうでしょう?、と訊かれた。
メーアは、ただ頭を下げて肯定するしかなかった。
「じゃあ、この話はおしまい。私、もう戻らなくちゃ。本当に怒られちゃうから」
彼女は苦笑する。
その姿にメーアは唇を噛み締めた。
優先された。
この私が。
国の宝から。
だから、ただ啼くことを我慢するしかできない。
それだけが、今の彼女の精一杯だった。
「お気を付けて、いってらっしゃいませ」
「ありがとう」
それだけ言って、サファイアの宝石眼は去って行った。
その後ろ姿を、ただ見つめ続けた。
神がなぜ、宝石眼を愛し贔屓するのか。
そんなの簡単だわ。
だって、こんなに宝石眼以外の人間にも幸福を齎すんだもの。
神の手が届かない、こんな小さな不幸を彼女は摘み取らず、見つけ出してくれた。
神は宝石眼を愛することで、総ての民を愛そうとしてくれているのだと、今確信した。
彼女が見えなくなった瞬間、その場に蹲り、啼いた。
今だけ、思いっきり啼こう。
そして、仕事へ戻ろう。
涙が零れるのは片側のみ。
だから、他の人の二倍啼かせてもらえるのだから。
その幸福に感謝して――。
ひたすら走った。
こんなに遠くまで来ていたとは。
サファイアは、その豪華な礼装がここまで己の枷になっていたことを嘆いた。
(どうしよう、どうしよう。もし、会場からこんなに離れてたのが、タッキーにバレたら、私、間違いなく殺される!)
先ほどの優雅さはどこへやら。
誰だって、上司には頭が上がらない。
所詮、タッキーにとって自分は下っ端。
この状況はかなり不味い。
ザワザワ――。
会場のざわつきが聞こえてきた。
(やった!会場の音が聞こえてきたわ。無事に戻って来れた!)
そんな、難易度の低い目標の達成に浮かれたサファイアは、角から出てくる人影に気付かなかった。
ドンッ!!
「キャッ!」
「おっと……」
慌ててしまい、礼装の裾を踏んでしまったサファイアは冷たい地面に倒れかけるも、誰かに受け止められた。
サファイアは顔を上げる。
そこには、執事の格好をした壮齢の男性がいた。
どうやら、彼とぶつかってしまったらしい。
「あっ、も、申し訳ありません……」
「いえいえ、御怪我はございませんか?」
執事は、動揺した様子を見せずに、サファイアを気遣った。
その振る舞いからみるに執事のなかでも位の高い、上級使用人だろう。
(恥ずかしい……)
サファイアは再度謝罪した。
「申し訳ありません、もう大丈夫です」
「それは良かったです、お急ぎですか?」
「えっ?えぇ、連れを待たせておりますの」
サファイアは、会場をちらちら窺いながら、呟く。
それに執事は微笑む。
「――お連れ様なら、先ほど上の階へ移動されましたよ」
「えっ?」
「お嬢様の愛玩動物様と侍女殿もご一緒でしたよ。一度部屋に戻って、あなた様をお探しになるとおっしゃっていましたよ」
「――っ!」
その詞に愕然した。
すでに捜索願は出された後だったようだ。
サファイアは冷や汗が止めどなく流れ出てきたのを感じた。
「そ、そうでしたか。ご親切にありがとうございます。そちらへ向かってみますわ」
あくまで淑女として最低限の余裕を持ち、サファイアは踵を返そうとした。
それを執事が止める。
「よろしければ、お嬢様。こちらをお持ちください。――きっと喜ばれるでしょうから」
執事は、どこに隠し持っていたのか葡萄酒の瓶を一本取り出した。
それは、正しく『ユヴェール・アクアマリン』だった。
「えっ?」
「この年寄りのせいで、御召し物を汚した罪滅ぼしとお思い、どうぞお納めください」
「そんな……、こんな高価な物受け取れませんわ」
サファイアは遠慮した。
自分は飲まなかったが、嬉し涙を流しながら飲酒する人間を何人か見た。
きっと、信じられないほど法外な価格の代物であることだけはわかっていたから。
しかし、執事は引き下がらなかった。
「――きっと、喜ばれますよ」
「えっ?」
二度目のその詞は、聞き取りづらいほど小さかった。
しかし、なぜかサファイアの心臓を射抜くほど、真っ直ぐに聞き取れた。
そして、気づいた時にはそれを受け取る己がいた。
「あ、ありがたく頂戴いたします」
サファイアは、ただそれを抱きしめていた。
執事は、それに満足して優美な礼をして去っていた。
サファイアは、虚を突かれたが、タッキーたちが待つ客室へ戻って行った。
あれ?
でも、これ誰に喜ばれるんだろう?
それ以前に、彼女をサファイアの宝石眼と理解したうえで、その変わらぬ執事の態度。
そのことを不審がれない。
そこが、サファイアの良いところであり、悪いところでもある。
長所と短所は紙一重。
走り去るサファイアを見ながら、誰かが楽しげに呟く。
それを聴く者は誰もいない。




