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それからさらに三日後……。
サファイアは、すべての支度を行った。
自分が所持する貯金の一切合財を手にし、祖父や両親から記念日の度に贈られた宝石類もすべて一つの宝石箱に保管して使い古した焦げ茶色の斜め掛け鞄に詰めた。
夜明け前、町の東にそびえ立つモルゲン山の後方から日の出が上る前の薄暗いなか、サファイアは格子模様の赤葡萄酒のくるみボタン付き衣服に橄欖色の上着、というお決まりの格好に着替えた。
靴は履きならしてところどころ傷は見受けられるが、それでも長持ちしていて長距離を歩くのにも十分耐えられる。
一年の始まりの月であるガーネット月のこんな凍える寒さの時刻に、レンガ通りには歩行人はおろか馬車一台も通らない。
(今だわ――)
「こんな朝からお客様なんていらっしゃらないでしょう?」
ビクッ――!
サファイアは心臓が止まりそうになるほど驚き後ろを振り返った。
そこには、角灯を手に持つ薄緑の寝間着姿の姉が立っていた。
サファイアは驚愕し、目を見開く。
「ね、姉さま……」
「あなたは昔から私たち家族にだけは決して隠し事をしない良い子だった。だから、内緒でお爺さまの部屋に入ることすらできなかった。――本当にバカな子ね……」
スズランは優しい声で呟いた。
「どこへ行くつもり?」
「……言えないわ」
「私に言えないような危険な場所には行かせられないわ」
スズランは、そう断言し普段見せない厳しい目つきを彼女に向けた。
その時、サファイアのなかでなにかが堰を切って溢れ出した。
「お願い、姉さま!一生のお願いよ!」
サファイアは、姉に駆け寄って懇願した。
「動く日が来たのよ!このままこの場所に……姉さまたちが護ってくれるこの宝石箱のような空間に閉じ籠ったままじゃ駄目なことをやっと認められたの!姉さまが引き止めても、私は行くわ――」
そう。ここは本当に宝石箱だった。
ここでは、サファイアはその名の通りに宝石として大事に管理されて丁重な扱いを受けてきた。
(でも、それじゃあその宝石は一生誰の目にも止まらない暗闇に隠されていつどこで輝けるの?本当に宝石だと証明できるの?世界に出て、人々の目にその姿を認められて、それは初めて宝石と呼べるのではないの?)
サファイアは自問自答をしていた。
自分を宝石になど喩えられないことは百も承知。
それでも……。
スズランは、言い募る妹に対し、なぜか身体が硬直したかのように一旦動きを止めてから、その美しい声を洩らした。
「……あなたにお願い事をされるのは初めてね。――本当は自分でも気づいていたの。あなたを本気で止める気があるのなら、もっと早くにそうしてた……。それをしなかったのは、きっともう私の手から滑り落ちたことを無意識に認めていたからなんだわ」
「……」
「――でもね、簡単には行かせられないわ」
スズランは今度は挑戦的な目をこちらに向けてきた。
サファイアは虚を突かれた。
「どういうこと?」
「あなたがこれから向かう場所を私は知らない。どのくらい遠いのかも見当がつかない。どんな危険が待ち構えているのかさえも……。でもあなたは私になにも約束する必要はないわ。そのかわり――」
「……な、なに?」
「今ここで宣言するわ、サフィー。あなたが帰って来るその日まで、あなたと再会できるその日まで、私は男爵とも、誰とも結婚しないわ!」
「っ!?」
サファイアは衝撃を受けた。
まさか、このお淑やかな姉がそんな反撃に出るとは予想だにしなかったからだ。
「なにを言い出すの、姉さま!」
「あらっ、別に構わないでしょう。あなたのお願いをなにも訊かずに了承してあげるのよ。それにもともと男爵との結婚だって、あなたをこの先何不自由なく育てるためには、結婚して安定した暮らしを手にしたいって思いがあったのも求婚を受け入れた理由の一つなのよ」
「えっ!嘘でしょう、姉さま?」
微笑しながら話す姉の姿に、サファイアは困惑しっ放しとなった。
「ふふ、半分嘘よ。いくら大切な妹のためと言っても、財力があるなら生理的に受け付けない人でも選びましょう、なんて器量は私にはないもの」
スズランは笑っているのに。
妹だからわかる。
「……本気……なのね?」
「ええ。だからできる限り早く帰って来なさい。でなければ、あなたは私を一生一人身にしてしまうわ」
とんでもない宣言を聞いたことは確実だった。
けれどサファイアは不思議と焦りを感じなかった。
それどころか、いつの間にか姉と共に笑い合っていた。
こんな風に笑ったのはいつ以来だろう。
そんな無意味なことを考える暇も持たないまま、これまで自分は生きてきたのだ。
それはなんと息苦しいことだっただろう。
よく自分の精神は爆発しなかったものだ。
(ううん、本当はすぐそこまで来ていたのかもしれない。もう、糸は切れかかっていたんだと思う。ギリギリで間に合ったんだわ)
「……姉さまとこんな話ができる日が来るとは思わなかったわ」
「……私もよ。不思議ね……私たち家族だったのに……」
知らず涙が零れ落ちる。
それは、なぜか温かく感じられた。
「うん。――行ってきます、姉さま」
「いってらっしゃい。――信じてるわ」
店を出た瞬間、サファイアは一度目を瞑った。
(――さよなら。この家に生まれてきたことに深く感謝いたします。そして、姉さま。ごめんなさい。あなたには必ず男爵と結婚してもらうわ。私があなたと二度と逢えずとも――)