2 天使とペリドット
乗客の乗降の少ないレンガ造のブラオ駅から、二駅先のゲーゲンヴァルト駅に到着したサファイアは、すぐさま北への汽車の切符を購入し乗車した。
汽車は、この駅が始発ということもあり、四人席を悠々一人で着座することができた。
こうして長旅を一人で決行する日が来ようとは。
ここ数日で、サファイアは自分がなにか別の存在に脳を占拠されたのではないかと疑心暗鬼に陥りそうだった。
長時間に及ぶ静寂に包まれた閉塞的空間のなかで、汽車の規則的な動輪の音と北へ進行するにつれて代わり映えしなくなった片田舎の田園風景を眺めるうちに、サファイアの脳は水を浴びたように冷め、落ち着き払ってくる感覚に縛られた。
それは、サファイアに不幸な思考を思いつかせる要素としては十分だった。
(――勢いって恐ろしいわ。思考が完全に停止してしまって、後先に待ち受ける後悔の可能性なんてなに一つ気にしないでいられるなんて)
そう、サファイアは今頭の片隅でその微かな後悔を味わっていたのだ。
予定では呪師に出逢い、自分の望みを代償で支払って叶えてもらい、それによって姉が無事結婚する晴れやかな姿を影から見届ける。
……という結末を狙っていたのだが。
(よくよく冷静になって考えれば、これは予定がなんの障害もなく実行された結果よね。もし、紙に書かれた場所に呪師がもういなかったら。代償を私が支払えないもので要求されたら。――どうしよう。ぐずぐずしてたら本当に姉さまを一人身にさせてしまう。それだけはなんとしてでも避けたいのに!)
「お姉ちゃま、なんでそんなに怖いお顔をしてるの?」
ハッとして、サファイアは俯きつつあった顔を上げた。
彼女が、どんどん暗い思考に浸食されていくのを止めてくれたのは、いつの間にか向かいの席に座っていた稚い少女だった。
隣には母親らしき人物が、他人に唐突に声をかけた娘を窘めていた。
服装は、母親は薄い象牙色、娘は純白を基調とした外出用の礼装を着用している。
娘の方は、胸元から腰まで垂らした布に大きな赤色のリボンがよく映えており、本人の愛くるしさを一層際立たせている。
母親の方は、斑な縞模様の礼装の上に落ち着いた青と白の輝度が鮮やかな防寒具を上品に着こなしており、膝に置かれた外套も短い装飾が施されていたりと、細部にまで拘った仕上がりとなっている。
全体的には地味で目立たないよう心掛けて選択した服装かもしれないが、高価な宝石を鑑定に来店する客の服装を見続けてきたサファイアには誤魔化せなかった。
お忍びだと仮定しても、こんな汽車の共同車両に侍女を同行させずに旅行を決行する身分の者たちではない。
「ごめんなさいね、お嬢さん。この子ったら急に声をおかけして。驚かれたでしょう?ほらミリー、お姉さまにきちんと謝りなさい」
「だってぇー、お姉ちゃまがすごく怖いお顔をしてたからミリーは心配して……」
「まぁ!失礼なことを言わないの」
母親は急いでまた娘を叱った。
その姿にサファイアは知らず懐かしさを滲ませた。
「いえ、大丈夫です。心配してくれてありがとう。少し厭なことを考えていたので、お声をかけてもらってありがたかったです」
サファイアの詞に目の前の少女の母親は安堵したようだった。
「ねぇねぇ、お姉ちゃまはなにを考えていたの?」
少女が悪気なく深くまで訊ねてくる。
「……これから先のことよ。挑戦して失敗したらどうしようって弱気になっていたの」
「まぁ、それはいけないわ。ミリーはね、失敗を恐れたりしないの。今日だって、これから新しいお父ちゃまとお爺ちゃまに逢いに行くけど、きっと気に入ってもらえるって信じているもの!」
「えっ?」
「ミリー!」
今度は母親が顔色を失ってしまった。
車内には重たい沈黙が広がった――。
やがて、母親はその艶やかな紅を注した唇を開いた。
「……実は、お恥ずかしい話ですが再婚を考えておりますの。ですが、先方のお父上様のご了承が得られなくて……。今も相手の方がお父上様お一人で過ごされている別宅へ赴いて直談判をされている最中だという便りをいただきまして……。それで思い切って、そこに書かれていた住所に私たちも足を運ぼうとしている道すがらですの」
(今は国を挙げての結婚期間かなにかなのかしら?なんだか状況も類似点が多すぎるし……)
結婚も上流階級の人間にとっては、義務として制約されるもの。
(ありふれた話と言えばそうかもしれないけど、こう立て続けに聞かされる側になるとね……)
サファイアは引きつる笑みを隠しつつ会話を続けた。
「そうだったのですか……。失礼ですが、お二方が別宅へ伺う旨を先方はご承知の上なのですか?」
「いえ、全く知らせずままに……。便りを読んだら居ても立っても居られなくなってしまって、気づいたら娘と家を飛び出していましたので……」
(こっちも勢いなのか!)
