10-2
(どうして……)
サファイアは無意識にサングラスの縁に指をかけた。
きちんと掛けている。
それなのに見つけられた。
どこかで、これを外した瞬間を見られていたのだろうか。
どうしよう。サファイアの宝石眼がここに、食肉の館にいると知られれば、もうここにはいられない。
人が集まる場所にタッキーは存在し続けられないから。
(タッキーと離れるなんて、イヤ!)
サファイアは、覚悟を決めて――。
一目散に逃げ出した。
「えっ!嘘!?」
後ろで少年が、想定外のサファイアの行動に面食らって叫んだ声が聞こえた。
しかしサファイアは、そんな声を気に留めずただ己の帰る場所へ全速力で向かった。
一度も振り返ることなく。
汗が止めどなく流れる。
そうして息が切れる頃に、彼女は食肉の館に辿り着いていた。
(すごい。あの市場からここまでって、実はこんなに早く帰りつけたのね)
いつもはすごく遠いと感じていた距離も実は案外短かったことにサファイアは驚いていた。
そのままの勢いで、いつ底が抜けるともしれない錆びれた階段を素早く上りきっていた。
そしてそこで、サファイアは力尽き、廊下に座り込んでしまった。
「おい。どうした?」
激しい物音に仕事部屋から様子を伺いに来たタッキーを見た瞬間、サファイアに安堵が広がった。
「タ、タッキー!」
サファイアはそのままタッキーを強く抱きしめた。
いや、抱きしめたとはかわいい表現だった。
正確には、羽交い絞めにした。一切の遠慮なしに。
「うえっ。おい、小娘。く、苦しい!」
タッキーは、その外見とは似つかわしくない音を吐き出していた。
「うぇーーーーん!怖かったよ、タッキー!私心臓が破裂して死んじゃうかと思ったんだから!」
「い、いや!俺が死ぬ!今心臓どころか身体ごと破裂する!」
タッキーの安定した返しにサファイアはやっと落ち着きを取り戻しつつあった。
そう思ったのに――。
「すごーい!たぬきが喋ってる」
「「!」」
二人が同時に振り向いた先に、あんなに走って帰途に着いたサファイアとは対照的に、息一つ乱れずに階段の手摺りにもたれ掛る少年がにこやかに拍手をしながらこちらを見ていた。
サファイアは口をパクパク動かしながら声にならない悲鳴を上げていた。
タッキーは、少年を睨んだが取り乱してはいなかった。
「……貴様は何者だ?」
「ぼく?ぼくはお姉さんに挨拶しようと思ったんだけど、逃げられちゃったもんだから、こうして追いかけてきた狩人です」
「「……」」
沈黙しか反応は返せなかった。
「えっ?おもしろくなかった?」
少年は非常に意外だという顔つきをした。
「……お前、ただの子供じゃないだろう?いいからそのふざけた帽子をさっさと取れ」
少年の詞を華麗に無視したタッキーに、彼は少しも気分を害さずに帽子のつばを持った。
「ふふ。ずっとそう言ってくれるのを待ってたんだよ。本当はお姉さんから言ってもらいたかったんだけどなぁ」
――まあ、ぼくもあの人混みのなかで正体を明かすわけにはいかなかったんだけどね。
少年はそう後付けしてからゆっくり帽子を頭上から下ろし、二人を真正面から見つめた。
その、晴天を現すとされる緑みの青色は人々を遥か未来までも見通させる旅路の道標となる。
心穏やかになる。
先ほどまで胸に渦巻いていた邪気が払われていくのを感じる。
彼と同じ、無邪気な笑みが良く似合う陽気さが醸し出された宝石。
かの宝石眼のなかで、一年の最後を締めくくるに相応しい月の名称。
ターコイズ――。
見間違えることもできない。
彼は、ターコイズの宝石眼、その人だった。
「お初にお目にかかります。サファイアの宝石眼。先の就任式には出席することが叶わず、誠に申し訳ありませんでした。遅くなりましたが、本日ご挨拶に参りました」
彼は優雅に礼をする。
その姿に先ほどまであった少年の雰囲気は全く感じられない。
サファイアはついに開いた口が塞がらなくなってしまっていた。