10-3
天然のターコイズ――。
宝石鑑定士のサファイアですら、久方ぶりにその輝きにお眼にかかった。
サファイアは思わずその瞳を熱い視線で凝視してしまったが、タッキーの方はそんなことには一切興味を抱かずに、相手に聞こえることも承知で舌打ちをしていた。
「ふん。さすが別名『流離の宝石眼』と呼ばれるだけあるな。一体何百年前に使われた詞だか。お前、相当齢食ってるだろう?」
タッキーは、相手が宝石眼だと理解したうえでも口調に一切の変化が見られない。
むしろ、誰なら敬語を使うのだろうか。
サファイアは一瞬、現実逃避にそんな無関係なことを思考していた。
それに対し、ターコイズの宝石眼は、眼の前にいるへんてこな生き物の詞に一瞬虚を突かれたようだった。
「……驚いたな。その名称を知っている最後の人間はマハラートで終わりだと思っていたけど……」
――いや、君はたぬきで人間ではないから、数に入らないのかな。
彼は自然に禁句を口にした。
「ち、違います!タッキーは、そっくりだけどレッサーパンダなんです!」
サファイアは、タッキーの顔が歪む前に訂正していた。
「「……」」
今度は、その詞に沈黙が訪れた。
それから、間をおいて先に口を開いたのはターコイズの宝石眼だった。
「えっと……。間違ってたら申し訳ないんだけど、もしかして今の詞は彼のために言ったのかな?」
ターコイズの宝石眼は、タッキーを指さして訊いた。
「気にするな。この阿呆小娘の戯言に付き合うとさらに余分に齢を食う羽目になるぞ」
タッキーが冷静に彼の疑問を一蹴した。
サファイアは自分で自分の首を絞めた発言を堂々としたことに全く気付けず、何度も視線を動かし状況を掴もうとしていた。
グウ――――。
突然、今この瞬間には不釣り合いな音が鳴り響いた。
再び沈黙に陥りそうな状況を打破したのは、ターコイズの宝石眼の腹の虫だった。
その澄み渡る瞳の持ち主とは思えない豪快なその音に、サファイアたちはただ当人を見つめることしかできなかった。
「あは!そういえば、昨日からなにも食べてないんだ」
――だからなにか、食べ物ちょーだい、と彼はその笑みと視線だけでサファイアに訴えてきた。
「……あ、あの。朝食作り過ぎてしまって……。良かったら召し上がって行かれませんか?……お口に合えばですけど……」
サファイアは、本当に量を作りすぎたからそう言ったはずだったのだが。
それから十分程経った後――。
食堂には、レッサーパンダと宝石眼二人というおかしな光景が広がっていた。
(……この状況、本当に現実かしら)
サファイアは、配膳をしながらそう思わずにはいられなかった。
それは、ターコイズの宝石眼と予想だにしなかった邂逅を果たしたことでも、一緒に食卓を囲んでいることでもなく、今の彼の食欲についてだった。
いや、先の二つも非現実的と言われればその通りなのだが――。
(もう何杯くらいおかわりしたのかしら?)
眼の前のターコイズの宝石眼は、その華奢な身体のどこに収まっているのかわからない量の食事をものすごい速度で食べ進めていた。
横に眼を移すと、その彼の姿を見て気持ち悪くなっているタッキーがいた。
気のせいか、そのしなやかな毛並みが艶を失くしかけているように見えた。
(タッキー死にそう……)
サファイアは一瞬本気でそんな物騒なことを思った。
無論、他人の食事風景を目の当たりにしたぐらいで、本当に死したりはしないだろうが、タッキーはそれだけの精神的負担を負っているようにぐったりしていた。
「……おい」
すると、タッキーがいきなりサファイアに目をやり、いつもよりさらに低めに声を掛けた。
「な、なに?」
(もしかして、勝手な想像まで見抜かれたのかしら……)
そう不安に思いながら、サファイアは動揺しながら訊いた。
「……まさか、今の宝石眼ってのは皆こんな化け物みたいに大食漢なのか?お前が、あの大鍋で煮込み料理を作ってたのは、実は俺のためじゃなくて自分のためか?自分のための量だったのか!?」
あれだけの量を作って何日分あるのかと不安になっていた大鍋は結局しっかり一日分で底をつきそうだったことに、タッキーは密かに厭な仮説を立てていたらしく、それをサファイアに切り出したのだ。
この動物は至極真面目に彼女に問い掛けてきたのだ。
だから、決してここで笑ってはいけない。
それほどまでに、大食いはタッキーにとって見るに堪えない代物らしい。
でも、だからといってその言い草は酷すぎる。
生活を共にしてきた時間は長くなりつつあるつもりだったが、そのなかでタッキーはサファイアの食事量など今まで一切無関心だったことが容易に窺えるからだ。
「……タッキー。私のことそんな風に思ってたの?ひどいよ!そりゃあ自分で小食とは言えないけど、大鍋に煮込んだのは、単にその方が旨味も増すって昔姉さまに教わったからなのに!」
サファイアは知らず大声で言い返していた。
それは、まぎれもない真実だった。
それに、気づけない彼ではない。
だからこそ、さすがのタッキーも自分の早まった失言に首を竦めた。
少しは、悪かったと思っているらしい。
食堂に気まずい空気が流れた。
いや、流れたはずだった――。
「ああーー、美味しかった!ありがとう」
彼は、そんな空気は感じないらしい。
同じ空間に存在するはずだが、彼だけが異なる時間の流れに身を置いているのだろうか、と錯覚さえさせられる。
「い、いえ。ターコイズの宝石眼さまにたいしたおもてなしもできませんでしたが……」
(違うよね。これはこの人の性格や性分であって宝石眼だからとかいうタッキーの仮説は間違ってるよね……)
サファイアは急に不安になっていた。
「えぇーー、そんな他人行儀な呼び方は好きになれないな。俺のことは名前で呼んでよ」
彼の一人称がいつのまにか『ぼく』から『俺』に変わっている。
やはり先刻の市場での少年は演技だったのだ。
結局、彼女はからかわれていたことになる。
サファイアは必死に冷静を保った。
相手は遥かなる昔から宝石眼として、国を守護してきた大先輩。
(眼の前の人は尊敬する相手。そう、尊敬する相手。尊敬する相手……)
サファイアは心の中で呪文のように己に言い聞かせていた。