あまりに似すぎる状況にすっかり動揺してしまったサファイアは、それをなんとか悟られぬようにした。
それにも、無邪気な天使は微笑み自信を露わにした。
「大丈夫よ、お母ちゃま。ミリーは正しい淑女の挨拶だって覚えたし、歩き方だってお淑やかにするわ」
「そうね。でもまだ〝ちゃま〟使いが治っていないわ。『お母様』でしょう?」
「あっ、そうだったわ。お母様、お母様。うん大丈夫、呼べるわ!」
(今の私が思うのも相当失礼だけど、この親子、とてつもなく不安だわ……)
サファイアは思わず不躾に親子を凝視してしまったが、不意にミリーがこちらに向き直った。
「そういえば、お姉ちゃ……お姉さまはどうしてそんな暗くなるサングラスを掛けてるの?」
その問いに、サファイアはギクリとした。
「あっ、これは……。そう。実は、私は日の光に弱いのよ。直に太陽を見ると目が眩しくて開けられないの……」
思わず嘘をついてしまった。
サファイアは視線を外しながら俯いた。
「えっ!お日様を見られないの?」
「……ええ。だから汽車の中でもサングラスを掛けているの。そうしないとこうして窓際に座っていられないでしょう」
「そんなぁー、お姉ちゃまかわいそう。ミリーはお日様が大好きなの。だってお天気が悪いと、お家にあるお庭のテラスで、お母ちゃまが作るブルーベリーパイとミ牛乳たっぷりの紅茶を飲めなくなるわ」
その訴えに、サファイアは心が温まるのを感じた。
この愛らしい天使は、サファイアの嘘に本気で心配してくれている。
それも信じられないくらい、かわいらしい理由で。
この時、なぜか思い立ったのだ。
サファイアは商売道具である綿手袋を装着してから鞄を探り、大切に仕舞っていた宝石箱を取り出し、なかから一つの小さな粒の宝石を摘まみ上げた。
「わぁ、キレイ!それはなに?」
「これは、ペリドットという宝石よ。ミリーが大好きなお日様、『太陽の宝石』と呼ばれている石なの」
「えっ、そんな黄緑色ですのに太陽の宝石と呼ばれてますの?」
母親は、驚いたように訊ねた。
「はい。ペリドットは夜に輝きを放つとされている石なんです。実際に、暗がりで照明を当てれば驚くほど輝きます。だからこそ、人に暗闇でも光を与える希望となる存在の黄金の太陽に喩えられてきたんです」
「まぁ、夜に?不思議ですのね」
しげしげと、宝石を見つめる女性はとても子持ちとは思えないほど可憐だった。
サファイアは、やはり姉と似ている、と再度確信した。
「はい。その喩えから、この国でも一年を通じて最も気温が上昇し、日が長い時を過ごせる月をペリドット月と呼ぶんです」
「あっ、わかった!ペリドット月になると皆海の近くへ避暑に行くのは、お日様がいつもより長く空に浮かんでいて暑いからなんだ」
「その通りよ。ミリーは頭の回転が速い賢い子ね」
「えへへ」
ミリーは褒められたことに思わず顔を綻ばせた。
サファイアは、そのままペリドットをミリーの前へ差し出す。
「そんな、ミリーにご褒美と感謝を込めてこのペリドットを贈呈するわ」
「え?」
「まあ、いけませんわ!そんな高価なものを戴くなんて――」
親子は一斉に声を上げた。
