13-9
一歩下がり、跪いた――。
動揺の波が広がる。
誰も彼女の意図が解らない。
それを厭わず、彼女は祈りの姿勢を取る。
そして、ゆっくりと、その宝を視界から閉じた。
「いいか。舞踏会で登場したら――『運び屋の時と同じように〝祈り〟を展示された宝石に捧げろ』」
サファイアの脳裏にタッキーの詞が蘇る。
深くは訊かなかった。
意味はない。
だって、初めからそのつもりだったから。
この世に産まれて来てくれてありがとう――。
最近になってよく空想することがある。
もし、この国がユヴェール神を崇めていなければ。
宝石眼がこの世に存在しなければ。
私は、生まれてきただろうか、と。
〝宝石〟という人間を惹きつけて止まない礎があったからこそ、今、私は、私となった。
紳士の礼服が、淑女の礼装が、擦れ合いこちらに注目が集約されるのがわかる。
それでも、構わない。
今、この一時だけは。
愛するあなたたちへの祈りを捧げる時間だから。
いつ、闇は訪れていたのだろう。
夕焼けの朱さは、すでに鳴りを潜めている。
代わりに訪れるは、漆黒の闇。
何物も覆い隠す、その常闇が。
なぜ、こんなにも光り輝く。
あぁ、そうだ。
どうして気づかなかったのだろう。
これは、星空だ。
昼間にも星は変わらず瞬いているというのに。
人々が空を見上げ、それを最も美しいと感じる瞬間。
それは、夜空である。
星の輝きが一点の光となって、照らしたのだ。
彼らの女王を。
サファイアの宝石眼を――。
その瞳が開く。
両手を広げる。
大いなる宝石たちへ祈りを捧げる巫女。
その慈愛に満ちた女王がそこにはいた。
すぐに、異変に気付いた。
人工照明など当てていないのに。
その祈りを授与される宝石たちが一斉に煌めきだした。
確かに見えた。
星の瞬きが、各々の宝石に降り注いでいるのを。
ざわめきが起こる。
しかし、誰も声を上げない。
本当に風光明媚な光景に人は、全てを停止させてしまう。
そこに、動作など必要ないから。
ただ、女王からの手向けの言の葉さえ聴ければいい。
「この場に集いし総ての麗しき宝石たちよ。ユヴェール神が数多の宝石をいずれも公正に恋い慕ったように。私からも、この豪華絢爛な舞台への共演を許されたあなた方総てに対し、愛念を。――願わくば、あなた方の未来を尊び、共生して行ける素晴らしき伴侶を得ることを、心よりお祈り申し上げます」
黒色の瞳に含まれる蒼い波が一層力強く漂う。
宝石に降り注ぐ星が、彼女を照らす光源となる。
まるで舞台の主人公への間接照明のように。
宝石眼に選定された宝石も、そうでない宝石も、その光に差異はない。
その迷いなく指し示す方角に、一点の曇りもない。
宝石に価値の差などない。
ターコイズを。ダイヤモンドを。サファイアを。
人はその異色の宝を、どれが一番か、と比べる必要はない。
宝石眼に選ばれぬ宝石を美しくないと否定する者も、また必要はない。
価値に拘るは、人間のみ。
宝石たちは、皆競い合って並んでなどいない。
ただ、待っている。
己を愛でてくれる存在を。
己の力で輝いてほしいと思慕する存在を。
そのために、わざわざこの身を端麗したのだ。
彼らに相応しい形に加工してまで。
気のせいではない。
宝石は、運び込まれた時となに一つ変化していないはずなのに。
確かに、圧倒的な輝きを持ち始めた。
『宝石が歓喜している』
馬鹿馬鹿しい。
一度だって、そんな無機質なモノへの感情を思い描いたことなどなかったのに。
公爵は自虐した。
今回の競売のために買い付けした宝石たち。
確かに、どこかでサファイアの宝石眼が釣れるのでは、と邪な想いがあったことは否めない。
しかし、きっと彼女は現れない。
それでいい。
恋路に溺れた愚直な王などいらない。
ますます、彼の評判が地に堕ちればそれで満足、腹一杯だ。
しかし、結果は――。
やはり、人の恋路は邪魔するものではない。
まさに、馬に蹴られて死ぬほどの衝撃を味あわされた、という訳か。
なぜか、笑いが起きた。
公爵のその朗らかな笑いに皆、吸うべき酸素が戻ったかのように大きく呼吸を整えた。
公爵の笑いは止まらない。
ついに、良心の糸が切れてしまったのだろうか。
まさか、宝石眼に対してなにかするはずないだろう。
そう、思うのに。
クルスとヴィレは身構えた。
いざ、という時のために。
動いた――。
その人物はツカツカと真っ直ぐサファイアを目指す。
でも、向かったのは公爵ではない。
その愛妻だった。
サファイアは祈りの姿勢を解いたが、未だ跪いたまま。
夫人よりも目線は下。
鋭い眼差しで、彼女を見下ろす悪女。
なにをする。止めねば。
しかし、相手は残虐非道と呼ばれようが女性。
迂闊に手出しはできない。
それでも、彼女を守るためなら。
二人の宝石眼は動こうとして、止めた。
夫人が、サファイアの頬に口づけを施したからだ。
しっかりと音が立つほど熱く。
その行為に、周囲の貴族が大きく反応する。
〝クヴェレ公爵夫人の口づけ〟
それは、貴族間では重要な意味を成す。
