3-2
それだけを、望んでここまで来たのに――。
「……去れ」
「……え?」
呟かれた、その詞は今の彼女にはあまりに残酷で。
訊き返すことしかできなかった。
「去れ」
「ま、待ってください!去れって……それどういうことですか?」
サファイアは焦って幾分大きく声を出した。
「……去れ」
「ま、まさか。私の望みは叶えられないってことですか?」
「……」
沈黙は肯定と同じ。
「ど、どうして!呪師はどんな望みでも叶えられるんじゃないんですか?」
「……去れ」
「私は、叶えられない理由を訊いてるの!」
「……去れ」
何度も無慈悲に告げられた、その詞を耳にした瞬間糸が切れた。
「いい加減にして!」
「――!」
サファイアは、憤りのあまりマントの人型に突進し外套の袖を引っ張っていた。
二人はそのままバランスを崩して地面に転倒した。
「痛たた。――ご、ごめんなさい、呪師……さま?」
サファイアは目の前の光景が信じられなかった。
不気味な漆黒のマントの内側には人型は存在していなかった。
(というより、これは……)
「た、たぬき……?」
「たぬきではない!俺は高貴なレッサーパンダだ!」
その動物が心底厭がって声を荒げた。
「レッサー?でも見た目はたぬきっぽいし……」
「なんだと、小娘!この私の優美な尾を視るがいい!この淡褐色の帯模様を!こんな味わい深い色の帯模様はあのずんぐりむっくりには存在しない!」
そう言って、目の前に突き出された尾を見せられても、サファイアは首を傾げ続けるしかなった。
「それ、尾だったの?ずいぶん太いんですね」
「なにを言う!これが標準だ!」
そうだろうか。
昔一度だけ家族で訪れた動物園で観たレッサーパンダの尾はもっと細かったような……。
そこで、やっと思考が追いついてきた。
「キ……」
「?」
「キャーーーー!た、たぬきが喋ってる!」
「だからたぬきではなくレッサーパンダだ!というか、気づくのが遅すぎだ!」
今更な会話をして、やっと一呼吸置けた。
「ど、どうして……呪師さまはどこ?」
「……」
目の前の動物は、ばつが悪そうな顔をして沈黙した。
いや、そんなはずはない。
そう、思うのに。
それでも、訊かなければいけない地獄――。
「まさか……。あなたが呪師さま?」
「……まぁ、な」
呪師は、まるで人間のように頭に手を置き羞恥を表した。
その姿にまた、サファイアは過呼吸に陥っていた。
「い…い…」
「い?」
「イヤーーーー!どうして?なんで?どんな望みも叶えられる神のような力を持つ呪師がなんでよりによってたぬきなのよ!しかも、さっきまでとまるで声質も違うし!」
「だから、たぬきじゃないって!お前もはや態とだろう!」
その批判も耳には届かなかった。
色々と、最悪の事態は想定していた。
でも、これはない。
「どうしてよ……。一大決心だったのよ。本当にすべてを賭けてここまで来たのに……」
「……」
本当のことを言えば、姿はそこまで重要ではなかった。
問題は――。
「ねぇ、教えて。どうして私の望みを叶えられないの?代償がまだ足りないってこと?私の要求ってそんなに高いの?」
呪師は、少し苦い顔をしながら人型が座っていた椅子に腰を下ろした。
動物の姿で改めてみると椅子との比率がかなり合っていない。
よく見れば、きちんと上着を着こなしている。
「……そもそも、なんでお前あんな要求したんだよ?姉さんのことを褒めてたのに。その関係を初めから消し去ろうとするなんて」
――矛盾してるだろう、と呪師は訊ねた。
その疑問は当然だった。
きっと、訊かれると予想していた。
「……私の瞳を見て」
たくさん、考えた。
その結果、正直に話そうと決めていた。
「?さっきから見てる」
それでも、呪師は変わらなかった。
サファイアは、わかりやすく伝えた。
「黒目なのよ。しかも真っ黒。私の母と姉は蜂蜜色の瞳で父は茶色。私の家系には黒目の子なんて生まれたことないのよ。ううん。黒目の人間なんてこの国には一人も存在してなかったのよ。だから……」
「だから?」
「黒目の忌まわしき娘って呼ばれていたの。そのせいで、姉は相思相愛の相手の家族から結婚を認めてもらえなくなって……」
最後の方は、声が尻すぼみになっていた。
どうして、人生はこうも上手くいかないのだろう。
人として、分を上回った望みを持ったわけでもないのに。
しかし、彼は呆れた声を出した。