「いいえ。お二方のおかげで私は、厭な考えを持っていた自分を改めさせることができました。失敗を恐れていてはなにもできませんもの。それを教えてくれたミリーに感謝の気持ちを受け取って戴きたいのです」
「ですが……」
「ご安心ください。ペリドットはもともとその産出量の低さとは反比例して比較的安価で取引が行われてるんです。しかも、これは僅か一カラットにも充ちませんから。大きさもこの通り、指先でやっと掴める程度。単価にすれば、銀貨四、五枚分の価値ですのでお土産感覚でもらってください」
ツァール国では、金貨一枚は銀貨では五十枚、銅貨では四千枚で同額とされている。
ゲルト中央市街に建ち並ぶ有名な洋菓子店でも訪れれば、そこに陳列したケーキ一片と同額程度だろう。
この親子もその程度なら安心して受け取りを容認するだろう。
しかしサファイアの予想とは裏腹に母親はまだ承服しかねているようだった。
「ですが、このペリドットはとても透明感があって美しいですわ。熟練の方が磨いた後のようなつやも見受けられますし……」
母親のお褒めの詞に、サファイアは一層嬉しく思った。
「あっ、それは気にしないでください。ペリドットの主成分に含有した鉄の影響で、表面がまるで油脂を塗ったかのようなつやが出てるんです。……それに、それを研磨したのは私の父ですので、そこに費用は一切掛かっておりませんので」
「あなたのお父様が研磨を?」
首を傾げる母親に、サファイアはそういえば自分たちがお互いなにも知らずに対話をしていることに気づいた。
「……紹介が遅れました。実は、私はブラオという町で小さな宝石店を家族で営んでおりまして、その傍ら父親や祖父は宝石加工や研磨をしていたんです。斯く謂う私も一応宝石鑑定士として生計を立てておりまして――」
「まぁ、あなたは宝石鑑定士なんですか?お若いのに素晴らしいわ!このツァール国では宝石はすべての源と言っても過言ではありませんもの。その鑑定士をされているなんて、優秀でいらっしゃるのね」
母親が興奮したように彼女を褒め称えるのを聞きながらサファイアは驚いていた。
(そっか。宝石鑑定士って、一歩外へ出ればそんな印象を与える仕事だったのね。ハルトにいた頃は、私に鑑定を依頼する客なんて稀にしかいなかったし、この黒目のせいで他人からこんな尊敬の眼差しで見つめられることもなかったものね……)
サファイアは力が抜け、座席の背もたれに深く寄りかかった。
「そんな、立派なものではありませんよ」
「ねぇ、お母ちゃま。宝石鑑定士って一体なに?」
ミリーは、自分だけ会話に交ざれないことに不満を持っているようだった。
「宝石を扱うお仕事をされる方のことよ。宝石鑑定士になれば、どの宝石が本物か偽物か簡単に区別できるのよ」
「すごい!どうやって区別するの?」
(簡単に区別できはしないけど……)
親子のなんとも素人目の意見に、サファイアはもはや引きつく顔を隠し通せなかった。
「そう……ですね。でしたら、せっかくの機会ですし、ペリドットを真偽する方法をお教えしましょうか?」
――まだ、当分お時間もありますし……、と前置きしてから話しを始めた。