14-7
白亜の廊下。
闇に溶け込むと、それは一層幻想的となる。
熱気を覚ますのにうってつけな光景。
これが、一個人の所有物なのだから驚きだ。
生まれの違いを嘆こうなどとは思わないが、どうして、人間はこうも格差を好むのだろうか。
はたはた、疑問である。
少しの肌寒さに息を吐きながら、歩く。
目的もなく、進んでいたつもりだった――。
シャーー――。
不意に、どこからか水音が聞こえる。
サファイアは、まるで誘われるかのように、音の鳴る方へ向かった。
「わぁーー」
思わず声が漏れた。
壮大な噴水が、そこに出現した。
天然の大理石を贅沢に使用している、その見事な建造物に感嘆する。
中央に女神のような女性の像が瓶を持ち上げ、そこから、止めどなく清らかな水が流れ出ている。
「もしかして、あなたがアクアマリンの宝石眼様ですか?」
サファイアは、そんな気がした。
こんなに愛に満ち満ちた幸福な表情は、実際に実物を拝見しなければ彫刻できない。
天上の女神を想像して、創造できる代物とは思えなかった。
周辺の草木も均一に刈り込まれており、噴水を覆い隠すものは一切ない。
サファイアは、おずおずと恐れ多く感じながらも、噴水へ近づいた。
透明なその飛沫が僅かに彼女の頬を掠める。
その水のなんと潤いに満ちたこと。
まるで、雫一滴に至るまで生気が宿っているかのよう。
(飲んだら、怒られるかしら)
思わず周りを見回した。
頭では悪いことと理解していても、もう二度と、その甘露は味わえない可能性が高い。
ちょっとの後ろめたさにはこの際眼を瞑って。
サファイアは両の手を静やかに聖水に浸した。
冷たいのに温かみがある。
その正反対の感想を抱きながら、彼女はそれを厳かに掬い上げた。
収まり切らない水が、また噴水に還っていく。
多すぎると、必ずその手に余る。
それを見事に体現している。
コクン――。
喉を通り、嚥下する音が響いた。
ピシッ――!
「!」
何かが鳴った。
それは、こことは別の場所からではない。
己の内側から。
私の身になった水がなにかを告げた。
頭がクラクラする。
瑞々しい、美味しい、もっと――。
多くを望むと、何事も過ぎてしまう。
それを受け止められるだけの器がないのなら、分を弁えろ。
それが、道から外れない術だ。
二度、教えられた。
それは、急だった――。
遠くで衝撃音が聞こえた。
震えを感じた。
それは、衝撃音に慄いたからではない。
確かにそれは遠くで微かに聞こえた程度だったのに。
『誰かが突き飛ばされた音』だと直感した己に。
どうして、私にそんなことがわかる?
それでも、彼女は迷わなかった。
音の鳴る方へ行くのは人間の本能でしょう?
それに従うまでよ。
廊下を更に突き進む。
ここがすでに客人に解放されている区域かもわからない。
それを全く気にしない自分がいた。
その自分を信じたかった。
今、進むことが正しいと感じる宝石眼としての自覚を。
思っていたよりずっと長く走った。
これほど、遠かったとは。
ますます、なぜ自分が気づけたのかわからない。
(あの水を飲んだから?)
そんな、魔法みたいな水があんなに湧き出でていたら大変だ。
それは、ないだろうと思うのに。
その可能性を捨てきれない自分がいるのも、また確かだ。
眼の前に見えた何度目かの角を曲がろうとした瞬間。
複数の嗤い声が不快音のように聞かれた。
彼女は思わず隠れ、その先を覗いた。
その瞳が見開いた。
一人の侍女が無様に地面に倒れており、ゆっくり起き上がるところだった。
それを数人の侍女が取り囲んでいた。
誰も、手を貸そうとはしない。
(本当に、突き飛ばされた音だったんだ……)
この場で冷静になること。
それこそ、今は若干場違いな気もするが、彼女はそのことの方に狼狽した。
ここまで来れば、彼女らの会話という名の虐めの中傷がよく聞き取れた。
「また転んだんですか、先輩?」
「本当にどんくさいですね」
「でも、仕方ないですよねー、だって先輩――」
数人の侍女の厭な会話が一気に捲し立てられている。
倒れている侍女は、そんな彼女たちと視線も合わせようとしなかった。
(嘘!あの子たち、自分の先輩を虐めているの!?)
それに、二重に驚いた。
目上の人間を陥れる。
そんなこと、考えもしなかった。
(仲間同士のいざこざだとばかり……)
サファイアは気が動転していた。
しかし、この次の詞を聴いた瞬間、迷いが断ち切られた。
いや、引きちぎれたという言い方が正しいかもしれない。
「その目じゃ、なんにもできないですもんねーー」
侍女が、また一斉に嗤う。
その時、垣間見えた。
己への中傷に一切無言を突き通した彼女が、震えながら握り拳を作っていたことに。
そして――。
彼女の左目に、眼帯が装着されていたことに。
〝隻眼〟だったことに――。
サファイアの押してはいけない憤り。
それに、彼女たちは触れた。
『瞳を貶す』こと――。
サファイアの漆黒の蒼が燃える。
タッキーがここにいたら、きっと言うだろう。
「ご愁傷様だな」
態と、大きく靴の音を響かせた。
それに、彼女たちがハッとする。
「なんだか、不快極まりない声が聞こえたので思わず覗いてしまいましたわ。――これは一体、どういう状況なのかしら?」
今日一番、彼女が淑女に見えた瞬間だった。
やはり、地獄の訓練は思わぬ出来事にこそ重宝するのだ。
その瞳を持つ女性が誰か、わからないはずもない。
彼女たちだって、この国の民であるのだから。
天からの使者。
いや――。
地獄からの堕天使なのかもしれない。