夫人は、未婚の頃から極度の人間嫌いだった。
当時、侯爵令嬢として、圧倒的な地位に身を置く羨まれる存在とは裏腹に、悉く、己に舞い込んだ縁談を断り、修道院で生涯を終えることが望みだ、と周囲に言いふらすような奇異な女性だった。
それが、ある日一転して、結婚を果たす。
その相手こそ、現在のクヴェレ公爵である。
その経緯は未だ謎に包まれており、様々な憶測が飛び交う。
そのなかで、特に奇怪な噂として信じられているのが、夫人の口づけには魔力がある、というものだった。
人間嫌いだった彼女は、他人に触れることを極端に嫌った。
しかし、偶に。
本当にごく稀に。
彼女が嫌悪感を抱かず触れられる存在が幾人かいる。
彼女の血を分けた両親、子供、そして、孫。
夫である、クヴェレ公爵。
さらに、時折彼女個人の主催の茶会に御呼ばれされる友人たち。
なにが基準かはわからないが、一つ共通点がある。
それは、彼女に口づけをされるということ。
絶対的な信用の証。
その者の用件は優先され、公爵家に寵愛を受ける立場となるのだ。
誰だって、喉から手を伸ばしても欲しくなる称号だ。
つまり、この瞬間、サファイアは望む望まざるを関係なく、夫人のお気に入りの一員に仲間入りを果たしたということだ。
もちろん、ヴィレもクルスもその一員に含まれてはいない。
(宝石眼のことが嫌いなんだと思っていた……)
ヴィレは、唖然としながら思った。
口づけを受けたサファイアも呆けている。
それに微笑んで、頬を軽く撫ぜてから、夫人はヴィレに向き直った。
「――ダイヤモンドの宝石眼」
「!」
いきなりの声掛けに気を抜いていた。
まさか、矛先がこちらに向くとは思っていなかったからだ。
「……これは、あなたの計画?」
「えっ?」
「これがあなたの仕業なら、こんなにコケにされたのは久方ぶりよ!」
夫人は、凍てつく響きでヴィレに告げた。
ユーリが今度こそ一歩前へ出る。
夫人がそれを気にせず歩み寄る。
その視線は下から見上げるものなのに。
どうして、そんなに横柄に思えるのだろうか。
それは、無意識に彼女を畏怖しているからかもしれない。
夫人がヴィレの眼の前に立つ。
ヴィレはユーリを静かに押し退けた。
大事な人に手を出されるよりずっといい。
このまま、勘違いさせればいい。
「そうだと言ったら?」
夫人は微かに目を丸くした。
正面から受けて立たれた。
「アハハハ!」
夫人が突如嗤い出した。
狂気を孕んだ嗤い。
確かに悪寒が走った。
そして、その恐怖を携えたまま夫人が言った。
「――今回は、私の負けを認めますわ」
「……え……?」
ヴィレが、ユーリが、そしてクルスが、驚愕した。
敗北宣言――。
それを、彼女がしたのを初めて聴いたからだ。
周囲の雑音も一際高くなる。
皆、初の体験らしい。
それを、一切気にせず夫人は軽やかに夫の下へ駆け寄る。
「あぁーー、悔しい!あなた、私、負けてしまいましたわ!」
傍目から見れば、とても負けた人間の呟きには受け取れないような楽しげな声で、彼女は宣言した。
「あぁ、そうだね。私たちは、負けてしまったようだ。――敗者は、勝者に道を譲らねばならない」
公爵は、そう妻に同意し、ヴィレと視線を通わせた。
「王子」
「……」
「これが、あなた様の望んだことであるかないかは、もはや、勝敗の基準ではありません。――結果、あなた様は最高の時機で我々を出し抜きました」
「……」
何も言えぬ彼に、公爵は姿勢を正した。
そして、静寂の中で詞を紡いだ。
「それは……、次期国王に相応しい行動でしたよ」
「「!!」」
ヴィレとユーリは、公爵から視線を逸らせなくなってしまった。
今、彼はなんと言った。
まさか――。
認めてくれた?
いや、それはない。
しかし、用無しの烙印は押されなかった。
己には、まだ挽回の機会があると受け取っていいのだろうか。
これこそ、虫が良すぎる考えだ、とわかっていながら――。
そして、公爵夫婦は示し合わせたかのように、道を左右に開けた。
もはや、サファイアとヴィレの間を遮る障害は一切なかった。
サファイアは、あの薔薇園以来の邂逅を果たした、彼らを懐かしんだ。
それが、表情に自然と出た。
破顔する。
その表情を目の当たりにして、やっと気づいた。
二人の男が、同時に。
己の〝誤解〟に――。
一人目の男は、初めての舞踏会に緊張する女を守ろうとした。
この仮面だらけの世界では、女は無力に等しいのだから。
二人目の男は、初めての責務を背負った女を守ろうとした。
この仮面だらけの世界を、女に見せないために。
そう。
『自分が、女を守らないと』
なに、言ってる?
今、この瞬間。
女はどうしていた。
誰に守られていた?
なにから守られていた?
答は簡単。
女は一人で立っていた。
己の足で、仮面の世界の中心に。
誰にも、なにからも守られず。
男たちを守った――。
だから、前にも言ったでしょう?
女は、女であっても騎士なんだって。
騎士は、守られては存在できないの。
守りたいから、騎士になったんだよ。




