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ブラックサファイア  作者: 早紀
84/227

14-7


 白亜の廊下。


 闇に溶け込むと、それは一層幻想的となる。


 熱気を覚ますのにうってつけな光景。


 これが、一個人の所有物なのだから驚きだ。


 生まれの違いを嘆こうなどとは思わないが、どうして、人間はこうも格差を好むのだろうか。


 はたはた、疑問である。


 少しの肌寒さに息を吐きながら、歩く。


 目的もなく、進んでいたつもりだった――。




 シャーー――。




 不意に、どこからか水音が聞こえる。


 サファイアは、まるで誘われるかのように、音の鳴る方へ向かった。




「わぁーー」


 思わず声が漏れた。




 壮大な噴水が、そこに出現した。


 天然の大理石を贅沢に使用している、その見事な建造物に感嘆する。


 中央に女神のような女性の像が瓶を持ち上げ、そこから、止めどなく清らかな水が流れ出ている。


「もしかして、あなたがアクアマリンの宝石眼(ユヴェールアオゲ)様ですか?」


 サファイアは、そんな気がした。


 こんなに愛に満ち満ちた幸福な表情は、実際に実物を拝見しなければ彫刻できない。


 天上の女神を想像して、創造できる代物とは思えなかった。




 周辺の草木も均一に刈り込まれており、噴水を覆い隠すものは一切ない。


 サファイアは、おずおずと恐れ多く感じながらも、噴水へ近づいた。


 透明なその飛沫(しぶき)が僅かに彼女の頬を掠める。


 その水のなんと潤いに満ちたこと。


 まるで、雫一滴に至るまで生気が宿っているかのよう。




(飲んだら、怒られるかしら)


 思わず周りを見回した。


 頭では悪いことと理解していても、もう二度と、その甘露は味わえない可能性が高い。


 ちょっとの後ろめたさにはこの際眼を瞑って。


 


 サファイアは両の手を静やかに聖水に浸した。


 冷たいのに温かみがある。


 その正反対の感想を抱きながら、彼女はそれを厳かに掬い上げた。


 収まり切らない水が、また噴水に還っていく。




 多すぎると、必ずその手に余る。


 それを見事に体現している。


 


 コクン――。


 喉を通り、嚥下(えんげ)する音が響いた。




 ピシッ――!


「!」


 何かが鳴った。


 それは、こことは別の場所からではない。


 己の内側から。


 私の身になった水がなにかを告げた。


 頭がクラクラする。


 瑞々しい、美味しい、もっと――。




 多くを望むと、何事も過ぎてしまう。


 それを受け止められるだけの器がないのなら、分を弁えろ。


 それが、道から外れない(すべ)だ。


 二度、教えられた。




 それは、急だった――。




 遠くで衝撃音が聞こえた。


 震えを感じた。


 それは、衝撃音に慄いたからではない。


 確かにそれは遠くで微かに聞こえた程度だったのに。


 


 『誰かが突き飛ばされた音』だと直感した己に。


 どうして、私にそんなことがわかる?


 


 それでも、彼女は迷わなかった。


 音の鳴る方へ行くのは人間の本能でしょう?


 それに従うまでよ。




 廊下を更に突き進む。


 ここがすでに客人に解放されている区域かもわからない。


 それを全く気にしない自分がいた。


 その自分を信じたかった。


 今、進むことが正しいと感じる宝石眼(ユヴェールアオゲ)としての自覚を。




 思っていたよりずっと長く走った。


 これほど、遠かったとは。


 ますます、なぜ自分が気づけたのかわからない。


(あの水を飲んだから?)


 そんな、魔法みたいな水があんなに湧き出でていたら大変だ。


 それは、ないだろうと思うのに。


 その可能性を捨てきれない自分がいるのも、また確かだ。




 眼の前に見えた何度目かの角を曲がろうとした瞬間。


 複数の嗤い声が不快音のように聞かれた。


 彼女は思わず隠れ、その先を覗いた。




 その瞳が見開いた。


 一人の侍女(メイド)が無様に地面に倒れており、ゆっくり起き上がるところだった。


 それを数人の侍女(メイド)が取り囲んでいた。


 誰も、手を貸そうとはしない。




(本当に、突き飛ばされた音だったんだ……)


 この場で冷静になること。


 それこそ、今は若干場違いな気もするが、彼女はそのことの方に狼狽した。


 ここまで来れば、彼女らの会話という名の虐めの中傷がよく聞き取れた。




「また転んだんですか、先輩?」


「本当にどんくさいですね」


「でも、仕方ないですよねー、だって先輩――」


 数人の侍女(メイド)の厭な会話が一気に捲し立てられている。


 倒れている侍女(メイド)は、そんな彼女たちと視線も合わせようとしなかった。




(嘘!あの子たち、自分の先輩を虐めているの!?)


 それに、二重に驚いた。


 目上の人間を陥れる。


 そんなこと、考えもしなかった。


(仲間同士のいざこざだとばかり……)




 サファイアは気が動転していた。


 


 しかし、この次の詞を聴いた瞬間、迷いが断ち切られた。


 いや、引きちぎれたという言い方が正しいかもしれない。




「その目じゃ、なんにもできないですもんねーー」


 侍女(メイド)が、また一斉に嗤う。




 その時、垣間見えた。


 己への中傷に一切無言を突き通した彼女が、震えながら握り拳を作っていたことに。




 そして――。


 彼女の左目に、眼帯が装着されていたことに。




 〝隻眼〟だったことに――。


 


 サファイアの押してはいけない憤り。


 それに、彼女たちは触れた。


 『瞳を貶す』こと――。




 サファイアの漆黒の蒼が燃える。


 タッキーがここにいたら、きっと言うだろう。




「ご愁傷様だな」


 


 態と、大きく靴の音を響かせた。


 それに、彼女たちがハッとする。




「なんだか、不快極まりない声が聞こえたので思わず覗いてしまいましたわ。――これは一体、どういう状況なのかしら?」


 今日一番、彼女が淑女に見えた瞬間だった。


 やはり、地獄の訓練は思わぬ出来事(ハプニング)にこそ重宝するのだ。



 その瞳を持つ女性が誰か、わからないはずもない。


 彼女たちだって、この国の民であるのだから。




 天からの使者。


 いや――。


 地獄からの堕天使なのかもしれない。


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