3 善呪師(グーテツァオベラー)と王子と偽り
――それから数十分の後、汽車はツークンフト駅に到着した。
ウンターヴェークス駅とは異なり下車する人間は疎らで、駅名が記された看板も角が剥がれているのがそのままにされた寂れた駅だった。
改札員に切符を手渡し、小さな駅の門を潜ると、そこは夕陽が沈む前とは思えぬほど一面の暗がりが広がっていた。
所々に点在する街灯もなんとも心許ない。
姉がもし一緒に同行していたなら、土地勘のないこんな暗がりを一人で歩くなど、どんな小言を言われたかわからない。
サファイアは、重たい鞄を掛け直してから、暗闇の道を歩き始めた。
目指すは呪師が住む『食肉の館』――。
(最初、この紙を開いたとき、この館の名前で怖気づいたなぁー)
サファイアは、その頃の自分を思い出しながら、坂の上へ続く一本道を上っていた。
駅前ですら賑わいをみせていなかった通りもここまで来れば、もはや足音さえ聞こえてこなくなった。
「駄目だわ。早くも弱気になってる。唄でも歌おうかしら。こんなときにはどんな唄が最適かしら?」
サファイアは幼少の頃から友人ができた試しもなく、町の教会の合唱団等にも参加経験は乏しかった。
(教会側も黒目の忌まわしき娘を教会へ踏み入れさせるのを渋っていたしね)
そこで、はたと気づいた。
「そうよ。よく考えたら私、きちんと唄えるのなんて母さまと姉さまが唄ってくれた子守唄くらいしかないわ」
サファイアは自分の狭い世界を改めて痛感し、ますます落ち込んだ。
「なんで元気を出そうとして落ち込まなきゃいけないのよ……って、あ!……あった。あれが食肉の館?」
サファイアの目の前にそびえ立つは、食肉の館の名に相応しい、おどろおどろしい佇まいの館だった。
何十年も放置されたかのように蔓が館を覆い尽くし、玄関扉は、右半分の上部の蝶番が既に壊れて外れており下部のみで支えている始末。
(田舎町に似つかわしくない、こんな巨大な館普通じゃないと思うんだど……。でも周りには一軒も民家がないわ。この周辺の土地をすべて私有地にしてるのかしら……)
サファイアは恐る恐る歩みを進めた。
引き返せるなら、引き返したいほどの威力だった。
「それにしても、いかにも特殊な力を持ってる人が住んでます、って宣伝してるような館なのに、バレバレ過ぎてここに住んでる呪師って大丈夫なのかしら?」
不安を増幅させながらも、サファイアは玄関扉前まで歩いた。
草木を踏みしめる音しか聞こえない。
それが、恐怖を増倍させる。
「あれっ、呼鈴がない。どうしよう。いくらなんでも勝手に入ったら怒られるわよね」
しかし、どこを見渡しても呼鈴らしきものはなかった。
鈴が錆びて地面へ落下した形跡もない。
「仕方ないわ。こんなところで躓くわけにはいかないもの。呪師さま、失礼します!」
大声で高らかに宣言した後、サファイアは玄関から館内へ侵入した。
予想通り、中は外よりも薄暗く、灯りなど一つも燈されてはいなかった。
「うー、怖い。というか、もしかして呪師は留守……とか?やっぱり外で待ってた方がよかったかしら?」
ギィーガラガラ。
「うっ、きゃーーー!」
突然館の階段上から扉が開く音がした。
(――風?違う。やっぱり誰かいる……。でも、じゃあなんで勝手に館へ入った私に声を掛けないのかしら?普通怒鳴る場面なのに)
サファイアは、手探りで階段の手すりに掴まり、一段ずつ踏みしめながら二階まで上った。
二階へ到着すると、西の一番奥の扉だけが不自然に開放されていた。
サファイアは、息を呑んでその扉に近寄った。
すると、僅かながら光が漏れているのに気が付いた。
恐々(こわごわ)となかを覗くと、漆黒の外套を纏う人型が見えた。
「ひぃ!……あっ、も、もしかして呪師さま……でしょうか?」
「……」
相手は答えない。
しかし、それを待てるほどの余裕は、彼女にはなかった。
「あっ、あの、初めまして。私、サフィー、いえ、サファイア・ローと申します。祖父から生前この場所と呪師さまのことを伝え聞いておりまして、今回どうしてもお頼みしたいことがあり伺った次第です!」
一気に用件を話し過ぎたせいで、サファイアはその場で咳き込んだ。
「も、申し訳ありません。あ、あの…、呪師さま?」
「……」
人型からは一切、返答はなかった。
(もしかして、聞こえないのかしら?)
サファイアは思い切って室内へ一歩足を踏み入れ、後ろ手に扉を閉じた。
「止まれ」
ビクッ――!
突然地を這うような低音で声を掛けられた。
「そ、そうですよね。勝手に館に入った上、お部屋にまで。本当に申し訳ありません」
(――どうしよう。最悪の出だしだわ。やっぱり、外からもっと大声で呼びかければ良かった。これでもし、申出を却下されでもしたら……というか、今すぐ追い返されそう)
あわわ、と慌てふためくサファイアとは真逆で外套の人型は微動だにしなかった。
「望みは」
「……え?」
「望みは」
その問いに、サファイアは自分の目的地が合っていたことを知った。
「――はいっ!私には姉が一人おります。それはもう私とは真逆で光輝な蜂蜜色の瞳と髪でその美貌はブラオ一番、いえ近隣の町を含めても――」
「望みは」
変わらぬ、その問いに狼狽する。
確かに、こんなこと身内以外で聴きたい者はいないだろう。
「す、すみません!……実は……、その姉と……いえ、ロー家に私が、〝サファイア・ロー〟という人間が存在した記憶を世界から抹消していただきたいのです……」
「……」
「代償は、残念ながら私の全財産を持参してまいりましたが、私は裕福ではないためおそらく足りないと思います。不足分については……私自身でお支払いいたします」
そう言って、サファイアはサングラスを外した。
「この通り、残念ながら私の瞳は美しさとは無縁です。ですが、それ以外は健康そのものです。ですから、おそらく私は長生きできると思うんです。これは祖父から聞いた話ですが、呪師様はその依頼人の……寿命を代償にできる、と伺っております。それでも、私は一向に構いません」
『望まれるはお前の寿命かもしれん』
『寿命……ですか?』
『わしはそれを聞いてむしろ好都合じゃと思った。わしには、もう残された未来になんの未練もなかった。ここで望みをかなえて死ねるなら本望じゃ、と本気でそう思っていた』
祖父との会話が思い起こされる。
本気でそのまま死んでも良い。
それほどの望みとは、一体なんだったのだろう。
それに、それほどの望みが必要なくなったとはどういうことなんだろう。
サファイアには姉の結婚がどうでもよくなる日は来ない。
――だから、私は望みを叶えてもらう。