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ツァール国の遥か北に位置し、人口も少ない寂しい町ツークンフト。
街の名がそのまま駅名になっているその山奥に寂れたおどろおどろしい館は存在している。
名を『食肉の館』という。
何人も訪れない、近づこうともしないそこに人が生活しているのかでさえ、近隣の住人すら知りえない。
最近では、夜な夜な女の悲鳴も聞こえるという怪現象が噂されることも重なり、以前より更に人の足は遠のいていた。
そんな、食肉の館の内部の実情は――。
「うぇーーーーん!ひどいよ、タッキー!なんで先にご飯食べちゃうの?私が作るって言ったのに!」
彼女の名はサファイア・ロー。
国中の注目を今一心に浴びているサファイアの宝石眼である。
彼女はサファイアの宝石眼として覚醒して以降、呪師見習いとして、ここ食肉の館で地上の者が摩に囚われず誠実に生き続けるために必要な知識を習得するために修業をしている真っ最中なはずだが――。
「うるさいぞ、小娘。朝早くから買い出しに行って、やっと帰ってきたかと思ったら一体何時間その料理なのか実験なのかもわからない煮込みをやってる。俺は、朝からそんなに食わんと前にも言っただろうが」
そう言った彼は、その柔らかい毛で覆われた獣耳を両手で押さえながら心底呆れた声を出した。
彼女の師匠である呪師。
だが、人間ではなく、本人曰く『高貴な』が付くレッサーパンダ。
愛称は、本人は未だに認めてはいないが〝タッキー〟である。
彼の、最も嫌うたぬきから捩ったため嫌がられるのは仕方ないが、サファイアとしてはもう呼び慣れてしまっていて他の名前など思いつかない。
(それに、タッキーって呼んだら、なんだかんだで絶対返事してくれるし)
タッキーは、サファイアが苦心して作り上げた朝食を全く待たず、新鮮な果物の盛り合わせを食べ進めていた。
その姿に、本当に何度も不思議にさせられる。
眼の前で紳士のように食事をしているのはレッサーパンダで、彼のために食事を作っている自分はサファイアの宝石眼。
もし自分が誰かからそんな話をされたら笑い話にしてしまうだろう。
そんなことが本当に自分の身に起きているのだ。
最近、サファイアは朝起きるとまず何よりも先に化粧台の鏡を見る。
そこには、やはり以前とは異なる蒼い色彩が瞳のなかに映り込んでいる。
(ただの黒い瞳だったのに……)
元から、自分の瞳を鏡で凝視するなんて行為はしてこなかった分、サファイアには自分が前までどんな黒い瞳だったか、もう朧げにしか思い出せない。
しかし、やはりこの蒼さが存在しなかったことだけは確かだ。
こんな日々を送り出す日が来るなんて。
サファイアは知らず煮込み用のお玉を持ちながら笑みを浮かべていた。
「おい、小娘。……気持ち悪いぞ」
「えっ!ひどい……」
それでも、この辛辣さは変わらない。
そこも、やはり自分を安心させてくれる不思議な点なのだ。
「せっかく、作ったのに。サツマイモの牛乳煮……」
「ん!?」
タッキーが、ガタッと椅子を引いてその上に立ち上がった。
サツマイモと牛乳は、タッキーの好物に含まれていた。
だからこそ、サファイアも朝食で出しても食べてくれると思ったのだ。
しかし、その小さい身体にはもう隙間はなさそうだった。
タッキーは、サファイアが己の好物で料理をしていたことを知り、その落ち込みぶりに罰の悪さを覚えた。
「……リンゴ」
「えっ?」
「そのミルク煮にリンゴも一緒に甘く煮るなら、食べてやらなくもない……」
タッキーは、そっぽを向いたままサファイアに告げた。
「――!私、買ってくる。ちょっとだけ待っててね」
サファイアはタッキーの言わんとする意図を理解し、すぐさま再び買い出しに飛び出していった。
祖母の形見のサングラスだけは掛けることを忘れずに――。