「馬鹿馬鹿しい。そんなことのために自分を売ろうとしたのか?そんなの単なる向こうの建前で、案外本音ではその姉自身を気に入らんだけじゃないのか?」
「ありえないわ、そんなこと!姉さまは素敵な方よ。こんなことになっても、私を優先して結婚を諦めようとしてるくらいだもの」
「どちらにしろ、俺はそれを叶えるわけにはいかない」
サファイアの必死の訴えも、彼は一刀両断した。
いや、そうしなければならなかった――。
それを知らぬ彼女は、ただ嘆く。
「どうして?やっぱり、記憶を世界から抹消するっていうのは大きすぎた?だったら、もうちょっと要求を落として――」
「そうじゃない。俺が代償として最高位に設定しているのは、お前の祖父が言った通り依頼人の寿命だ。お前が八十歳まで生きるとして、最高でその半分だな。等価の代償としては」
「本当?じゃあ!」
「だが、ダメなものはダメだ。第一そこまでしなくとも、その黒目を別の色に変えるとかもっと手っ取り早い方法をなぜ選ばない?そっちの方が、大好きな姉さんと他人にならずに済むだろう?」
呪師は、至極尤もなことを告げた。
それを、彼女は否定する。
「……それはできないわ」
「なぜ?」
彼は訝しんで訊ねた。
「確かに、この黒目のせいで厭な目にたくさん遭って来たわ。姉さまたちをその巻き添えにしてしまった。でも、家族は皆黒目で生まれたこの私を愛し育ててくれたの。もしここで私が瞳の色を変えたら父さまや母さまが知っている〝私〟の姿が消えてしまう。死ぬまで見守り続けてくれた私を殺してしまうことになる」
――それだけは避けたいの、と彼女は言った。
脳裏に愛を自分に与え続けた家族が思い起こされていた。
その気持ちは理解できる。
しかし、彼は彼女の矛盾を問いかけた。
「だったら、寿命だって大事にしろよ。それもある意味両親からの授かりもんだろう?」
「それも、わかってるわ。でも私決めたの。この十六年、ずっと隠れて生きてきた。〝黒目の忌まわしき娘〟って評価を貼られた私を家族は全力で守ってくれたわ。私は、それをなんの疑いもなく受け入れてきた。でも、気づいたの。私は、無意識に家族を盾にして利用してたのよ。かわいそうな自分に甘えてたの。この十六年間、自分の力だけで生きた日なんて一日もなかった。いつも誰かに生かされてきたのよ」
「お前は小娘なんだ。子供は親に生かされるのが当然だろう」
呪師の意見にサファイアは首を振った。
自分が矛盾していることなどわかっている。
その上で、自分はしたいことを思う存分味わいたい。
「さっき、寿命の半分って言ったわよね?私もね、もしあなたから寿命を求められたら、せめて四十歳くらいまでは生かして欲しいって頼むつもりだったの」
「四十?なんでだ?」
「望みが叶えば、当然、姉さまは結婚できるわ。そうしたら、今は十九歳だから数年後までにはきっと子供が生まれてくるわ。私が四十歳まで生きていれば、きっと最初の子供の成人した姿は見られると思うの。私はそれがどうしても見たい」
「……」
呪師は、彼女の本当の望みを察したようだった。
「子供は親に生かされてる存在っていうあなたの意見には賛成よ。でもね、普通の子供ならその間にも数えきれないくらいの夢を持つでしょう?だけど、私はそんなこと考えたこともなかった。家族という盾に包まれた、まるで深海の底に沈む貝のような生活をしてきたから。〝夢〟なんて言葉を口にすることもなかった。……でも今の私には姉の結婚を見届けたい。姉の子供の成長する姿をこの目に焼き付けたい。こんなすごいことを夢見てるの」
「……それを叶えるためなら、親からもらった寿命を縮めていいとでも?」
そこは、賛同できない。
呪師の言いたいこと。
それも、わかってる。
それを踏まえて出した結論なんだと、知ってほしかった。
「要は、生き方の問題だと思うの」
「?」
「これから先の、夢を持って生きる四十歳までの命が、夢を待たずに生きる八十歳までの命に劣るとは思わない」
「……」
「隠れて、守られて生きる八十年より黒目を蔑まれても、堂々と夢を持って生きる四十年を私は選ぶ」
「小娘……」
呪師が何とも言えない顔つきで呟いた。
サファイアは苦笑を漏らした。
「ふふ。さっきから小娘、小娘って煩いですよ。私の名前はサファイア・ローだって教えたでしょう。愛称はサフィーなんですけど……あれ、そういえば呪師さまはなんという名前なんですか?」
――せっかくこうして出逢えたんですから教えて下さい、という詞に呪師は暫く沈黙を守った。
サファイアはただ待っている。
