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サファイアは一度膝を叩いてから、講義を開始した。
「宝石を見分けるためには、まずその宝石を知ることがなにより重要です……、と言いたいところですけど、それを話すと限がないので、今回はズバリ、視覚のみでペリドットの宝石の真偽を判断できる方法をお教えします。幸い、ペリドットは数ある宝石のなかでも識別する難易度が低いので」
「そんな方法がありますの?」
母親は、驚いたように訊ねた。
「はい。宝石にはそれぞれ特徴があります。それこそ千の顔を持つほど一つひとつが異なる表情で人間を魅了するものですから」
――だからこそ、人は大枚を払って宝石を購入し身に着けることで、己の富を誇示し権力の証とするんです、という詞に、なるほど、と親子は真剣にサファイアの話を傾聴した。
「その特徴を見分けるために必要な眼を『識別眼』と言います。これは宝石の名、産地、その宝石の処理の有無及び程度を判断し明確にすることです。そして、ペリドットの識別できる最大の特徴は『複屈折性』です」
「ふ……、ふく?」
「複屈折性です」
「な……なんですの、その複屈折性というのは?」
母親は言い直せたが、ミリーは一人、何度も高度な詞を言い直し続けた。
少女には、難解過ぎたかもしれない。
「複屈折とは、ある種の物質の境界面で光を入射させると、光は一つではなく二つの方向へ屈折することをいいます。つまり、その物質を通して物を視ると向こう側が二重に見えるという現象が起きるんです。特にペリドットは高い複屈折性を持っているので、その現象が顕著に現れます」
「じゃあ、その石からお姉ちゃまを視たら、お姉ちゃまは二人になるの?」
詞は諦めても、意味は理解できたらしい。
「そうよ、試してみたい?」
「うん!」
ミリーは、興奮したように呟いた。
それに、サファイアは少し黒い笑顔を見せた。
「それには、条件があるわ。私は商売柄、宝石を手に持つ際は必ずこの綿手袋を着用することを義務付けてるの。でもミリーは綿手袋を持ってないでしょう?素手で受け取るつもりなら、これをあなたの宝石にしないと渡せないわ。誰にも所持されないうちから、その光沢を汚されたら宝石がかわいそうだもの。ミリーだって、せっかく買った新しい礼装に袖を通す前に、誰かにベタベタ触られたら厭な気持ちになるでしょう?」
ミリーは、その場面を想像したようで、神妙な面持ちで頷いた。
「これも同じ。ミリーがこの石の持ち主になってくれるのなら、素手で石を持って覗いても構わないわ」
「……うーん」
子供の好奇心に底はない。
無論、この愛らしい天使もその例外ではない。
目の前に知識を得られる実が垂れ下がっていれば、手を伸ばしたくなるは人の性。
ミリーは、ちらっと母親に目を向け無言の訴えに出た。
「……本当によろしいんですか?」
「はい、どうぞミリー。お許しが出たみたいよ」
サファイアが宝石を差し出すと、ミリーは喜んで石を受け取り、四方八方を視てはその不可思議な光景に驚愕し、その魅力の虜となっていた。
それを横目で見ながら、サファイアは母親に耳打ちした。
「――実は、もう一つペリドットを見分ける手段があります。こちらは肉眼ではなく器具が必要ですけど……」
「器具で?」
「はい。鉱物に含まれる内包物で判別する方法です」
「それも宝石に関する専門用語ですの?」
宝石鑑定士の膨大な知識量に、母親はただ感嘆していた。
「はい。内包物とは鉱物に取り囲まれた含有物の割れや液体、結晶の総称です。そのなかで一般にペリドットのみに視覚されるのが、〝ウォーターリリー・リーフ・インクルージョン〟です」
「……」
今度こそ母親はサファイアの口から発せられる摩訶不思議な呪文を復唱することはできなかった。
それに、サファイアは丁寧に説明しだした。
「ウォーターリリー・リーフは〝睡蓮の葉〟という意味なんです。ペリドットの平面状に液膜が円形に広がっている様が、まるで睡蓮の葉を彷彿とさせることから名づけられました」
「自然にそんなものができるなんて……さぞ美しいのでしょうね」
「ふふ、そうですね。ところが、実は宝石自体の価値というのはこの内包物があればあるほど、内部に不純物が含有しているわけですから、価値は下がるんです」
「えっ、睡蓮のような美しい花の葉に喩えられているのに?」
母親が、口元に手を当て驚愕を示した。
サファイアは微笑んだ。
貴族とは、皆自分たちのような下々の者とは対等に会話できない生物だと思っていた。
でも、勝手な思い込みほど失礼極まりないのだと実感した。
おそらく、この母娘は貴族のはず。
それなのに、こうして平民の自分の話をしっかり傾聴してくれている。
身分が高くとも、それに見合った高貴な思考の持ち主もいくらでもいる。
それを間近で感じられて、嬉しかった。
「はい。ただ、こちらはすべてのペリドットに含まれている、とは限らないので真偽の完全な判別法とは呼べません。実際、お嬢さまにお渡しした石にはありませんから……」
その詞に、母親は感謝した。
「――ありがとう。だから私にだけこっそり教えて下さったのね……ミリーががっかりしないように」
サファイアは肩を竦めた。
「手っ取り早いのは、やはり暗闇に本体を持ち込んで人工照明にでも当てることですね。黄緑色の宝石自体も数は少ないですから」
「そうなの?宝石なんて滅多に身に着けないから……。駄目ね、無知って」
母親の言葉にサファイアは表情には出さずに驚いていた。
これだけ上流階級の礼儀作法や装いを熟しているのに、宝石をあまり身に着けない?
言われてみれば、彼女の胸元も形の良い耳朶にも長い指にすら輝きを放つ装飾品は彩られてはいなかった。
(どういうことかしら?裕福な人間が服装だけ最高級品にするのはおかしいし……)
当然サファイアはそのような不躾な疑問を相手に投げ掛けるような真似はしなかった。
それでも、伝えておきたいこともあった。
「ですが、あくまで『価値』と『人気』は別物です。ペリドットの内包物は、天上の女神たちが挙って自らの花冠や花輪に用いたと云われるほど純潔で高貴な睡蓮の葉に喩えられていますから、女性への人気は非常に高いんですよ。他にも、内包物が在るからこそ存在する石や希少価値が付いて通常のものより値段が跳ね上がる石も存在するくらいですから」
「宝石自体には不純物が多いのに、そちらの方が人気だなんて……」
その当然の疑問に、サファイアは一度瞳を閉じてから、ゆっくり目の前の女性へ告げる。
「そうですね。――たとえ傷があろうと、それに価値を見出す人がいれば、それは光り輝くことができるんですよ」
母親は、その瞳を大きく見開き、そして顔をクシャッと歪めた。
「お母ちゃま?どうしたの、泣きそうなお顔をしているわ」
それに、娘がすぐに気づいた。
「違うのよ、ミリー。今、母さまは希望をいただいたの」
「そんなことわかっているわ」
「え?」
母親は、驚いて娘に向き直る。
「さっきお姉ちゃまが言ってたじゃない。ペリドットはお日様のように人に希望を与えられるって」
「!」
母親に驚愕の顔を向けられたサファイアの顔は親子に会ってから一番の笑顔を示していた。
啼きそうな己を娘に知られないように、窓の外の景色を見渡した時、彼女はハッとしたような顔をした。
サファイアも同じ方角を向くと、汽車は森林に覆われた山脈を抜け、徐々に拓けた土地へ辿り着き、緩やかにその動輪の回転数を落としていった。
(そういえば、次の停車駅はウンターヴェークスだったわね……)