だから、仕方なしに答えた。
「……ない」
「え?」
聞き取れなかったのだと、勘違いしてしまった。
「だから、俺には名はない。呪師としか呼ばれないからな」
「嘘!名前ないんですか?」
その驚きの声に、彼は自分でもなぜかはわからない。
ただ、嘘偽りなく話した。
「正確には持たないと言ったほうが正しい。俺のような、人間の脅威と成りうる力の持ち主は、同時にその命も狙われやすい。特に同業の呪師にはとりわけな。そんな時、名を使用した呪いでも掛けられてみろ。個人を特定されてるわけだから、その呪いを一身に受けて一巻の終わりだ」
「た、確かに」
「それくらい呪師にとって名を持つことは危険とされているんだ」
彼の詞に、改めて呪師の力の脅威を思い知らされた。
「でも、呪師って呼び辛いし……。そうだ!じゃあ私だけが呼ぶ渾名を付けます」
「渾名?」
呪師は、聴きなれない詞に茫然と呟いた。
「はい。それなら問題ないでしょう?正式名じゃないんだから」
「それはそうだが……」
「実は、もう思いついてるんです。呪師さまにピッタリの名前を!」
サファイアは手を合わせて興奮気味に告げた。
「ほう、なんだ。言ってみろ。まぁ私のような高貴な存在に見合う名など限られていようが」
満更でもない顔で呪師は、言った。
少しは期待した。
それに、サファイアは満面の笑みで伝える。
「はい!たぬきから名を拝借して〝タッキー〟です」
「……」
「………」
「………」
「………え?あれ?なんの反応も返してくれないんですか?」
予想と異なり、怒りの感情すらぶつけられなかった。
ただ、低い地を這うような声で言われた。
「……薄々感じ取ってはいたが、お前私に仕返しをしてるだろう?なんだ、その〝クッキー〟みたいな甘ったるい焼菓子に似た名は!しかもあのずんぐりむっくりの名から因みやがって!いくら俺が望みを叶えてやらないからって!」
「……バレました?だって、理由すら教えてもらえないなんて不公平じゃないですか。……わかってるんです。望みを誰かに叶えてもらおうなんて虫がいいことくらい……でも私の望みは自分じゃどうにもならない。これ一度きりです。二度となにも望みません。だから私の望みを叶えて下さい」
そう言ってから、彼女は徐に自分の服の袖を捲った。
今しがたタッキーと名付けられた彼が、その謎の行動を指摘する前に彼女は決意を述べた。
「私のお肉食べてもいいですから!」
あまりに、意味不明なその詞を彼は最初聞き逃した。
「だから、ムリだ……ってなんだよ肉って?俺は雑食だが美食家なんだ!好んで食するのは鳥の卵や果実だ!人間なんか食わん!」
「え?だってここ食肉の館だって……」
「あれは、本来〝食肉〟ではなく〝食肉目〟を省略した名だ」
「食肉目?」
サファイアは、なんの略なのか見当もつかなかった。
それに、タッキーは驚愕し口をあんぐり開いた。
「お前は、本当に阿呆だな!食肉目レッサーパンダ科が私の動物界における分類群だ。世界でレッサーパンダ科は、我ら高貴なレッサーパンダ一属一種しか分類されていない」
「へえー」
初めて知った。
それを気にせず、彼は自分の高貴さを殊更真剣に講義する。
「ちなみに、お前の不愉快な間違いであるあのずんぐりむっくりは、我らと同じ食肉目でありながら、なんとイヌ科に属するのだ。つまり我らとは似ても似つかぬ種族になる。種類も、イヌ科には当然イヌを含みオオカミやキツネまでもが分類されている。どうだ、違いがよくわかるだろう」
確かに、そう聴かされるとかなり異なることは理解できる。
しかし、それ以上に気になるのは……。
「――詳しいですね。やっぱりたぬきのことを意識して……」
「ち、違う!この程度の教養はレッサーパンダたるもの備えられているものだろう!」
サファイアは首を傾げた。
(なんだか、さも当然みたいな顔つきで言ってるけど、レッサーパンダが食肉目っていう分類名なのはそんなに有名な話なの?私があまりに狭い世界で生きてきたから無知なだけで、もしかして世間では一般常識とか?でも食肉目なんて単語私は初めて耳にするし……ん?)
「って、じゃあ、なんで省略したのよ!〝食肉〟なんて呼ばれてたら、誰だって代償は血なまぐさいものを想像するじゃない!」
サファイアはタッキーの椅子の前に設置された骨董品な机の表面を両手で叩きながら不満をぶつけた。
「だから、それは――」
バンッ――!
凄まじい扉の開く快音と共に、深めに頭巾を被った人型たちが突然侵入してきた。