ウンターヴェークスは、北の田舎町としては規模が大きく、トレラント海の傍の港町ということもあり、食糧や水にも事欠かない。
この場所なら裕福な老人が個人所有する別宅を建てるのはうってつけかつ賢明な判断だろう。
「もしかして、ウンターヴェークスへお越しなんですか?」
「……えぇ。あの、そちらはどちらまで?」
「私は、これよりさらに北のツークンフト駅まで」
それを聞いた母親は、大切な相棒を亡くしたかのように沈んだ表情を見せた。
それでも、先ほどより幾分瞳に力が漲っているのがわかる。
「……また、お逢いできますか?」
「……そうですね。ユヴェール神の御心次第でしょう。ですが、私もまたあなた方にお逢いしたいと思っております」
母親が安堵し信頼の笑みを向けてくるその表情を背に、サファイアはまた姉を思い出した。
雰囲気なのか、その美貌なのかは定かではないが、暗雲立ち込めた未来しか予想できなかった車内で、こんな休息ができるとは思わなかった。
「……勢いはしてみるものですわね。こんな出逢いが訪れるのですから」
「小さな天使が私たちを引き合わせてくれたんですね」
サファイアは、きょとん、と愛くるしい瞳を向けてくる少女にお礼の気持ちでいっぱいだった。
「本当に……。あっ、申し遅れました。私はこの娘の母親で――」
「あの、おっしゃらないでください」
サファイアはそれを遮った。
失礼な行為だが、そうしたかったのだ。
「え?」
「次、お逢いしたときは呼び名が変わっている恐れがありますから……その時教えてください」
「――はい!」
「私は……、身内等にはサフィーと呼ばれています。どうぞ、そのまま呼んで下さい」
最後にそう、告げた。
キィーキキキ……。
けたたましい動輪の効果音とともに汽車が停車寸前なのを感じた。
「……サフィーさん、ありがとう。本当に、またお逢いしましょうね」
「お姉ちゃま、今度また宝石のお話してね」
親子は立ち上がり、外套を着込みそのまま出口へ歩き出した。
短い、まるで逢瀬のような一時。
親子の後ろ姿を見つめながら、サファイアはほんの一欠けらの罪悪感を抱いていた。
〝サファイア〝という正式名を人前で述べる勇気はまだ備わってはいなかった。
怖かった。だから咄嗟に愛称を名乗った。
あの親子は、きっとサファイアが名乗ったところで態度を豹変させるなどという疑念は一切抱いていない。
ただ、忘れられなかった。
幼い日から受けてきた他人の心無い言動に惑わされ、狂わされた辛い過去が――。
まだ、どこかに隠れる場所を模索してる。
パシッ、と頬を一度両手で打った。
「反省!次からはもっと積極的に」
(――失敗を恐れず!大丈夫、私は天使の加護をもらったから)
ミリーの笑顔は、サファイアの心にそれこそ睡蓮が咲き誇るような温かさをくれた。
「私にとっては、石ではなくあの子こそが希望だったのかもね」
サファイアは、ペリドットの宝石言葉を敢えて母親に告げなかった。
お礼を述べたかった相手はなにもミリーだけではない。
サファイアは、一粒の宝石で二人に感謝の気持ちを贈ったのだ。
ペリドット。その石が女性、とりわけ既婚者に人気がある真の理由。
かの石の宝石言葉、それは『夫婦の幸福』だ。
非常に硬度が低く、大切に取り扱うべき宝石。
大切に扱い、太陽のような生きる上で必要不可欠な存在。
それは、『人生の伴侶』に他ならない。
ペリドットを扱うように己の伴侶を愛せたなら、その夫婦は幸福を得られるという想いが込められているのかもしれない、とサファイアは持論する。
もちろん、幸福が訪れるのは夫婦の契りを結んだ後。
だからこそ、結ぶ前の今知る必要はない。
時期が来れば自ずと聞き知ることになるだろう。
あの石の恩恵が彼女の下へ降り注いだ時に――。